宮沢賢治「雪渡り」のレポート

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「文芸特殊研究Ⅱ」受講生の「雪渡り」の感想文を紹介します。まず「雪渡り」を読んでレポートを書いてもらったのが先々週の月曜日。学生たちは何の先入観もなく、テキストを読み、感想を書いた。課題はブログに載せた私の「雪渡り」論を読んで再びレポートを書くこと。

雪渡り」を読んで
放送学科 目崎 光太

古川愛の「雪渡り」より。『ケンジ童話の絵本と漫画』(日本大学芸術学部文芸学科研究室「雑誌研究」編集部発行。発行人清水正。2006年2月25日)

 この作品を読んで思ったのが、「どんぐりと山ねこ」と同様に、この作品にも勿論、表層舞台と深層舞台があるということである。それは「どんぐりと山ねこ」の清水先生の見解を読んだからなのだろう。清水先生の見解を知らなければ私は一生、ケンジ童話やその他の様々な作品の表層舞台と深層舞台という二面性の存在を知らずにこのまま年をとっていっただろう。しかし正直言うと、清水先生の見解を最初に読ませて頂いた時は、「本当なのかな。無理やりこじつけているようにも思えるけどな。」とあまり腑に落ちなかった。それは私が幼少期からメルヘン童話やディズニー等の作品に数多く触れてきて「どんぐりと山ねこ」や「雪渡り」もそれらの類の作品と同じような感覚ですらすらと読めてしまったからであろう。しかし、それはやはり間違っていた。清水先生に解釈には根拠があり、どれも納得せざるを得ないのである。「雪渡り」を最初読む時に、「もう僕は大半の読者にはならない。何か一つでもこの物語の深層(真相)を見つけ出してやる、と意気込んだが、結局、疑問点は見つけ出せても、その深層(真相)までは解明できない。「そんなの当たり前だ。調子に乗るな。」と先生には言われそうであるが、確かにその通りなのである。まず第一に、物を知ることが必要なのである。深層心理学ドストエフスキー文学などの知識の基盤をまず作らなければならないのであろう。それが今の僕にとっての第一の課題である。
 清水先生の「雪渡り」論を読んでみると、この物語の深層(真相)は想像以上に恐ろしく哀しいものであった。まず冒頭の「堅雪かんこ、しみ雪しんこ」というセリフ。確かにこのセリフは誰が言っているのかわからない。しかも妙に耳に残る響きだ。冒頭からこのセリフだと、最初から四郎とかん子の運命は決まっていたということなのだろう。「四郎は死んだ子」「かん子は棺桶に入った子」という「四郎はしん子、かん子はかんこ」という白狐のセリフに隠された深層(真相)は鳥肌ものである。この童話には、可愛らしい【白い狐の子】や最後に出てくる【可愛らしい狐の女の子】など可愛らしいもの尽くしである。だから私もまんまと、作者と語り手、そして紺三郎にしてやられたのである。【宮沢賢治はどんな手を使って読者を騙しにかかるかわかったものではない。美しいものが醜いものであり、可愛らしいものが悪魔だったり】という清水先生の言葉を今後、胸に留めておかなければならない。「どんぐりと山ねこ」の場合、山猫は気味が悪かったのだが、今回の「雪渡り」での白い狐の子という可愛らしいキャラクターだからと油断して、カウンターパンチを喰らった気分である。
 しかし、四郎とかん子は何故死ななければならない運命だったのだろうか。こんなにも幼い二人の子供が、口のうまい紺三郎の話術に騙されない筈がないだろう。大人でも騙される程の紺三郎の話術は恐ろしい。ケンジ童話で痛い目にあうのは「どんぐりと山ねこ」の一郎や、「注文の多い料理店」の二人の男のように、主人公にも制裁を受けなければならない非があったように思える。(一郎の場合は、自分の内にあるオイディプス的野望であり自覚はなかったのではあるが。)しかしこの二人の幼い子供に何の非があったのだろうか。最初から、死という運命を義務付けられたのには何の理由があるのだろうか。あまりにも哀し過ぎるではないか。ましてやかん子に限っては死を逃れることができず、人間として死に、狐の嫁に行かなければならない。もし私に将来、娘ができて、その娘がこのような運命になると知ったら絶望するだろう。何とかその運命を自分の手で変えてみせようとするだろう。しかし、ケンジ童話は【大人の参入】を一切許してはくれない。こんなことを想像するだけで気が滅入りそうだ。
 先生の見解を読んで、もう一度この作品を読み返してみると、最後の「二人は青白い雪のまん中で三人の黒い影が向ふから来るのを見た。」という部分の【黒い影】を語り手は「迎ひに来た兄さん達でした。」と書いているが、私には【三人の黒い影】は地獄への使者に思えてならない。清水先生が指摘しているケンジ童話の特徴である【作者と語り手、話に登場する者(それは一見可愛らしいが実は悪魔のように何かを企む者)との共同作業によって作られた、一見ただのメルヘンだが実際は何よりも恐ろしい深層(真相)舞台がある】という事から考えても、この語り手の「迎ひに来た兄さん達でした。」という言葉を鵜呑みにするなど到底出来ない。しかし、宮沢賢治はこの作品で何を伝えたかったのだろう。「どんぐりと山ねこ」のようなオイディプス劇ではないし、「注文の多い料理店」のように腐った人間に制裁を与える類の表層舞台でもない。この子供達に何か非があるように私には思えないのだ。「雪渡り」とは、最初から【死】という運命を義務付けられた子供達の単なる哀しい物語なのだろうか。何というか、非常にいたたまれない気持ちである。