「文芸特殊研究Ⅱ」は宮沢賢治の童話が題材(連載3)


雪渡り」紺三郎を演じて

成瀬光憂


 幼い頃絵本で読み、その幻想的な世界観に魅了された宮沢賢治の「雪渡り」。まさか大学生になってこの物語を演じることになるとは思ってもみなかった。それも今までこの作品に抱いていた印象のまま演じるのではない。私は文芸特殊研究という授業で「雪渡り」の美しくも怪しく恐ろしい一面を知ってしまったのだ。
 私が演じた役は紺三郎という名の白い小狐だ。雪渡りを初めて読んだときは小さく愛らしい紺三郎に可愛らしいなぁ、という印象しか抱かなかったが授業を受けてからは違う。この紺三郎こそが雪渡りという物語の悍ましい死への案内人なのだ。雪渡りは幼い兄妹を冥界へ誘う物語だとこの授業で考えさせられた。冒頭の声は四郎とかん子のものではなく、兄妹を死へ導く怪しい風の声。白銀の世界はこの世のものではない。そして小狐紺三郎は嘘に身を固めながら幾人もの死を見届けた死神と言ったところか。
 先生が私にこの役を演じさせたのは、間違いなく春先の私の格好のせいだろう。私は春頃、白い狐の面を被り、着流しで下駄を転がしながら大学へ通っていた。字面だけみると相当おかしな奴だろう。そして恐らく実際に見たらもっとおかしな奴だったことだろう。こんな妙ちくりんな女に一年間授業を受けさせて下さった先生と共に授業を受けて下さった文芸学科の皆さんには頭が上がらない思いである。それはさて置きそんな風だったからこそ私にこの役が回ってきたのだ。これは紺三郎として役目を全うせねばと思ったのも束の間、授業が進むにつれ「演技の授業じゃないにしてもこの役は私には荷が重い…」と感じ出した。紺三郎、ただの愛らしくちょっぴり賢い小狐だと思っていた。「こんなに可愛らしい役私がやって大丈夫かなぁ」とか暢気に考えていた私は愚かである。授業の中で正体を現した紺三郎は、千年も生き、白く大きな肢体を持ち、巧みに人間を騙す化け狐だったのだ。これは困った。見た目に関しては小狐よりも化け狐の方がよっぽど似合うだろうから良いのだが、問題は中身だ。幼稚園のお遊戯会さながら可愛らしくキツネさんを演じていればいいだろうとたかをくくっていた。甘かった。前に出て実際に演じてみて、上手くいかないことといったら。読み込めば読み込むほど、紺三郎の新しい一面が見えてくる。それは楽しくもあったが演技の課題が増えていくので複雑な気持ちだった。
 だが実際に演じるのは、腐っても私は演劇学科の人間、やはり楽しかった。裏方専門なので普段人前に出ることはなく久々の人前には緊張も照れもしたが演じ出してしまえばなんてことはない。しかしまさか文芸の授業で演劇学科より演劇学科らしいことをするとは思っていなかったが。私の他にもナレーション、四郎、かん子、鹿の子などの役者が揃い、
狭い教室の中で宮沢賢治の描いた「雪渡り」世界が展開された。私は大きな木に見立てた教卓の裏から姿を現し無邪気な二人の子供、四郎とかん子を騙し死の世界へ引きずり込むため試行錯誤した。本を読み込むと見えてくる、紺三郎の言葉と動きの矛盾。嘘は吐いていないと言いながら兄妹を騙そうとまくしたて、嬉しそうに笑いながら悔しそうに腕をばたつかせる。可愛らしい小狐の後ろに垣間見える大きな化け狐の姿に薄ら寒いものを覚えながらも私は紺三郎に体を空け渡した。そして四郎とかん子にいかにして団子を食わせるか悩み、それに失敗して悔み、幻燈会に誘う。最初はぎこちなかったものの、だんだんと体が紺三郎のものになってゆくのを感じた。それは声音であったり、表情筋のちょっとした動きであったり、四郎とかん子役の学生を見る目であったり、気持ちの高ぶり方であったりした。教室の中に冷たい風や白銀の雪、それに照りかえる太陽の光や雪に沈みながらも鬱蒼を茂る森を見出した。ナレーションの声は存在はあれども私の耳から遠ざかり写実的な情景を浮かび上がらせ、騙すべき獲物である四郎とかん子の姿は騙されやすい無垢な子供として私の目に滑稽に映り、親しい友人の聞きなれた声は風に乗り怯えた小鹿の細い歌声として私のもとへ届いた。
 文学作品をこんな方法で読み解くことになると思ってはいなかった。流石日芸の授業といったところか。この授業で私はわりと様々な役を演じてきた。それは山猫、風、ダァリヤ、マナヅル、私は人間以外の何かになってきた。紺三郎はその集大成といえる役柄だろう。昔から好み親しんでいた宮沢賢治の作品たち、私はこの授業でさらに深く作品と関わり、交わり、少しだけかもしれないがその深淵に触れることができたように思える。紺三郎という私がほんの少しの時間人生を貸した狐が私と宮沢賢治の世界を結び付け、憑りつかせ、離れられないようにしてしまったのだ。紺三郎に魂を売ったこの経験はこれからも消えることなく演劇と文学を愛する私に影響するのだろう。そうして私は白い狐憑きとして生きてゆくのだ。まったく、楽しみである。