「文芸特殊研究Ⅱ」は宮沢賢治の童話が題材

日藝所沢校舎での「文芸特殊研究Ⅱ」は宮沢賢治の童話が題材。「どんぐりと山猫」から始まり、「まなづるとダァリア」「オツベルと象」そして今回紹介する「雪渡り」で最終回。朗読、演技で授業は進む。文芸学科の専門課目だが、例年演劇学科の学生も多数受講している。最終回はビデオ撮影もした。今回は去年12月3日の授業風景の写真と受講生嶋津きよらさんのレポートを紹介する。


雪渡り』を演じるのを観て 

嶋津きよら
(文芸学科一年)


 きつね、ねえ。一体どうなることかしらん。そう思った。
 一番後ろの席に陣取って、教室全体を見渡せるようにして、講義のお供に紙パックの玄米茶を携えて。それが私の基本スタイルである。受講生一人一人を見ることのできる位置は、ここと教壇くらいのものだ。のんびりと、他の受講生たちが演技している姿を後ろから眺めるのが、実は結構好きだったりする。ここに茶菓子があったらなあなんて思うけれど、どうせ食べ終わったら寝るんだろうなあとも、思う。毎週月曜日は、そんなことでいちいち葛藤しながら、講義開始を待っている。
 講義が始まる十分ほど前、今回のテクストを確認する。ゆきわたり。そうかい、雪渡りかい。ところで雪渡りってなんだい。また賢治の造語かい。題名に疑問を持ちながら、とりあえず、その一に目を通す。最初の方はどれが誰の台詞か分からんなあと思いながら、清水先生の到着を待った。
 講義が始まって、何人かが指名され演技をすることになった。前に出た学生たちの学科を聞いて、思わずえっと驚きの言葉を発してしまう。演劇、映画、文芸。きれいにばらけたなあというか、何というか。どうやら、思っていたよりもこの講義には別の学科の学生も多いようだ。一年間この講義を取っていて、今までまったく気付かなかったのか言われると、どうしてだろうねえくらいしか答えようが無い。基本的にここに居る学生たちは仲間内でしか話さないのだから、知らなくて当然だとも言える。みんなシャイなのかなあと思いつつ、よく通る声に耳を傾けた。
 四郎役の男の子は、男性陣の中で唯一まともに講義を受けに来ている真面目な人だ。偉いなあと思いながら、その片隅に置かれている週刊誌を見て、やっぱり違うかもなあとも思う。でもやっぱり彼は真面目だから、大きな声で堂々とした演技を見せてくれた。子狐をからかう姿も様になっていたし、背中に妹を隠す姿も、ああやっぱり男の子なんだなあと、その場を和ませてくれた。文芸学科にも、こんなに面白い人材がいるものなのかと驚きながら、次の台詞を待った。
 かん子役は、映画学科の二年生。何故かこの講義ではオッペルちゃんと呼ばれている人だ。小柄な彼女が四郎の後ろに隠れているのを見て、妹やら末っ子やらというのはこんな感じなんだろうなあと思った。そこで、はてと首を傾げる。かん子にはたくさんの兄さんたちがいるが、それより下の子の存在は明確にされていなかったはずだ。ならば、彼女は末っ子なのだろうか。でもそれなら入場券を貰う時にしっかり申告しそうなものだけどなあ。どうなのだろう。オッペルさんを見ながら、あまり末っ子っぽくないなあと思った。なんだかんだ、彼女はしっかりしている人なのだ。まあこの講義の内容にはあまり関係ないかと、考えるのを止めた。せっかくの機会なのだから頭を空っぽにして観ようじゃないかと、視線を元に戻す。ぼんやりそれを眺めながら、ちょこまかしているなあと思った。まあ、外見がよろしいというのもあるのだろうけれど。しかしさすがドルクラ、声までかわいい。彼女のイメージが寝ている人から、妹役に変わった瞬間であった。
 きつねさん。子狐役は、春にきつねのお面を着けていたあの人である。清水先生のことだから、狙ってその役につけた訳ではないのだろうけど、思わずなるほどなあと笑ってしまった。もうお面はないにしろ、この教室にいる学生は皆、彼女がきつねだったことを知っている。ぴったりの役だねと、いうたくさんの無言の視線がそちらに送られるのを、私は愉しみながら観ていた。
きつねと聞くと、ずる賢い動物であるという印象が強い。きつねとたぬきだったら勿論後者のほうが好きだし、たぶんそちらの方がよっぽどまぬけで愛嬌がある。いや、猫のえさを横取りしてその日のご飯を賄うような奴だけど、お腹がすいたからって、つい人の家の窓を叩いてしまうような奴だけど、やっぱりたぬきは可愛いと思う。どうしてきつねにそういう感想を抱かないのかというと、やはり神聖な存在であるという印象が強いからだろうか。実際に、このテクストでもきつねは妖しげな存在として描かれている。この役がなんだか恐ろしく感じたのは、きっとそれが原因だろう。四郎とかん子に語りかける子狐の存在は、まるで夢の中の登場人物が話していることのように、おぼつかないものに思える。しかしそれでいて、子狐の台詞はなにか隠されたものを臭わせており、その存在が確かにここにあることを訴えているように思った。実際に人がその台詞を口にしてみると、その内容の違和感が際立つ。もしかしたら、子狐に化けた古狐じゃないのかしらんと、言葉の裏に隠れる本音を探りながら感じた。
 数人が演技をしているのを観ながら、黙読するのと口に出して読むのでは、きっと大きな差があるのだろうなあと思う。残り少ない玄米茶をストローですすりながら、来年の受講生たちはなにを演じるのだろうと考えていたら、いつの間にか腕相撲大会が始まっていた。おかしいなあ。『雪渡り』はどこに消えたんだろうなあ。