『ドストエフスキーを読みつづけて』に寄せて

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下原敏彦・康子著『ドストエフスキーを読みつづけて』(D文学研究会)は現在、刊行に向けて編集をすすめていますが、栞に収録する文章を縁のひとたちに書いてもらっています。今回は出版に先駆けて、下原敏彦さんの日芸の教え子である高橋享平さんの文章を紹介します。

 或る「おかしな人間」の弟子からの手紙

高橋享平
 二年次にお世話になった下原敏彦先生が、このたび奥様とおふたりで新著を出されるとの事。
 一〇月三日の夕刻、私はその旨を清水正先生よりお電話で伺いました。勤務している特別養護老人ホームで雨中の秋祭りがあり、そのささやかな打ち上げの集いに向かう途中のことです。
「そういうわけだから、二年次ゼミ生だったタカハシ君にも何か書いてもらいたいんだよね!」
 卒業から半年ぶりに聞く、石炭を満載して激走する蒸気機関車のような清水先生の御声。どうせ同僚か誰かからの着信だろうとタカをくくっていた私は、職場の駐車場に棒立ちしてハイ、ハイ、と返事をしながら、その実ただただ面食らっていたのです。半年ぶり、のその半年が、もう一昔前のように遠く感じられました。
 脳天に雷が落ちた心地で、「わかりました」と辛うじてお返事しました。そして電話の終わった後、私はとんでもない事に気づき二度呆然としたのです。
(頂いた本の御礼状を、まだ書いていないじゃないか!)
 本、というのは、今年三月に下原先生が出され、それから間もなく私へ送ってくださった『山脈(やまなみ)はるかに』(D文学研究会)の事です。仕事の合間を縫って拝読させて頂いたものの、次の休みの日に、また次の休みに……と先延ばしにしているうち、御礼状をお送りしないまま半年が経ってしまっていたのでした。
(我ながら呆れた奴だ! 手紙ひとつまともに出せないくせに、こんな大事な原稿を引き受けてしまって……あじゅうすっぺ!)
 千葉弁で我が身の不調法を嘆いてみても、何を今更という話ですね。晴天を貪る怠け者のところへ、とかく雷は落ちるものなのです。

 それでは改めて。下原先生、ご無沙汰しております。
 〇七年度下原ゼミⅡ生、DJクマグスこと高橋享平です。
 この原稿。清水先生からは「ゼミ生時代の思い出などを」というお話で承っているのですが、どうやらこのまま、滞りに滞った土壌館道場宛のお手紙になってしまいそうです。
 さて先生。突然ですが、私は今素っ裸で風呂場にいます。
 湯船にはチリチリ肌を刺す四三℃の湯が半分ほど。上半身を濡らさぬよう腰から下だけを浸かりながら、もう二〇分もまんじりとしています。いわゆる半身浴というやつですね。
 そんな格好で、私はいま一冊の文庫本を読んでいます。ドストエフスキーの『貧しき人々』(木村浩訳、新潮社刊)。
 二日ほど前から読み始め、そろそろマカール・ジェーヴシキンの手紙にラタジャーエフが出てくるあたりです。本を湯船に落とすようなヘマはしませんが、二〇分も入っていると流石に頁がヘロヘロになってきますね。
 そして汗。首筋や背中からじりじり噴き出てきます。代謝が上がっているから当然といえば当然なのですが、同時にそれは文章を追う眼球の奥の視神経からも、雑巾を絞るようにだらだらとこぼれて来るのです。惨めな小役人と薄幸の少女の交感。ふたりの人間から怒涛のように溢れてくる生の言葉、圧倒的なまでの自意識。辛うじて生き残っていた僕の正気が「そろそろのぼせるぞ」と警告してくれますが、しかし頁をめくる手を止めるわけには行きません。
 ――『貧しき人々』は吹き出る汗なしに読めないものだ。
 私の体には、そんな刷り込みが今も残っています。寒風吹きすさぶ一九世紀のペテルブルグに物語を追いながらも、マカールとワルワーラの手紙に眼を凝らす時。全身がうっすらと汗を掻き、くたびれきった感触をどこかで求めてしまうのです。
 下原先生、きっと覚えておいででしょう。
 夏のゼミ合宿、そのメインイベントたる『ドストエフスキー体験』。五人のメンバーで一晩かけて踏破したリレー朗読会の題材が、この『貧しき人々』……私が人生で初めて読みきった、思い出のドストエフスキー作品なのです。
 文章を肉声へ載せる事で、私たちはそれを質量として対峙します。想像力だけで読んでいた小説が、直に身体へ肉薄してきた瞬間。それは同時に、四月からお付き合いいただいていた下原先生のイメージががらりと変わるターニングポイントでもありました。
 より言葉を選ぶなら、それはひとりの人間が持つ幾つもの要素/フラグメントが線で繋ぎ合わさり、『下原敏彦』というひとつの大きな星座を描いた……そんな感じかもしれません。

「下原先生ってどんな方ですか?」
 〇七年、春。進級しゼミが決まると、私は何人かの先輩に尋ねてみました。ある先輩は「優しい人だよ」と言い、またある人は一言「癒し系」。柔道をやっている方らしいとも伺いました。そんな前情報を踏まえつつ迎えた下原ゼミ一日目……というのは嘘ですね。
 初日に出そびれた僕は、翌週から参加させていただきました。「小児科の先生みたいだな」というのが、初めてお会いした先生の第一印象。柔道というキーワードから連想しがちないわゆる体育会系の雰囲気とは裏腹な、穏やかで馴染みやすく、ありふれた雰囲気。失礼ながら、あまり芸術学部の先生っぱくないなぁと思ったりもしたものです。
 あの日ゼミ室には僕含め、四人の学生がいましたね。去年から付き合いがあり、よくノートを貸してくれたY君。長期休暇には海外でバックパッカーをしていた女傑Hさん。マジック研究会のほんわか女子Mさん。その翌月には去年同じゼミだったK君が加わり、件の『ドストエフスキー体験』メンバーがそろうことになります。
「先週のガイダンスで『少年王者』の紙芝居を見せたんだけど……」
 恵比寿様のように目を細め、下原先生は笑って仰られました。『少年王者』は戦後間もなく発売された、和製ターザンとも言うべき山川惣治の冒険絵物語。それを先生は、戦前に山川が描いていたという紙芝居の姿へと再構成されているところでしたね。
「……みんなあれ見て、びっくりしちゃったみたいでね」
 それでこの人数か、と私は得心しました。しかし先生……やはり残念そうではあるんですが、叱られるとわかって仕掛けたイタズラで、やっぱり叱られたガキ大将のような確信犯的やんちゃさも、今となっては混ざっていらっしゃったようにお見受けします。
 思えばあの時から、先生は既にさまざまな顔を見せてくださっていたのかもしれませんね。

 さて先生。
 下原ゼミⅡは車中観察をテーマとした作品を毎週の課題とされていましたね。私の提出頻度はあまり思い出さないで下さると助かります。先生は授業のたびに作品を集められては、次の週にそれらを編纂して配布されるわけですが、この配布物……『下原ゼミ通信』を頂くのが、授業開始の合図でしたね。
 ゼミ生の作品や授業ごとの研究課題はもちろん、前回の授業ハイライト、はては時事問題に関する先生のコラム……週一とはいえ、ちょっとした情報系フリーペーパー並みのもの。途中からは東南アジアを舞台にした冒険活劇『キンチョウ〜サムライの約束』も始まり、ゼミ終了まで内容の充実振りは衰えることがありませんでした(これらのバックナンバーは先生のホームページにて閲覧可能です。『土壌館創作道場』にて請う御検索)。
 先生。最近、通信を読み返し私は考えます。
 同じことが果たして自分にできるか。卒業と同時に働きはじめて半年、未だ掌編ひとつ脚本ひとつ仕上げられずにいる自分を省みる時、情けなさと同時に驚かされ、また励まされもするのです。
 打てば響くといわんばかりの瞬発力。
 発表し続けるバイタリティ。
 そして、失敗を恐れない挑戦心。
 それらは確かに自分に無いものですが、同時に決して手に入れられないものではない。僕が感じるのは、そんなささやかな希望です。先生にとって、それらは特別な環境や莫大な資産によってではなく、ただ真摯に生きることで獲得されてきた……そのような種類の力なのではないかと思えるのです。
 派手ではなく華やかでもない。ただ市井の一文筆家、一柔道家として、そこに座し、時代を見つめ続ける。その先にある嘘のない強さもまた、下原先生の持つもう一つの顔なのではないでしょうか。
 『山脈はるかに』の主人公・谷蕗子は、東京で音楽の勉強をするという夢を封じられ、伊那谷で代用教員として働くことになりますね。渋々選んだ教育の道。けれども子供たちや桑谷の人々とのふれあいの中、伊那谷に根ざして生きていく道を選び取った蕗子の姿に、重ね合わさるある人物がいます。
 それは先生の随筆『書を拾い 家へ戻ろう』(『ドストエフスキーを読みながら〜或る「おかしな人間」の手記〜』に収録・鳥影社)にて綴られし、かの御母堂のお姿です。
《田舎の大家族の中で四六時中、野良仕事に追われる母は時折、ふと桑摘みの手をとめ、彼方の赤石山脈をぼんやり眺めていた。峰の向こうに東京があった。母は都会に行けば書が読めると思っていた。が、叶わぬ夢だった。代わりに私がその峰を越えた。》
 ファインダー越しに屈託の無い笑顔を輝かせていたあの敏彦少年は、かくして赤石の山々を越えましたね。そこにあなたを待ち受けていたのは、かの中島みゆきが『シュプレヒコールの波』と表現した時代のうねりでした。寺山修二とその死、背を向けた学生運動三島由紀夫の影で死んでいった森田青年……その全てが『時代』そのものであり、同時に末期の閃光を放ちながら、等しく時代へ呑まれていった無名の兵士でした。呑み込んだのもまた、無名の大衆という名の『時代』でした。

 シュプレヒコールの波 通り過ぎて行く
 変わらない夢を 流れに求めて
 時の流れを止めて 変わらない夢を
 見たがる者たちと 戦うため
中島みゆき『世情』より)

 時代を見つめる真摯な瞳には、時折雷光のような怒りがさします。
 ただ時代と踊った者は、ただその中で我が身も省みず乱痴気騒ぎをし、荒らした野を指差して『時代が悪かった』『政治が悪かった』と嘆いていれば事足りるのです。そこに咲くはずだったかもしれない、可能性の花を踏みにじる事も知らずに。

「人は流れに乗ればいい。だから私は君を殺す!」
(富野由悠季監督作品『機動戦士ガンダム』より)

 先生。時代を見つめる目とは、どのような視座で培われるものでしょう。それを思う時、私が思い出すのはあの土壌館道場です。そういえば、奥様と初めてお会いしたのもその日でしたね。
 二年次を終えた春休み、私は先生のお招きで船橋へ足を運びました。市街の喧騒から離れた静かな住宅地。一見すると幅広の、平屋造の商店かと思われたその建物へ近づくにつれ、ドスン、バタン、という威勢のいい受身の音とともに、子供たちの元気いっぱいな掛け声が聞こえてきました。
 その日は年度最後の稽古で、そのまま道場では六年生を送る会が催されましたね。その席で、あの『少年王者』の紙芝居講談をするのが、私のその日の仕事でした。なーに大丈夫、ゼミで何度も練習したし合同授業で発表もした……正直そんな風にタカを括っていましたが、いざ稽古に取り組む二〇人近い子供たちを見、そして一同に座した彼らに真正面から見られた時。
 大げさですが、私は生まれて初めて『紙芝居屋』として紙芝居を読んでいました。子供たちのまっすぐな視線と相対し、私は否応無く真摯にならざるを得なかった、というのが正直なところです。子供だましが通じるのは大人だけだ。子供へまっすぐ話しかけられもしない奴がドラマを作れるか。どこかの役者かテレビマンが叫んでいた、そんな言葉を思い出していました。
 『少年王者』を読み終わった時、私は合宿所の夜を思い出していました。あの日のように、首元がじっとりと濡れています。眼鏡をかけた五、六年生ほどの男の子がこちらへ駆け寄り「すごく面白かったです!」とはきはきした声で言ってくれたのですが、あまり気の利いた返事をできなかったのが悔やまれますね。
 私は今、下原先生と同じ視座で世界を見ている……それは『貧しき人々』を六人で踏破した時に似た、不思議な感慨でした。

 先生、不覚です。
 他にも色々お話したいことがあったのですが、そろそろ『貧しき人々』の表紙までふやけてまいりました。その割にろくすっぽ舌も頭も回っていないのは、ひとえに不肖の弟子の不肖たる所以です。
 またお会いしましょう。大学やゼミのお話、道場の子どもたち、読まれた本のお話などお聞かせください。
 もちろん素っ裸でなく服は着て参ります。幸か不幸かマカールさんほど入れ込む相手もいませんので。ただ仕事柄か最近腰が痛むもので、楽な体の使い方などアドバイスいただければと思います。

 それではまた――近いうちに!