猫蔵の日野日出志論(連載13)

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猫蔵の日野日出志(連載13)

『ギニーピッグ2血肉の華』論⑤

猫蔵と日野日出志先生 撮影・清水正
それでは、映像作品『血肉の華』のもつ眼差しが、女の血と肉を越えてなお、目にしようとしていたものとは一体何なのか。正確に言えば、女の血や肉も、そのベクトルが指向する流れの上に乗った一具象であり、ここで問うべきは、ベクトルそのものの性質である。
 先に、これを「剥き出しの思向」と命名した。カメラの眼差しは、しばしば監督や撮影者の肉眼を超え、彼らの目には捉え切れなかったものを映し出す。
『血肉の華』においても同じことが言える。『血肉の華』という映像作品の意思は、その題名が示す通り、どこまでも女の血と肉を指向しているように映る。しかし、それは半分正しくて、半分は間違っている。本編の印象深いシーンに目を凝らすと、血と肉を掻き分けて更にもっと奥深くへと辿り着こうとする、作品自体の意思を意識しないわけにはいかなくなるからだ。
 もっとも顕著なシーンをひとつ挙げたい。本編終盤、マサカリの一太刀によって女の首を切り落とした鉄兜の男が、解体行為の果てに口にする言葉がある。それは、次のようなものである。
「さて、最後の仕上げは、宝石をとり出すことだ。ああ、おんなのからだのなかで、もっとも美しいもの。それが、これだ」。
 次に女の目の接写となり、見開かれた目にスプーンの先端があてがわれる。スプーンの先端は、眼球の丸みに沿って目の奥へと差し込まれ、目玉を掘り起こす。最後に男の指が、飛び出た眼球の根をブチンと捻じ切る。スプーンの先端に乗った目玉を男は凝視し、そしてそれを摘みあげると、舌の上に押し当て、その丸みを確かめるようにズルズルとしゃぶり始める・・。
 この男にとって、究極的に目指すべき女の美とは、その血と肉の部分にはなく、“目”のなかにこそあった。
 女の、血と肉の部分を突き詰めていけば、最後に到達するのはヴァギナ(女性器)であろう。しかしながら、登場人物の男は、女の“目”こそが彼女のからだのなかで最も美しい部分であると言い、これを愛撫しはじめる。そこまでの“血と肉”から“目”へと至るためには、飛躍が必要だろう。ならばこの男ははじめから、ヴァギナへと至る手立てとして、女の血と肉を希求していたのではないと考えるのが妥当である。本編における血と肉の解体とは、ヴァギナへの呼び水などではなく、“目”へと至るためには避けて通れない、通過儀礼であったのだ。
 作品本編が時を経過していくに従い、血みどろの度合いを増していくのと反比例し、作品の意思は絶えず、血と肉の更にその奥にあるべき、空白を意識するようになる。カメラの眼がその空白を映し出し得るか否かは、誰も知る由もない。ただ、カメラという機器は、そのことを疑いなどしない。
『血肉の華』という作品の意思が指向しているものを、仮に“空白”と表した。これは、血と肉の具象である赤色との対比、あるいは、ぎっしりと詰め込まれた血と肉に対する反語の意味をもっている。はじめからそこになにもないと断定するのは早急だが、あえて空白という言葉を用いたい。
 例えば私は、自分自身が視覚というものに執着した人間であると自覚しているが、みずからが欲しているものを大別すれば、<見たいと欲しているもの>と、<見たくないと欲しているもの>の、ふたつに分けられるように思う。いずれも、私自身が欲しているものに違いはない。ただ、私が映画・映像作品を含め、カメラのレンズの眼差しを通じて見ようと欲しているものは、どちらかといえば、思いがけず映し出されてしまった<見たくないと欲しているもの>である傾向にある。
 作家の三島由紀夫は、著作『仮面の告白』のなかで、裸の若者たちに担がれた神輿の閉ざされた扉の奥に、公然と君臨する四尺平方の闇を見たという、幼少時のみずからの眼差しについて記述している。目の前を行く神輿の行列に対し、恐怖にも近い喜びを覚えながらも、彼はまた同時に、それら恐怖や喜びには飽き足らない。それらを掻き分けた先の、「空っぽ」を指向する。神輿の閉ざされた扉の内に君臨する四尺平方の闇とは、三島自身が<見たくない>と欲していたものである。三島由紀夫とは、不断にカメラ的眼差しを備えた作家だといえる。「公然と君臨する四尺平方の闇」という表現から読みとれるのは、たった四尺(約1メートル30センチ)に過ぎない闇の中に見出されている、底知れない奥行きである。
 闇とは、空白のことだ。すなわち、空っぽのことである。神輿という、神が乗る乗り物の閉じられた扉の奥に、空っぽの闇を見てしまったのである。ひん剥いたら、八百万の神々どころか、たった一個の理性ですら、そこにはいやしなかった。日本の若者たちが汗まみれになって祭り上げていたものとは、空っぽの闇であった。
 私は、三島の場合、彼が<見たくない>と欲していたものこそ、本人がもっとも目にしてしまう可能性の高いものであったように感じる。
 我々はここで、男衆に担がれた神輿の閉ざされた扉の奥に、闇の片鱗を垣間見た三島の、血の気が引いていくような感覚を思い出さない訳にはいかなくなる。三島はこの闇の片鱗を<見てしまった>のであって、けしてみずから見ることを望んでいた訳ではないことに留意すべきだ。三島という人間にとって空白とは、その自意識が真っ先に見ることを拒んだもののようにさえ思えてしまう。結果として、その感情を厭うことなくすべてを見てしまう三島由紀夫とは、その存在自体が、一個のビデオカメラの目のように感じられると言ったら言い過ぎであろうか。
 映像作品『血肉の華』に登場する、鉄兜を被った白塗りの男もまた、みずからの手で女の血と肉とを掻き分けながらも、その行為に完全に酔いしれている訳ではなかった。その証拠に、みずからを映し出すカメラの眼差しを、絶えず意識していた。カメラを意識するということは、他者の目を意識するということである。鉄兜の男のこの行為は、あくまでも理性的であるがゆえに、恐ろしい。女の肉体をバラバラに切断しながらも、完全には狂気には陥っていない、男の理性に気付くからだ。男は、<血と肉の華>に開花した女こそがこの世でもっとも美しいものだと言い放ち、「それをこれからご覧に入れよう」と、観る者を促す。この言葉から、男が希求するものが、男自身の主観に完結するものであってはならず、等しく他者と共有され得るものでなければならないことが分かる。それはなにより、男自身が、みずから感じる美に、完全には酔いしれていないことを意味する。
 女の太モモを鋸切りで切断する場面では、男はその拙い手さばきゆえ、息も絶え絶えになっている。鋸切りを動かす様子は、狂気を感じさせるものではない。むしろ、カメラの前で狂気然と振舞えないことに、焦っているように見える。
“剥き出す”という行為は、現状に充足していない動機を発端にするが、ではこの男は、血と肉に囲まれたその中心に、なにを想定しているのか。―普通に考えて、血と肉の奥にあるものは、やはり血と肉でしかない。それでもなお、その中心部にぽっかりと空いた空白が想定されるとすれば、それは男自身が、血と肉の只中にあって、それらを超えたものを欲しているからに他ならない。解体行為の果て、鉄兜の男が愛撫したのは、女の眼球であった。捕らわれの女の、内臓を剥き出した末に獲得した眼球である以上、この眼球は、象徴の上では、女の内臓の奥に埋もれていたものだ。中心に位置するべき血と肉(ヴァギナ)を超えたものを欲しながら、血と肉に留まざるを得ない現状がある。
 殺人者の男は常に、カメラを意識していた。そして、その男の行為を再現し、撮影するということは、監督自身が、男の行為を再生産することに等しい。ありのままの事実がカメラによって映し出されているのではない。カメラが、殺人者(鉄兜の男)を、描写しているのである。ここにおいて、描き手(監督)と描かれる側(殺人者)との境界は、限りなく曖昧になる。ある事実を「再現」したに過ぎない監督・日野日出志なる人物が、どこか、殺人者自身であるような印象を抱かせるのだ。

猫蔵・プロフィール
1979年我孫子市生まれ。埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。清水正教授に師事。日大大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。著書に『日野日出志体験――朱色の記憶・家族の肖像』(D文学研究会)がある。本名・栗原隆浩