南青山へ「鈴木孝史作品展」を見に行く(連載2)

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「鈴木孝史作品展」を見る(第二回)
鈴木孝史さんの作品展(ギャラリーストークス・南青山)の印象に関しては前(七月二十五日)にブログで発表したが、まだ書きたりないことがあるのか、今日、朝、目覚める前に頭の中に次から次へと批評の言葉が湧いて出てきたので、それを記しておくことにしたい。

展示室には白い壁に十何点かの写真が整然と一列に展示されていた。椅子もテーブルも白一色に統一されているので、展示室に入ると同時に静謐な聖なる時空間が現出する。酷暑の外界からエレベーターに乗って冷房のきいた展示室に入ったことも手伝ってか、いきなり異空間に潜り込んでしまったような感覚におそわれる。

会場は建物の四階、エレベーターを出るとすぐ正面に来客名簿が机の上に置かれ、その上の壁に一枚の写真が飾られている。これは雄牛の大きなお尻を撮った写真で、来客はまずは否応なしにこの巨大なお尻を眼に焼き付けることになる。大都市の道路に突然現れた巨大な哺乳動物の鋳造物は、近代文明と野生の衝突であり、さらなる調和の結晶とも映るが、一番興味をそそられたのは、鈴木さんの世界を見つめる眼差しが事象の背後にあって、その事象に追いつくことなくとらえていることにあった。

撮る主体が事象の背後に回るとは、理論上で言えば、世界の外側に立つということで、これは神の視座に立つことを意味する。写真家に限らず、小説家も画家も、この〈神〉の視座に立って作品を描きだすわけだが、被造物でしかない人間は芸術家の高みに立ってもついに神そのものの視座に立つことはできない。つまり、今日の芸術家は例外なく神の視点を獲得したかのような道化意識から逃れることはできない。

鈴木さんが、展示室の入り口、それはまさに俗なる外界と聖なる展示室を区切る境界域だが、そこに巨大な雄牛の〈お尻〉を置くというイロニーたっぷりの仕掛けをせずにはいられないところにもこの意識は端的にあらわれている。わたしたちは、まず展示室という聖なる空間に入るまえに、おもいきり最後っ屁を嗅がせられているのである。

背後から事象をつかまえる、高みから俯瞰的に事象をつかまえるという撮影行為に潜められているのは、撮影者の神になろうとする野望である。しかし、人間は自分の意志に関係なくすでに世界に投げ出されてしまっている存在であり、どうもがいても、どう切磋琢磨しても、世界創造者になりかわることはできない。鈴木さんが世界から瞬時に切り取ってくる事象は、超高速で大空を飛ぶ飛行機も、常に動き回る人間も、風に揺らぐ草原の草も、さらに言えば風も光も、存在の裸形を晒して静かに停止している。



世界の諸相を〈瞬間〉において切り取るということは、神の創造した世界の一断片を、創造世界の外へと無化することを意味する。白壁に整然と並べられた写真作品の一つ一つに遺影の黒リボンを八の字に掛ければ、ここに展示された作品の〈死〉が現出することになる。作品という創造物が、写真家鈴木孝史の明晰な展示意図によって〈死〉(不在)へと昇華されている。「鈴木孝史作品展」は一人の写真家によって〈創造〉と〈不在〉が見事に表現された〈展示会〉だったと言える。

誰も座っていない白い椅子にいったいだれが座るのだろうか。何ものっていない白いテーブルにいったいどんな食事が運ばれてくるのだろうか。わたしはこの白壁に囲まれた聖なる沈黙の空間に一人たたずみながら、ここがイエスとその弟子たちが最後の晩餐を終えた後の〈不在の空間〉〈虚の空間〉にすら思えたことを隠そうとは思わない。

鈴木孝史さんは写真を通して、人間の存在を問い、神を問い、時間を問うている、その真摯な姿には、同じ時代を生きる表現者として深く共鳴するところがあった。
平成22年8月5日執筆