清水正・ドストエフスキーゼミの課題

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清水正の著作   D文学研究会発行本
清水正ドストエフスキーゼミ「文芸研究Ⅰ」では夏休み前、週に一回のペースでレポートを書いてもらい、メールで送ってもらっていました。今回は峯 里織子さんのレポートを三本掲載します

峯 里織子

課題2
ソーニャと私

ソーニャは恐ろしい女だ。身を穢しながらも、まるで聖女のような心の清らかさを見せつけている。≪不幸な狂女≫、聖痴愚のソーニャ。殺人者を許し、不幸にめげない健気な女――には見えなかった。少なくとも、私の目には。しかし欲望を隠し、慎み深くあろうとする様は、陳腐な言葉だが、如何にも人間らしい行いだった。
ロジオンが彼女の部屋を訪れ、足に接吻する場面のことだ。ロジオンが彼女をいじめ抜き、あるいは糾弾しているようにも見えるこの場面だが、私には演劇的に見えた。度が過ぎるのだ。ソーニャが我が身の不幸を語り、ロジオンが更なる窮地を指摘して、彼女は嘆く。このやりとりが、無言のうちに仕組まれた芝居のように思えるのだ。ロジオンがいう「奇蹟でも待っているんじゃないのか?」の「奇蹟」とは、現実的な観点から何を期待しているのかというと、生活の援助である。聖痴愚であるとされるソーニャは、ラザロの復活を朗読している最中に神を見ていると記述されている。しかしソーニャが「神が助けてくれる」と言っても、実際は生活的な援助があることを期待していることを考慮すると、神の不在を認めているように思える。何故なら、彼女が望んでいるのは、ラザロの復活のような超人的な「奇蹟」ではなく、金銭や物品を恵んでくれるような、世俗的な「奇蹟」なのだ。聖痴愚であるとされる――そのような言動をするソーニャだが、内心はどうなのだろうか。
調べた情報によると、聖痴愚は社会的に優位であり、神と近しく扱われている。権力者に対して無礼な振る舞いをしても彼らを咎める者はなく、大いなる神聖さを身にまとった者として、人々に敬われる存在であったようだ。しかし、ラザロの復活を朗読する瞬間以外では、どうにも聖痴愚らしさが感じられないのだ。ロジオンが罪を告白した際も、まず「神さま!」と叫んだところまでは、聖痴愚として正しい。だが罪の贖い方を示す時、彼女は初めに懲役を指摘した。大地に接吻せよと説く前に、何よりも先に、驚愕に次いで出た贖罪の方法がそれなのだ。果たしてソーニャは、身も心も聖痴愚に染まり切っているのだろうか?仮に染まっているとしても、根本から染まっているのだろうか?
答えは否。彼女は聖痴愚を騙っているのだ!自らを敬虔な――肉体的には問わない――信者と錯覚し、そう振舞っているが、心の奥底はそうはいっていないのだ。それは作中の記述でも明らかである。ラザロの復活を朗読した後で、反芻するのは見上げかけたキリストではなく、「青白い顔に燃えるような目をした」ロジオンであった。根底から聖痴愚と呼べるほどに、神に心酔しているのかを、私は問い詰めたい。
神への厚い信仰心と現実的な欲望の狭間にあるソーニャが、聖女に似た逸脱した清らかさから、反して自分への認識を偽るという失態を犯した。そこから私は、彼女の発言から想像を膨らませることが出来る。役者のような台詞まわしや感嘆詞は、そんな自分を隠すためなのかもしれない。または、それを自覚しながら聖痴愚を装っているとするのなら、ソーニャは恐ろしい女である。その生涯をもって、自分とそれに対して広がる世界を騙しているのだ。
ソーニャが聖痴愚を装っている場合として、ふたつのパターンがある。ひとつ、リザヴェータに関連する何らかの事柄によって、自発的に信者となる。ふたつ、抱えきれない不幸さに、神に縋ることの楽さを覚える。神を崇めるために、聖書を読むのか。自分が救われるために、聖書を読むのか。この分かれ道は、何にでも置き換えられるように思う。例えば、私が電車に乗って通学している理由だ。何かを学ぶために電車に乗って通学しているのか、学校に到着するために電車に乗っているのか。目的に対する道程が、目的に到着しているのか、そうでないのか。その究極の選択と綱渡りを、人生全てをかけてやろうというのだから、ソーニャは恐ろしい女である。
今一度、彼女の台詞を読み返したい。きっと、嘘付きに見えるだろう。それも、綺麗に見えるのだから、不思議なことだ。なるほど、狂女には違いない。腹に一物抱えている女は、男にとって、皆狂女なのである。

参考資料:http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/6218/(洞窟修道院)→http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/yurod.html(ユロージヴイについて)

課題3
母プリヘーリヤについて
プリへーリヤからの手紙は、救いを求める嘆願書である。あるいは、不満と怒り、母の愛から憤りが滲んでいた。手紙を読み終えた後のロジオンの荒れようは、私に手紙の読み方を教えてくれたのだ。何も考えずに読み進めると、ロジオンへの愛しさとドゥーニャの婚姻に対する喜びが延々と綴られているばかりだ。この手紙は終わらないのではないかと思わせるような、文字に起こしても冷めやらぬ歓喜がある。劇中の一幕として台詞に書き換えたならば、どの役者も口を挿まない長台詞となっただろう。しかしロジオンはこの吉報に憤慨し、手紙の中から具体的な文章を引っ張っては痛罵してみせた。ルージンに対する憎悪は、やがてドゥーニャの自己犠牲的な生き方から与えられる苦しみに変化し、ロジオンに真理と決心を迫る。それというのも、手紙の内容はロジオンにとって吉報ではないからだ。
 私はロジオンの感情を読んだ時、プリヘーリヤの悲鳴を聞いた。手紙の随所にばらまかれた、ある定められた意図が込められた言葉たちは悉くロジオンに拾われている。『ご親切らしい方』『いくらか無遠慮』『愛情はない』、馬車の話や別居の話である。ただ喜びを伝える手紙にしては、どこか陰を感じさせる。ここで私は陽気で無知な印象から、一気に陰気で悲しい、そして母らしい一面を見た。
 プリヘーリヤがロジオンに拾われた言葉たちを書いた瞬間、何を思っていたのだろう。少なくとも、万感の全てが歓喜に打ち震えていたわけではない。単純に喜びばかり綴った手紙なら、負の言葉が散りばめられているはずがない。私の勝手な憶測として、プリヘーリヤは計算高くして隠すように皮肉を挿入したのではなく、心のままに書き連ねたのだと思う。だからこそ、正と負が混在する不自然な手紙になったのではないだろうか。この場合の正とはドゥーニャの婚姻とロジオンとの再会に関してだが、負とはもっと大きな問題である。
 人生には搾取する者とされる者がおり、身分が高い者がいれば低い者もいる。生きるためには須らく金が必要で、それを得るために一生を終えるのか、一生を終えるために金を得るのか、私にはわからない。時には予期せぬ不慮の事故に合い、否応なく不幸が訪れる。または明確な悪意によって、失意のどん底へ突き落とされるのかもしれない。社会を築いた人間という生き物として生きていくには、そうした数々の義務と不幸を負わなければならない。この負うという行為が何に該当するのかというと、それこそがロジオンの煩悶と重なるのではないだろうか。
 プリヘーリヤの手紙は物語を進める上での些細な一幕ではなく、ロジオンに雷を落とした。作中には、『そしていま母の手紙が、ふいに雷のように彼を打ったのである。』と書かれている。そして『でなければ、完全に人生をあきらめるんだ!』と彼は絶叫したらしい。苦難に耐え、我慢し続け、運命に受け身でいることは、彼曰く人生を諦めることと等しいようだ。足掻かなければならぬ苦難がプリヘーリヤの手紙には記されていたが、ドゥーニャとプリヘーリヤはただ耐えるばかりである。能動的に立ち向かうことと、受動的に耐え忍ぶこと、この二つの生き方は果たしてどちらが正解なのだろうか。それは不毛な問いかけである。
 苦難に耐えていればいつか救われるというのは、実に愚かしく哀れだが、いじらしく健気な様は美しく映える。ソーニャやドゥーニャはその筆頭であろう。しかしリザヴェータは隣人から愛されながらも、ロジオンの斧で死してしまう。我慢とは一瞬では成し遂げられず、あっという間に理不尽によって押し潰されてしまうのが、予め用意された定石なのだ。反して自らの意思で行動を起こすこととは、『罪と罰』と聞くと、どうもロジオンのあの行いが鮮烈に思い出される。だが身売りの娘を卑しい男から離そうとしたり、幾ばくかの金をマルメラードフに施したりと、罪ばかりではないのだ。慈しみ深い救いの手は、寧ろ能動的に与えられるべきである。
 プリヘーリヤは受け身の人間だが、理不尽をどうとも思わぬほど愚鈍ではない。母としてドゥーニャの境遇に心を痛めているに違いない。だがプリヘーリヤ自身がどうしようにも、ドゥーニャの末路は変えようがないのだ。プリヘーリヤはよくそれを理解している。喜びの言葉の端々にちらつく負の数々は、プリヘーリヤの行き場のない理不尽への怒りが綴られているのだ。
 プリヘーリヤはどうしようもない理不尽に薄々気付きながらも、その存在はいつか解消されるものと信じて目を伏せる。理不尽を受け止めることで、また彼女も社会の循環の一端と化す。プリヘーリヤこそ理不尽な社会を象徴し、それに雁字搦めにされる人間の代表なのである。

課題4
ドゥーニャと私
ドゥーニャ。兄のため身売りのように婚約するが、その精神は穢れない。気高く美しいと今世紀でも大評判だ。先日、ようやく上巻を読み終えた。彼女について書くにはまだまだ情報不足だが、どうにか書き連ねていくしかない。
 ドゥーニャの婚約は、一重に兄のためだった。しかしロジオンは『ぼくか、ルージンか、どちらかだ…』と返し、ドゥーニャの施しを押し売りされたかのように厭う。事実、ドゥーニャの施しが必要であったのかというと、そうではない。不要でもないが、ロジオンには家庭教師や翻訳といった職が転がっており、友人ラズミーヒンからも熱烈ともいえる支援を受けている。事業に失敗しただの、本人――ロジオンから金をせがむ手紙が来ただのといった、大金を用意するような忙しさはない。言わずもがな、ロジオンは借金に苦しみ裕福な暮らしをしているとは言い難いが、作中にある通り、当時の大学生は皆似たような暮らしであったようだ。無論、社会的に信頼が厚いルージンの口添えを期待していることも一理あろう。だが、危機迫った事情を読み取れないのだ。この場合、貧困から抜け出そうという懸命な足掻きよりは、出世欲に似た傲慢さを感じる。ならば、兄のためにと急いて婚約する必要はどこにあったのだろうか。
 ルージンとの婚約、それはロジオンのため。本当にただその一点ののみであったのか、私は疑わしく思った。プリヘーリヤの手紙からもわかるように、ドゥーニャがルージンを良く思っていないのは明白だ。それも薄々感付いている程度のものではなく、『夫をしあわせにするのは義務』『たいていのことは我慢できる』からもわかるように、『愛情がない』どころか、嫌悪に近い感情まであるのだ。巡り合わせとでも言おうか、成り行きに近い形でルージンと婚約したのだが、すんなり兄のために婚約しますというのは、どうも首を捻ってしまう。流れが良すぎやしないか?シナリオのように筋立ててはいまいか?
 私はひとつ考え付いた。これはドゥーニャから兄ロジオンへの、愛情のアプローチなのではないだろうか。抱擁、接吻、睦言といった直接的な表現ではなく、「自分は己を犠牲に出来るほどあなたを愛している」という、強引な愛情表現なのだ。両手を広げられれば突き飛ばし、唇を寄せられればその頬を張り倒し、囁かれれば耳を塞げば良い。しかし周囲からじわじわと追い詰めるように、有無を言わさず愛を据えられてしまっては、決定的に遮断し、なかったことには出来ないのだ。ドゥーニャの愛情はさも兄妹愛に満ち溢れ、慈しみ深く有難いもののように思える。その施しを受けて当然といった周囲。ロジオンの逃げ道は塞がれた。
 ドゥーニャは自己犠牲的だ。そして、それを美しいと知っている。醜さからは遠い位置から、天使を装っている。「自分は己を犠牲に出来るほどあなたを愛している」というパフォーマンスは、悲劇の名に相応しい。劇中の役者としては、お見事だ。
 彼女の施しがアプローチとパフォーマンスにしか見えないのは何故だろう。こうも猜疑の目で見てしまうと、本当にロジオンのことを愛しているのかも怪しく思えてしまう。こうした過剰且つ用意周到なパフォーマンスをしなければならない何かがあるのかもしれない。例えば、本心では兄を愛していないだとか、そういった類の暗闇だ。
 プリヘーリヤを養っているのは彼女らしい。ペテルブルグに住む兄からは、金を送ることはあるが送られることはない。それどころか、手紙の返信すら寄越さなくなった。疑心に思わぬはずがない。手放しで愛情を受けられるのは、子供のうちだけだ。ドゥーニャははたと気づいただろう。兄に金を送る意味は?愛の代価は?兄は自分たちをどう思っているのか?そしてまた、そんな疑いを抱く自身に嫌気がさすのだ。悩みの末、結論は出さない方が賢明と蓋をする。それは一端現実から目を晒逸らしただけの、その場しのぎに過ぎないが、ドゥーニャに自身を誤魔化す暇を与えるには十分だ。真実として、自分は兄を愛しているのか?答えを先延ばしにし、有耶無耶にする。次に、自分は兄を愛しているのだ、だから身を売ることも出来る、それほどに愛しているのだ、そう言い聞かせるようにして、ドゥーニャは舞台に上がるのだ。
 自身の奥底から噴き上がる醜さを繕って、美しくあろうとする女、ドゥーニャ。その仮面の被り方は、とても人間らしい。ただ明け透けに気高いだけでは、どうにも脚色が濃いのだ。内なる暗闇に翻弄される姿こそ、私は共感し得る。