清水正・ドストエフスキーゼミ課題

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清水正ドストエフスキーゼミ「文芸研究Ⅰ」では週に一回のペースでレポートを書いてもらい、メールで送ってもらっています。今回は林英利奈さんのレポートを掲載します。

池袋リブロ書店に並んだ『清水正ドストエフスキー論全集』

復活の曙光に輝いたロジオンについて

 林英利奈

 『罪と罰』の最後は、今回の題の通り『復活の曙光に輝いて』終わる。一つの観念に囚われ罪を負ったロジオンが、愛によって目覚めるところだ。ハッピーエンド主義者にはもってこいのエピローグだが、『罪と罰』を読んだ誰しもが好んでいるわけではない。むしろ、ハッピーエンド主義者の方が少数派だろうと思う。そしておそらく大多数は、このエピローグに後味の悪さを覚えるだろう。いまさらなんだっていうんだ――という言葉が聞こえそうだ。あんなにも、あんなにも自分を正当化し、あまつさえ妹にも母にも迷惑をかけた男が、いまさらなんだっていうんだ。
 ドストエフスキーが何を思ってこのエピローグを記したのかは分からないが、彼自身は読者にどう思われようが必要だと思ったから、『復活の曙光に輝くロジオン』を描きだしたのであろう。奈落へ落ちたロジオンは救われた――ほかならぬ、ソーニャの手によって。
 シベリアで、常にソーニャは彼に手を差し伸べ続けた。周りの囚人たちは、こぞって彼女を「おっかさん」と呼び慕う。罪人に微笑みかけるその姿は、母であり、聖母であったのだろうか。小柄で若い彼女は、囚人たちにとっての救い手だった。それはいったい何を意味しているのだろう。幾度かにわたって、私は『罪と罰』に登場する女性たちについて、聖書に登場するマリア、あるいはマグダラのマリアに例えて文章を書いた。ソーニャはまさしく、聖母となったのだろう。少なくとも、ロジオンにとって。
 だが、どうだろう。ロジオンはソーニャの、献身的な愛によって救われたのかもしれない。だがその事実は、ソーニャ自身を救っただろうか。答えは、noだと思う。救いはしなかった。彼女を実質的に救ったのは、ロジオンではなく死んでしまったスヴィドリガイロフであり、そもそも彼女があんなにも支えていた父母は死んでしまった。ソーニャは救われなかった。ただ、報われた。ロジオンがソーニャの愛によって救われたと書けば、非常に語感の良い、美しい事実に他ならないだろう。けれど実際は単に、ソーニャが愛し、ロジオンがそれに応えた。彼らはまだシベリアに居るけれど、明日への希望が湧いてきた。なんというありきたりな事実だろう。まさしくハッピーエンド。気持ち悪いくらいだ。
 そんなありきたりなご都合主義は、確かに母と慕われるソーニャにはふさわしいのかもしれない。聖母マリア処女懐胎した時、婚約者ヨセフはそれを受け入れた。当時の法を鑑みればマリアは石打ちになるべきだったのに。まさしく、神の子を孕ませ生ませるためのご都合主義だ。普通婚約者が「神様の子供を身籠ったの。」なんて言ってきたら、ふざけるなと怒鳴るだろうし、浮気を疑うだろう。聖書のご都合主義は生誕だったが、『罪と罰』のご都合主義は復活である。
 けれどそのご都合主義は、ドストエフスキーがあえてもたらした救いだった。ドストエフスキーは望んで救われるロジオンを描写した。それは、何故だろう。老婆とその妹を殺したという『罪』を背負ったロジオンには、永遠に苛まれるという『罰』こそが相応しいはずなのに、そこから抜け出すさまを描写した。――愛によって。
 だからこそ、これは本当は救いではないのかもしれないと、私は思う。愛によって救われるロジオンこそが、そこから再び苛みの中へと転落する可能性を、大いに宿しているのだと。誰かによって救われた。そのあとは?ソーニャが死んでしまったら、再びロジオンは絶望の淵に立たされるのではないか?かつて婚約者を失った時のように。
 そしてそれは、ソーニャにも言えることなのではないか?彼女は父を、義母を失った。兄弟とも離れ離れだ。今彼女が愛しているのは、ロジオンだけだ。ロジオンを失ったら、彼女はどうなるのか?愛によって救われたロジオンと、愛を報われたソーニャが、愛によって堕ちる可能性すら、物語っているのではないのだろうか。
 彼らにいずれ訪れるであろう死神。それが遠い遠い未来、その先の全てが心穏やかになった頃ならばいい。受け容れられるだろう。だが、それがすぐそこだったら?ちょっとした風邪をこじらせて、肺炎になって死んでしまったら?あるいはマルメラードフのように急な事故にあったら?可能性の話は、尽きることがない。
 彼らは、お互いが唯一無二になってしまった。それがどれ程あやういことなのか。どちらかがどちらかを失ってしまえば、置いて行かれた側は、より深い闇の中へと落ちる。
 それこそが、本当の『罪と罰』なのかもしれない。