清水ゼミ三年は創作ゼミ

清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室   清水正の著作
清水ゼミ三年(2010/6/8)は、小山剛史君の小説を朗読・合評。この日は聴講生の高橋さんと映画学科の佐倉さんも参加。授業風景の写真の下に小山君の小説を載せてあります。


 
お姫さまダッシュ
小山剛史


 四角く縁取られた空を鳥が縦に切り裂いて、消えた。窓のガラスはやけに曇って、少しひび割れていた。窓のガラスを注意してみたことは初めてだった。五年間も住んでいたのにひび割れひとつ、今まで気づかなかった。仰向けになって天井をみると、思っていたよりもずっと遠い。体を起こしてまた窓をみる。見慣れた外の景色が油絵のようにねっとりとした質感に感じる。目を瞬いて、ぶるっと体が震える。家具ひとつない部屋に私ひとり。お、少し絵になるんじゃないかなんて思ってみたり。

 かちり、と静かに鍵をかけてそのまま新聞受けに鍵を入れる。かしゃん、もうここには戻れない。築三十年のアパート二階の真ん中、六畳一間風呂トイレ付き五万三千円。大家さん最後に挨拶に行かないでごめんなさい。たくさん迷惑かけてごめんなさい。うるさかったですよね。静かに階段を降りて、ちょっと振り返る。ぼろぼろ。よくこんなところにすんでいたなあ。自転車置き場に目をやっても、もうあいつのヴェスパはない。とっくにない。そもそも持って行かれたのか、あいつが乗って行ったのかさえわからない。もうどうでもいいか。顔を洗いたい。野菜ジュースが飲みたい。お風呂に入りたいし、着替えたい。あいつに会いたい。会って、うん。刺す、かな。

 公園の水道で顔を洗う。まるで浮浪者だな、私。買ってきた野菜ジュースとメロンパンをベンチで食べる。公園についている時計はもうすぐ三時を指す。子どもたちのはしゃぐ声に、少し肩身の狭さを感じる。気持ち俯きながらメロンパンをしずしずと口に入れる。大丈夫。服は三日間着ているけれど、汚くはない。どこからどうみても大学帰りにひとりで三時のおやつを食べる女の子。それはそれで嫌だけど。思い出したように財布を覗くともう五千円しか入っていない。駆け落ちのごとく家を飛び出して、あげくにたくさんの借金を抱えて戻って行く。最低だ。うん。最低。でもしょうがない。あとはもう死ぬしか選択肢がないんです。死んだほうがいいんでしょうか。神さま。
「死ぬなんて間違っているんじゃあないかな」
「そ、その声は」
「響子が死ぬなんておかしい話じゃあないか」
「クマのクマ吉」
「僕はクマだけどね、響子のことはずうっと見てきたんだ。響子はなにも悪くない。いや、家具までが差し押さえられるその時まで必死にお金を稼いでいたじゃあないか。まったく響子のような素晴らしい人間、見たことないよ」
「でもね、クマ吉、もうどうしようもないの。私、確かに頑張ったよ。三着しか残っていないTシャツを着まわしながら新聞を配達して、ティッシュを配って、交通量を測って、また新聞を配達して。でももう限界なの。今ごろアパートにはお金を取り立てに来たお兄さんたちがドアに向かって正拳突きをしているわ」
「そんな奴ら僕が後ろから襲いかかってやるさ」
「ああ、ダメよ、クマ吉。あなたはとっても力が強いんだから。そんなことしちゃダメよ。それに彼らが怪我をしても私の借金は、消、え、」
男の子が私の前に立っていた。お母さんのところに走っていって何か話している。私を見るお母さんたち。何かを疑うような、さげすむような、そんな目で私を見るお母さんたち。私は走った。走って公園をでた。走って、走って、走っても、何かが追ってきている感覚がしたし、前にある何かには絶対たどり着けない感覚もした。一枚Tシャツがダメになった。

 池袋駅まで来てしまった。切符を買って山手線のホームへ向かう。とにかく東京まで行ったらあとは新幹線とかでなんとかなる。五千円あれば、家まで帰れるはず。甲高いベルの音が聞こえて階段をまた走って閉まるドアにすべり込む。とくに急いでいるわけでもないのに、ひとつ後の電車に乗ってもよかったのに、なんで私は息を切らしながらすかすかの電車に乗ったのだろう。荒い呼吸を静かに整えてから、この街には二度と来ないんだろうなと思った。横に流れていく山手線池袋駅のホームを見ていると、初めて池袋に降りた私を、あいつと二人で電車を待っている私を、何気なく電車に乗ろうとしている私を、全部流していった。
 上を向いて円形の路線地図で東京までの到着時間をみる。げ、逆方向に乗ってしまった。まあいいや。倍近くかかるけど、どうせ着くんだし、このままでいいや。座席に腰を下ろすと向かいに座っている制服姿の男の子と目があった。イヤホンをしながら携帯ゲームをしている彼はすぐに私から目を逸らした。私も目を逸らす。座席の硬さが前に買ったソファの硬さに似ている。しっかりとしたマットで厚みがあって安定した座り心地が好きだった。今はもうどこかのリサイクルセンターでひっそりと息をひそめて黙っているのだろう。あいつが部屋に残していったのはたくさんの借金と虚しさだけ。
 物には命が宿るというけれどもそれは本当。楽しいとか、安心とか、そういった喜怒哀楽の空気がなくなった部屋はただの箱でしかなかった。何も敷かないで寝る床はひやひやと私を突き放した。あの部屋には確かに命が宿っていたんだと死んだ部屋になってから気づいた。
 「まだあの部屋に戻りたいと思うのかい」
クマ吉が隣に座って言う。
「あの生活に戻りたいと思うのかい」
「楽しかったときも、悲しかったときも、もう戻りたくない。あそこにはもう何もないもん」
「もし実家に帰っても、玄関にすら入れてくれないかもしれないよ。きっとあいつらは響子をもう忘れているんだ」
「できれば忘れていてほしいなあ。誰だオマエって。そうすれば私ももう思い残すことなんてないや」
「何言っているのさ。響子が死んで何になる。死んじゃあいけないよ」
「もう何も感じないの。頭にもやがかかって大切なことを隠していくの。それが、すごく楽なの」
「響子、いけないよ。それはただの現実逃避だよ。そんなことしたって何も変わらないじゃあないか」
「じゃあ!クマ吉、あんたは一体なんなのよ。あんたも、私が作り出した現実逃避のひとつじゃない。ぬいぐるみが大きくなって喋りだすなんておかしいじゃない。そのくせ真面目ぶって私を慰めて。私が自作自演で自分を慰めているだけじゃない。バカじゃないの」
我に返って車内を見まわすと向かいの学生だけでなく近くの人たちは私を見ていた。恥ずかしくなってどこかへ逃げ出したくなってじっと俯いた。私を生んだお母さん、お父さんが私を忘れていたら、それはすごく悲しいことだ。まるで私があのアパートのような無機質なものになってしまう気がする。それでも、何も言わずに私を迎えてくれるような、そんなことを望むなんて虫が良すぎますよね、神さま。

 あーるーひーもりのーなかー
 くまさんにーであーたー
 はなさーくもーりーのみーちー
 くまさんにーであーたー

「クマ吉、みて私妖精みたいじゃないかしら」
「ああ、きらきらしてとてもきれいだあ。響子はこの森のお姫さまだよ」
「本当。うれしい。私シマリスさんと仲良くなりたいわ」
「ああ、シマリスたちも喜ぶぞ。響子とお友達になれるなんて夢みたいな話だもんなあ」
「クマ吉、私クマ吉のお家に行きたいわ。一緒にパンを焼きましょう。お家はどこなの」
「僕のお家は、この森を出たところにある、リサイクルセンターさ」
はっと目を覚ます。外はすっかり暗くなっている。それなのにまだ池袋から二駅しか進んでいない。何か夢を見ていた気がする。全然思いだせない。でも、少しすっきりした気がする。ゆっくり寝たのなんて何日ぶりかな。頭が冴えている。とにかく家に帰ろう。そんな気持ちが強くなった。土下座でもなんでもして、やり直させてもらおう。ひとつひとつまた手に入れていけばいいよね。しっかりとしたソファも、クマのぬいぐるみも、部屋も、安心できる人も。うん。眠気がまた襲ってきた。まだ東京までは時間がかかる。ゆっくりと目を閉じる。おやすみ誰か。