どうでもいいのだ(連載1)赤塚不二夫から立川談志まで

どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載1)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から
清水正


赤塚漫画の神髄はあいである

赤塚不二夫の対談集『これでいいのだ。』(200年1月 メディアファクトリー)は後世に残る名著だ。べつに後世なんぞに残らなくてもいっこうにかまわないが、とにかく面白い。赤塚不二夫は愛のひと、いや、赤塚不二夫の場合はひらがなの〈あい〉がいちばん似合う。最初にタモリとの対談、次に柳美理との対談。タモリとの関係は、いっそのことホモになってしまおうかと思ったほどの関係だから、言葉にする必要のないあいに満ちている。柳は小説家で、人間の関係に関しては一こと言いたいということで、自分の考えを口にしまうのだが、なにしろん相手は柳を先生と呼ぶほどのだいセンセイで、このセンセイを前にすると、なんとか論などすべてことごとくヘリクツみたいになってしまう。センセイは柳をうるさい女だね、なんて、男が思う素直な気持ちをサラッと口にするが、これが責めにも皮肉にもならないのは、つまりセンセイのあいのなせるわざということになる。センセイにとってはうるさい女も、かわいい女なのである。
 三番目の相手が、立川談志赤塚不二夫センセイは談志の弟子で赤塚不二身という名前をもらっている。が、読めば、格の違いは明白で、談志の笑いの分析はどんなに明晰であっても、センセイの前ではやはりコリクツになってしまう。談志のしゃべりに対して、ほとんど眠っているかのごとき対応が自然で、この自然の大きさ、おおらかさに思わずほほえんでしまう。 赤塚不二夫の娘が、父親を水槽で飼っていたい、というのをテレビで聞いたとき、その頃、まだ涙目にはなっていなかったのだが、不覚にも涙がでてとまらなかった。この父親にしてこの娘あり、赤塚不二夫のあいは深い。深すぎるあいがギャグとなりナンセンス漫画となってほとばしる。センセイご本人は、ナンセンス漫画は笑って受け入れればいいので、理屈はいらないと言うだろうが、少し言わせてもらえば、赤塚漫画の神髄はあいである。無意味の空洞にあいがいっぱいつまっている。この空洞に飛び込むということは、ようするにあいにまじわるということなのである。

平成26年9月10日(水)