文芸学専攻一年の大谷明子さん(清水正担当「日本文芸特論」受講生)の大泉黒石論を連載します。
「大泉黒石全集」第一巻を手にする大谷明子さん
大谷明子の大泉黒石論(連載2)
大泉黒石の「人生見物」を読んで
デスペレイト・オプチミスト黒石はまっすぐな男だった
大谷明子
ポテトチップスの袋をパーティー開けすることが好きではなかった。パーティー開けとは、袋の背面にある密封された部分を縦に開き、袋の閉じられた部分を全て開封する開け方のことで、袋が長方形の1枚皿に変貌する。皿を出す手間洗う手間が省ける上に、複数の人とポテチをつまむ際に非常に食べやすい。袋の上の部分だけを開いてしまうと、手の甲がべたべたになったり、周りの手の動きをちらちらと見てタイミングを伺い、袋に手を突っ込まなくてはならないので、ポテチを食べる人がいればいるほど効率が悪い。しかし効率が悪いことを重々承知していても、パーティー開けは許せなかった。袋に手を突っ込んで、「あとどれくらい残っているのだろう」とポテチの袋を覗きながら食べるのが好きであった。
「こだわり」を誰しもが持っているのではなかろうか。こだわりという言葉には「ちょっとしたことにとらわれる」(岩波国語辞典第三版より引用)という意味がある。そしてこだわりには、私のポテチの袋のような些細なものから、人生さえ左右してしまいかねない重大なものまであり、人によってとらわれる部分は異なる。「ちょっとしたこと」という言葉は、客観的な、社会的な視線が介入している気がしてならない。その人は気にしても、周りから見たら気にする必要がない「ちょっとしたこと」なのであろう。しかしそのちょっとしたことに引っかかる領域と、そしてその領域を守るか守らないかのせめぎあい、ここに個性が宿るのである。
前回は「人間開業」を読み、感想を書いた。「人間開業」は第4回配本の『大泉黒石全集』の1巻に掲載された作品であったので、今回は第5回配本の『大泉黒石全集』の5巻に掲載されている「人生見物」を読んだ。5巻巻末に掲載されている由良君美の解題によると、「人生見物」という作品は、「人間開業」と「人間廃業」を結びつける位置にある作品であるそうだ。私自身、1つ読んで1つ感想文を書くというサイクルで『大泉黒石全集』を読んでいるため、未だ「人間廃業」は読んでいない。そのためどう結びついているかはまだわからないが、「人間開業」は読んでいるので、「人生見物」が「人間開業」で語られていなかった月島造船所とジベリアについて書かれていることだけは分かる。
「人生見物」の中には黒石が自分を評した文章がいくつか出てくるが、そのうちの1つにこのような文章があった。
「人間の全存在は独創でなくて驚くべき模倣にすぎないのだ! 俺は平凡が大嫌いなんだ。一切万物は一列一体に軽蔑してやれ!」
この文章を読んだ時、「黒石らしいな」と妙に納得した。もう1つ、この文章に加えて、黒石らしさがでている文章があった。
「不真面目な人間を見ると「フフン、その不真面目は本物か?」真面目な人間を見ると「フフン、その真面目は何時が締切りだい?」と思う。」
以上2つの文章は黒石の人生を左右する重大なこだわりを言い表している。黒石は自己を「デスペレイト・オプチミストを以て自らを任じ、風来山人を以て自らを気取っている僕」と言い表しているが、このデスペレイトという言葉は黒石のこだわりを肯定している言葉である。では黒石のどういったところがデスペレイト・オプミチストなのであろうか。
「人生見物」は平口万之助との話である。平口万之助は仙台出身のズーズー弁の男で、一高を目指している書生だ。黒石が居候していた伝兵衛の家に黒石より先に居候していた。この男と、造船所、そしてシベリアを共にするのだが、万之助の存在がより黒石のこだわりを際立たせている。そのいい例が、万之助とのお金をめぐるやりとりだ。
黒石はオビンズルさんという釜山行きの船の中で出会った朝鮮人の男にカフェーにて立派な食事をごちそうする。それに対して途中困らず目的地につけるよう先のことを考える万之助は「君、財布の中は二十両だ。行く先はまだ一千哩もあるからね」と黒石を注意する。予測不可能な旅路のことを考えると、万之助の言い分はもっともだ。しかし、黒石は万之助に対し「しみっ垂れだけに、用心深い」と表するだけである。
注目したいのはお金に余裕があるかどうかは問題ではない、ということだ。チタにて黒石が新聞記者をしているとき、ルウブル相場を聞きに宝来公司という質屋に行くのだが、金がなくなりその質屋に時計を入れようとすることがある。しかし質屋はその時計を受け取らず、ハルピンへ阿片を仕入れに行く際に新聞屋に協力してもらい留守をごまかす、その賄賂として20円札を渡そうとする。今受け取っても受け取らなくとも、いずれ上司の支持で受け取る予定の金である。しかし黒石はその賄賂を受け取ろうとするも、「俺のツムジは最後の一言にグッと曲がった。」とあるように結局、軽蔑して受け取らなかった。その後の万之助とのやりとりが、この2人の差がよく出ているので見てみよう。
(質屋から万之助の元に舞い戻り)
すると万之助が「オイ、いくら借りて来たか?」と言うのだ。俺はいくらも借りて来ないわけを説明した。「どうだい、俺のムカッ腹にはお前も共鳴するだろう?」ところが意外にも万之助の考えは違っているのだから、人の心はわからんもんだ、「フン、何が共鳴だい! わざわざ呉れるというものを取らずに、余計な見栄を張る? どこの世界に、そんな馬鹿な奴がいるんだ!」いきなり食ってかかるから、俺も負けずに怒鳴りかえした。「ここにいるんだ! 試しに考えてみろ。あんな奴に見くびられるのは何よりの侮辱だぞ! 貧乏はしても、小遣いはなくてもだ、それほど下等な人間になっちゃいないつもりだ!」万之助は面くらって、大きな目をグリグリ動かしながら不思議そうに「ホウ!」と言った。「君はそんな上等な人間だったのかい? いや、そういう人にを使いに頼んだのは僕の間違いだった。失敬したネ。もう頼まないよ。僕が行って取ってくらア」と不愉快に興奮して、シュウバを引っかけながら「宝来公司」へ押しかけて行こうとするのだ。見っともないからよせと言ったが遂に聞かなかった。」
見て分かる通り万之助の方が、金がないという現実的な状況をよく理解している。何があるかわからない旅でお金の心配をするのは当然であり、自分の生活を守るために、どちらにしても受け取ることになるであろう金を受け取る方が現実的な考えではなかろうか。しかし、黒石は「下等な人間になっちゃいない」と受け取らない。オビンズルさんの時も、宝来公司の20円札の時も「金がない」という現実は考えられていない。万之助は見栄と言っているが、黒石が自身の体面を守るために張った見栄ではない。平凡が嫌い故の見栄によるものではなかろうか。事物に対して疑い、軽蔑するのが黒石だ。軽蔑しすぎると万之助に指摘されても「人を軽蔑する僕は同時に僕自身も軽蔑しているんだから公平でいいじゃないか?」と、自己も軽蔑の対象に入っている。この徹底したこだわりが黒石のデスペレイトな部分である。このデスペレイトという言葉も黒石自身が自暴自棄なのではなく、現実に対して態度がデスペレイトなのであり、自暴自棄故に、現実生活では楽天家のように見えるのである。「デスペレイト・オプチミストを以て自らを任じ」とはこのような意味である。
前回、清水先生のブログに掲載させていただいだ「人間開業」の感想には、大泉黒石という名が「国際的な居候」の確固たる自己である気がしてならないと書いた。名前が複数あった「国際的な居候」が大泉黒石という名前を手に入れたことにより、確固たる自己をようやく手に入れられたのではなかろうかと、いう考えである。「人間開業」を読んでいて、黒石に至るまでに還る名前のないことに恐怖を感じた。しかし確固たる名前が無いと言って、自己が分裂してしまうような不安定な感じはしない。黒石には、こだわりがあった。自分自身を含め全てを軽蔑することによって模倣と平凡をかけ離す、こだわりだ。そのいくつものこだわりはデスペレイト・オプチミストという黒石節になった。大泉黒石という名は、黒石節を顕在化する名前なのである。
先に「人生見物」が、「人間開業」で語られなかった月島造船所とシベリアについて書かれていることはわかると書いたが、きちんとは分かっていない。黒石を読むにあたり、その足跡をきちんと理解しようと、年代をメモに取ったり等した。しかし年代が合わない。黒石の足跡に明確な順序が見出せないところなどあり、非常に頭を悩ませた。カーチャをバザルで見かけた場面で「鼻から洩れる息のために、白々と凍りついている眼鏡の曇りをハンカチでゴリゴリ拭き落として」と書かれていたのには驚いた。いつから眼鏡をかけていたのだろうか。どこかで見落としたのかと、ページを戻ったりした。
黒石は年代等にこだわらず、「人間開業」や「人生見物」を書いている。年代や服装などどうでもいいことだ。読者は黒石の黒石節を、本を通して体感出来ればそれでよいのだ。そのようなわけなので、大泉黒石の「人生見物」や「人間開業」を読むにあたり、このような細かい点を気にするのはナンセンスなことかもしれない。研究する場合はそうはいかないであろうが。
こだわりはその人の個性である。黒石は自分のこだわりをどんな時も徹底的に貫き通した男だ。そのこだわりが黒石節につながっている。しかし、こだわりを貫き通して生きることは難しい。特に人間社会で生きるには、時に自分のこだわりを曲げなければならない時があるのではなかろうか。現実を顧みて、他人や風潮に合わせて生きることが、賢い選択のような側面が社会にはある気がしてならない。大泉黒石より、平口万之助の生き方の方が賢いのである。黒石はそういった現実の効率のよさや個人のこだわりを潰してまで他に合わせるものを平凡とした。そしてその平凡を理解していたからこそ、自己さえも軽蔑する黒石節に黒石のまっすぐとした姿が見えるのではなかろうか。黒石はまっすぐな男だった。
ポテチの袋へのこだわりは、すぐに気にしなくなった。そんな些細なことで部活の飲み会の空気を壊すことは、まさしく空気の読めない女だ。早いスピードでしけってゆくポテチと一緒に、自分のこだわりを飲みこんだ。こうやって「公共」やら「社会」やら、その意味さえもわからないまま、空気が読めないといいわけして、自分のこだわりをぐっと飲みこんで生きていかなくてはならないのだろう。しかしポテチは、家ではパーティー開けをしなければいいだけの話だ。そのような些細な妥協案で済む。しかしもし、このこだわりが、いつだって譲れない、その人の生き方に深く根付いたものだったらどうなってしまうのだろう。
黒石節は、「国際的な居候」の黒石の人生に根付いたものである。その節を語る名が大泉黒石だ。「人間開業」と「人生見物」を通してその名の重大さを知った。だからこそ、巻末に書かれている解題や黒石回廊を読むとやりきれない思いでいっぱいになる。しかし黒石がこだわりを曲げなかったからこそ、黒石節という黒石のクリエイティブな側面が作品に染み渡っているのである。