小林リズムの紙のむだづかい(連載67)

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紙のむだづかい(連載67)

小林リズム

【登校拒否児だったころ】

 小学校2年生くらいまで、私は登校拒否児だった。「学校が嫌い!」というよりは、「家から出たくない!」という気持ちのほうが強くて、そういう意味では引きこもりニートの素質はかなり前から備わっていたのだと思う。本当に手のかかる登校拒否っぷりだった。

 近所のお姉さんが家まで迎えにきてくれても「行きたくない!」と叫んで朝から号泣。「一緒に行こうよ」と優しく声をかけてくれているのも完全無視で、いかに学校に行きたくないのかをひたすら泣いてアピールする。毎朝繰り返される騒動は近所では有名で、近くに住むオバサンからは「ちょっとお宅の子、アタマおかしいんじゃないですか」くらいのことまで言われたらしい。
 決死の登校拒否アピールが報われることもしばしばで、ズル休みも何度かした。体温計をお湯に浸して38度に調整して仮病を使ったこともあった。「おなかが痛い」と言っても嘘だとバレないように、具合の悪そうな表情も鏡の前で練習した。とにかく学校にいかないですむ方法を始終考えていたのだ。

 一度母に「いつまで学校いかないといけないの?」と聞いていたことがあった。「義務教育だから中学校までは…そのあとは高校に進んだり」と言われてその何かもわからないギムキョウイクとやらを恨んでいた。あと何年間も通わないといけないなんて、絶望だった。だから「絶対に高校なんかいかない!」と言い張っていたのだった。

 都合の悪いことを忘れてしまう私は、当時のことを鮮明には覚えていないのだけど、参観日のことは覚えている。確かプール参観の日で、母が見に来てくれていた。母が学校へ来たこともあり、私は家に帰りたくなってしまったのだ。お母さんはプールの授業が終わったら家へ帰れるのに、私はまだ学校で残された授業を受けなければならない…この現実が信じられなかった。「りっちゃんも家に帰る!!」と言い張ってきかず母は相当恥をかいたと思う。私は帰ろうとする母のほうに向かって泣きながら裸足で道路まで追いかけていったのだ。何を言われても「やだ!帰る!」の一点張りで、先生はぐったり、保護者は茫然、結局その日は私も家に帰ることに成功したのだった。

 なんであんなに学校へ行きたくなかったんだろう…とずっと不思議だった。でもこの前、急に小さい頃のことを思い出した。私が5歳だとかで、弟が3歳くらいだった。弟はそのとき病気をして入院をしていて、母は弟に付き添って病院に寝泊まりしていた。
「あの頃のりっちゃんは可哀想だったよ。お母さんが病院から家に帰ってきて一緒にお風呂に入ったとき“ママはお風呂出たらもう行っちゃうの?”って聞いてきて切なかった」と母が言っていたけれど、私はそれを言われても記憶になかった。すっかり忘れていたのだ。でもそのときのお風呂のお湯の高さとか、今は一緒にいるけれどお母さんは今日も弟の入院している病院に行ってしまうんだなぁという悲しさだとかが突然蘇ってきて、やっと辻褄が合った。私が学校に行きたくなかったのは、お母さんと離れたくなかったからなのだ。そのためにあらゆる手をつくし学校へ行くことを拒絶したのだ。
 いつの間にか「絶対に行きたくない」はずだった高校を卒業し、上京して家を出て大学も卒業し、社会人…ではなく無職になった。泣き虫だったのが気が強い女に変貌し、裸足で母を追いかけるなんてことはもうしない。母のかわりに、なりふり構わず周りを気にせず、裸足になってでも追いかけたいものが、見つかればいいなと思う。