小林リズムの紙のむだづかい(連載36)


紙のむだづかい(連載36)


小林リズム

【一流のビジネスマン】

 二日酔いでお酒の抜けきらない頭でぼんやりとしたまま近くのデパートに寄ったら、靴磨きの宣伝をしている人がいた。研修か何かをしていて、私のエナメルのパンプスを見るやいなや「磨かせてください!」と声をかけてきたので、流されるままに磨いてもらった。そういえば、立派な営業マンになるには靴を綺麗にしておくのがよかったんだっけ…と、短すぎる社会人生活を思い出しながら、本当だったら今頃がつがつと営業回りをしていたのかも、と考える。
 
「一流のビジネスマンになる前に、一流の人間になりなさい」と経営者には言われていた。しれっとそんなカッコイイ格言を披露する経営者を、尊敬できる人だと思っていた。内定後にインターンを始めてから、お洒落なホテルのラウンジに連れていかれて高級料理を食べたり、お前らには素質があると言われて、それはそれは気分がよかった。「いいものを着て良い女になりなさい」と衣装代10万円を支給されて、ばかみたいに調子に乗りまくっていたのだった。気づくと「春と秋に衣装代を10万支給するから」という言葉にも「春と秋だけじゃ足りませんよー」と思ってしまうくらい、強欲で傲慢になっていた。
 
 きちんと仕事をすれば、こういう生活が当たり前になるのだと思った。日本一と言われる天ぷらも、質の良いブラウスも、華やかな生活も、すごく近い未来に存在するのだと思った。かねてから「こうなりたい」という夢のない私に差し出された輝かしい生活は、自分がずっと求めていたものに思えたのだった。こうなったらもう、一流のビジネスマンになって稼げるだけ稼ぎたい…!1年以内には月収100万円…!とか、わりと本気で信じていたのだ。だって、この会社のビジネスモデルは唯一無二で成り立ってるって言っていたし。利益率70%超えの安心企業だからこれからもっと潤うとも話していたし。そんな会社に入れて自分はなんてラッキーな人間なのだろうと思っていたのだった。しかしその”一流の人間”になるために、自分たちは親から騙されて育てられ、経営者の「やり捨てしたい」「殴りたい」という欲望を受け止めなければならないと知らされたとき、ちょっとこれは違うよなと思った。朝6時半から始まる講座で、この会社の社員全員が発達異常者で、この場所以外では生きられないのだと諭されたとき、マジでここにはいられないわ…と思ったのだった。

 それにしても、つい1か月ちょっと前までの私は、お金も未来もすべてうまくいくと思っていたなんて信じられない。人生なんていつどこで何があるかわからないんだから、とは聞くけれど、たいてい何か起こったあとに気付くのだからやってられない。
 かがみこむようにして私の靴を磨いてくれる店員さんを見ながら、一流のビジネスマンってなんだろうなぁと考えた。お金を稼ぐこと?華やかなこと?人から羨ましがられること?その前に、今の私は無職なんだからビジネスマンでもないわけで…。靴磨きの彼は「こうやって泡を布でふくと艶が出て防水効果もあるんですよ」と丁寧に説明してくれる。一生懸命に仕事をしているんだなと思った。頑張ってほしいと思った。思ったのだけど、かつて衣装代10万円を軽々しく使い果たした私は今、この靴磨き1500円のスプレーを買うのにも戸惑っているのだった。