『世界文学の中のドラえもん』を読んで・吉田紗耶香

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
   グッドプロフェッサー

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
『ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp

http://www.youtube.com/user/kyotozoukei?feature=watch

「マンガ論」平成二十四年度夏期課題
 『世界文学の中のドラえもん』を読んで
吉田紗耶香
 私はアニメで『ドラえもん』の世界に親しみました。マンガも全く読んでいないわけではないですが、何巻のどんな話を読んだのか、頑張っても頭が痛くなるくらいで、とんと思い出せそうにありません。
今の子供たちは水田わさびさんの声で『ドラえもん』を楽しんでいますが、私の世代はまだ大山のぶ代さんの声でした(声優さんが変わる時は寂しさを覚えましたが、私はどちらの『ドラえもん』もそれぞれの良さを持っていると思います)。『ドラえもん』にハマったのは、映画『ドラえもん のび太の南海大冒険』を観てからで、それからテレビシリーズの方も好きになりました。
ファンである私なりに、『ドラえもん』にはいろいろと疑問を抱く箇所があります。たとえば、「歴史を変える行為を取り締まるタイムパトロール隊が、どうしてセワシを逮捕しないのか」だとか、「セワシはなぜ四次元ポケットだけでなく、ドラえもんごと連れてきたのか」とかです。また、映画ではよく「タケコプター」の電池が切れて飛べなくなることがありますが、「タイム風呂敷」で電池が切れる前の状態に戻せば問題ないのにと、もどかしく思ったこともあります。しかし、私は「そういうことには触れないお約束なのだろう」と暗黙のルールに逆らうことはせず、疑問は脇に置いて、作品は作品で楽しんでいました。私は批評というものはよくわかりませんが、今回清水先生の「世界文学の中の『ドラえもん』」を読んで、「敢えてその暗黙のルールを打ち破ってこそ、今まで見えなかったものが見えて来る」という批評の面白さに気づくことが出来ました。マンガの場合小説と違って、視覚から先入観を植え付けられてしまいますが、だからこそ隠れている意味に気づいた時の喜びは大きいと思います。その喜びを得るためには、清水先生がやっているように、一コマ一コマを丁寧に「見読」することが必要ですが、私がそれをやったところで色々なものを見逃しそうです。
『世界文学の中のドラえもん』の中でとくに印象に残っているのが、一二三頁のドラえもんの位置についての話です。十三頁の一コマ目ではセワシとのび太の間にいたドラえもんが、三コマ目でセワシの左脇にいると書かれています。私はこのドラえもんの位置の変更に違和感を覚えたものの、それが何を意味するのかまでには考えが及びませんでした。だから、「ドラえもんはセワシの論理に賛同していることを示している。」という先生の文章を読んで納得しました。立ち位置で立場まで表現できるのは、小説にはないマンガの特権だと思います。

 ここからは清水先生に影響されて、私自身も頭を使ってみたくなったので、前述したいくつかの疑問について考えていきたいと思います。先生が著書の中で述べたことの重複のような箇所もありますが、自分なりに噛み砕いて消化したいので、あえて書くことにしました。

【タイムパトロール隊の謎――どうしてセワシを逮捕しないのか】
 二十二世紀の法律では、タイムマシーンに乗って過去の事実を変えることは禁止されています。その不正を取り締るのがタイムパトロール隊です。
 ところで、セワシの目的は「のび太を悲惨な運命から救い、自分が貧乏から脱すること」です。二十二世紀の法律に照らし合わせれば、セワシのやっていることは違法となります。そうなると、ドラえもんは共犯者ということになります。にもかかわらず、タイムパトロール隊はドラえもんやのび太と接触していながら、彼らの行為を取り締まることはおろか、注意すらしません。もちろん、ドラえもんは大量生産された子供のおもり専門ロボットなので、セワシの命令に背けなかったとも考えられますから、お咎めなしかもしれません。しかし、セワシは確実にペナルティーを科せられるはずなのです。
それでも彼が逮捕されない理由は一つです。その理由とは「彼が過去を変えてはいない」というものです。すると、最低でも二つの時間軸が平行して存在していることになります。一つはジャイ子とのび太の結婚の果てにセワシという孫の孫が生まれる世界で、もう一つは「セワシがのび太のところに彼の運命を変える目的でやってくる世界」です。のび太のところにセワシがやってくることは元からの決定事項だったので、タイムパトルール隊も逮捕する必要がないというわけです。

【セワシはなぜドラえもんごと送ってきたのか】
 のび太に便利な道具だけが必要ならば、四次元ポケットさえあれば事足ります。しかし、セワシは「四次元ポケットをつけたドラえもん」をのび太のもとに寄越します。もちろん「ドラえもん抜きのポケットのみ登場」だと、作品としての面白みもなくなってしまいますから、そこは作者の判断が働いているのでしょう。ただ、作品の中で考えてみると、セワシがのび太に四次元ポケットだけを持たせたくなかったと考えられます。
 そもそも、ドラえもんには案外物騒な道具も多数登場します。嫌いな人を消すことが出来る「独裁者スイッチ」、受験制度を脅かす「暗記パン」、世界のルールを変更できる「もしもボックス」などがそれです。また、ドラえもんがネズミを退治しようとしてミサイルを取り出したこともあります。そんな物騒なものをのび太に持たせたら大変なことになるのは目に見えています。
 ここで考えたのは、欲望の象徴が四次元ポケットなら、理性の象徴が『ドラえもん』なのではないかということです。また、四次元ポケットさえあれば不可能なことはないはずなのに、タケコプターの電池切れで移動が出来なくなったりするのは、ドラえもんが「おっちょこちょいな面を持つ」という設定を背負っているからです。ドラえもんがいる限り、のび太の際限のない欲望が暴走して彼を滅ぼすことはありません。

【番外編:のび太の何が一番かわいそうなのか】
 『世界文学の中のドラえもん』を読むと、マンガのほうののび太の母は、アニメのほうの母よりも優しい(甘い)印象を受けます。アニメの母はいつも小言ばかり言っています。のび太の一番の悲劇は、勉強が出来ないことでも、運動が出来ないことでも、何かの才能を持ち合わせていないことでもなく、彼と本気で向き合ってくれる大人がいないことです。小言を言うのは、彼の学力を上げることより簡単です。マンガのほうはマンガのほうで、彼のSОS信号を「こわいゆめを見たのね」で済ませてしまって彼の問題と向き合うことをしません。のび太は「たとえどんなのび太であろうと受け入れてくれる存在」を必要としていながら、ある意味母親不在の状況に置かれています。そこへ、いくら(のび太が)駄目な面をさらけ出しても見捨てない、子供のおもり専門ロボットのドラえもんがやってくることで、のび太の救いの物語が始まるのではないでしょうか。


 最後に、前述した疑問の、先生の解釈を授業などで聞けると幸いです。また、時間があったら、「1」が死の数字で「13」が再生の数字だということについて、授業で詳しく解説していただけると嬉しいです。