「ドラえもん批判から未来を考える」・福田果歩

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『ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp
 『世界文学の中のドラえもん』 (D文学研究会)

全国の大型書店に並んでいます。
池袋のジュンク堂書店地下一階マンガコーナーには平積みされていますので是非ごらんになってください。この店だけですでに?十冊以上売れています。まさかベストセラーになることはないと思いますが、この売れ行きはひとえにマンガコーナーの担当者飯沢耕さんのおかげです。ドラえもんコーナーの目立つ所に平積みされているので、購買欲をそそるのでしょう。
我孫子は北口のエスパ内三階の書店「ブックエース」のサブカルチャーコーナーに置いてあります。
江古田校舎購買部にも置いてあります。

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四六判並製160頁 定価1200円+税



「ドラえもん批判から未来を考える」 

福田果歩
 私は昔からドラえもんが嫌いだった。野比のび太という主人公の、やる気のない他力本願な性格も然る事ながら、毎度おなじみの物語の展開、そして果てはドラえもんそのものの存在自体まで、全てが嫌いだった。まだ小学生だった頃の私は、「日本人ならばドラえもんを読むのが当たり前」というまさに日本人的な風潮に流され、学校の図書館で漫画のドラえもんを読み、家ではテレビアニメのドラえもんを、まるでそれが義務であるかのように鑑賞していた。そして漫画を読むたび、アニメを見るたび、幼い私は毎度のように思っていたのだ。やっぱり私はドラえもんが嫌いだ、と。
 なぜそこまで頑なにドラえもんを拒んでいたのかと言うと、私は幼いながらに、このドラえもんの持つ世界観に、一種の気持ち悪さ、不気味さを感じ取っていたからなのかもしれない。
 冒頭にも述べたとおり、主人公ののび太は何の能力も持ち合わせていないうえに、努力をしようという意思も根性もない、怠惰で無気力な人間である。私はこののび太の、徹底した「やる気のなさ」が怖かったのだ。それまでに私が見てきたアニメや漫画の主人公は、みな並外れた能力を持っていたり、輝かしい夢や涙ぐましい努力を体現する人物であったにも関わらず、それに比べてのび太のダメ人間さ加減と言ったら、恐ろしいものである。
 そしてそんなのび太のもとに、ドラえもんという青色の変な物体が突然現れ、「君を助けに来た」などと勝手な宣言をし、窮地に陥っているダメ人間ののび太を、未来から持ってきたというあまりにも便利すぎる道具で、いとも簡単に救ってしまうのだ。私は、これほど恐ろしい物語は他にないと思う。
 ドラえもんが執筆された時代は、まさに「科学万能主義」の思想が蔓延していた時代であり、科学が発達すれば何でも可能になる、と信じる人が頻出していたと聞いたことがある。ドラえもんはまさにそれであり、のび太がどんな危機に陥っていたとしても、科学技術で生み出した未来の道具で、パッと解決してしまう。これこそ、まさに「科学万能主義」の思想である。そして私は、こののび太という人間は、もしも本当に近い将来、ドラえもんに登場するような便利な道具が実際に生産され、科学で何でも解決できるような世界になった時、その時代に生きる人間たちの姿を描いているのではないかと思うのだ。自分では何も努力をせずとも、科学が生み出した道具で何でも願いが叶ってしまう。もしもそのような未来が本当に訪れたら、きっと世界中がのび太だらけになることであろう。私が怖かったのは、まさにこのことなのだ。
 しかし私は子供ながらに、文部科学省に推薦されている漫画を批判してはいけないという思いから、上記のような持論を展開し、「だから私はドラえもんが嫌いなの」などと口走って大人たちを困惑させることは決してせず、何か困ったことがあれば友人たちと一緒に「あ〜あ、ドラえもんがいればなあ」と口を揃えて今日まで生きてきた。実際は、ドラえもんなんかがいたら恐ろしくて堪らない、と胸の内で思いながら。
 そして今年、雑誌研究の授業で清水先生のドラえもんについての講義を聞いた時に初めて、私が長年胸の内に秘めてきた、「ドラえもん気持ち悪い説」は間違っていなかったのだと、驚きと安堵を得ることができた。
 清水先生は、ドラえもん第一巻の最初のページの1コマ目から、すでにその世界の不気味さを読み解いていた。「のび太はすでに死んでいるのだ」と。
冒頭から主人公ののび太は死に、そして新しい世界で再生する。その世界こそがまさに、ユートピア世界であるのだと。
 私は授業を聞いていた時にも大きな衝撃を覚えたが、この「世界文学の中の『ドラえもん』」を読み、改めてその世界観の奥深さに感動を覚えた。ドラえもんのいる世界はのび太にとって、ユートピア世界なのだ。まさに現実から切り離された、理想の世界。世の中に絶望し、一度死んだのび太が生きている世界。しかしその世界は現実のどこにも存在しえない。だからこそ、その世界に透明に流れている虚無感に、私はずっと不気味さを感じていたのだと、改めて納得することができた。
 そして、その世界において登場するドラえもんは、のび太の理想とする精神を体現化させた、のび太自身であると言う考案は、非常に衝撃的なものであった。しかしそう言われて考えてみれば、確かにドラえもんはのび太自身である以外、何者でもありえなのだということに気付かされた。この漫画は、何もできない自堕落なのび太と、何でも叶えることができるスーパーマン的存在のドラえもんという相反するふたつの存在が、1つの目的に向かって葛藤し合いながら進んでいく。それはのび太の心の葛藤であり、言うならばそれはのび太の心の成長への過程、とも呼べるかもしれない。
 そのことをこの著書で学んだ私は、今まで何も知らずに、一人でこっそりとドラえもん批判をし続けてきたことを恥ずかしく思った。作者は、この絶望的な主人公に死と再生を与え、ユートピア世界に連れて行くことで、心の中に隠れていたもう一つの自分の精神であるドラえもんと対面させ、葛藤しながら問題に取り組み、生きていくことを学ばせているのだ。それは決して「気持ち悪い」ことではなく、「凄い」ことなのだと思う。
 以上のことを学んだ私は、もはやドラえもんから気味の悪さは感じない。しかし、ある種の焦りのようなものを感じるのだ。のび太の中に、ドラえもんという希望に満ち溢れた精神があったように、きっと私たちの中にも、誰にだってドラえもん的精神は備わっているのだと思う。しかし近年の若者は、非常に無気力だと表現されることが多い。渇望が足りない、魂がない。それはやはり、便利な世の中によって、少しずつ世の中の人間がのび太化されているからではないだろうか。このままでは本当に、世界中がのび太だらけになってしまう。
そうなってしまう前に、願わくば全ての人に、のび太のようにユートピア世界に連れて行かれる前に、現実世界で、自分の精神の中にドラえもんを見つけて欲しいと、心から思う。