『世界文学の中のドラえもん』を読んで・岡谷亜蘭 

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京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
『ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp
 『世界文学の中のドラえもん』 (D文学研究会)

全国の大型書店に並んでいます。
池袋のジュンク堂書店地下一階マンガコーナーには平積みされていますので是非ごらんになってください。この店だけですでに?十冊以上売れています。まさかベストセラーになることはないと思いますが、この売れ行きはひとえにマンガコーナーの担当者飯沢耕さんのおかげです。ドラえもんコーナーの目立つ所に平積みされているので、購買欲をそそるのでしょう。
我孫子は北口のエスパ内三階の書店「ブックエース」のサブカルチャーコーナーに置いてあります。
江古田校舎購買部にも置いてあります。

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四六判並製160頁 定価1200円+税


平成二十四年度「雑誌研究」夏期課題
『世界文学の中のドラえもん』を読んで 
岡谷亜蘭

私は今年に入り初めて文芸学科の授業を受講した。それまでは他学科科目を受講したことがなかったので、清水先生の授業は衝撃的だった。ここまで熱く語る先生は、放送学科ではあまり見られないからだ。
 そして、「チーコ」、「まなづるとダァリヤ」、「蔵六の奇病」と初見の作品を“ぶった切る”ような解釈に、私は驚きを隠せなかった。しかし何より驚いたのは、今まで慣れ親しんだ「ドラえもん」の解釈である。

 思えば私はいつからドラえもんを知っていたのだろうか。記憶を辿っても分からない。(いつから知っていたかは定かではないが、3歳以前に住んでいた家にドラえもんのシールが貼ってあったということは思い出せた。)そういったある種細胞レベルにまで擦り込まれている「ドラえもん」を良い意味で斬新過ぎる考え方で切り込んでいく先生は、私の中に強烈なインパクトを残した。
 授業の中で話されていたことで、イマイチ理解できずにいたことも本書を読めば「そう言いたかったのか!」と納得できる。戻りながら読む作業で、先生の言いたいことをまとめることが出来た。

 さて、本題だ。本書を読んで第一に思ったことは「のび太って何?」ということだ。本書の中で気になったのは【のび太の死と復活】、【ドラえもんを“神をも超えた神”に位置づけている】、【ドラえもん=のび太の“分身”と位置づけている】の3点だ。この3点から「本書の感想」として、私なりの解釈を述べようと思う。

 まず私が疑問に思ったのは、本書では最初から最後まで「のび太はあくまでのび太」であることだった。勉強もスポーツも芸術もできないのび太は、死と復活を経ても尚勉強もスポーツも芸術もできないのび太なのだ。普通ならば「あんな自分は嫌だ」と思い、“デキる人”になるのではないか?しかし、のび太はそんなことはしなかった。何故なのか。私はこのように考えた。
上記の3点を数学的に解釈すれば【ドラえもん=神をも超えた神、ドラえもん=のび太(分身)】なのだから【ドラえもん=神をも超えた神=のび太】となり、のび太自身も神となるのではないだろうか?私たちはここでも作者のトリックに引っかかっているが「“現実”ののび太は破綻し、“神”ののび太としてユートピア時空に復活したのではないだろうか?」
最初にこう思いついたとき「なんて夢物語なんだ」と思ったが、ドラえもんは夢物語で良いのだ。それが「ドラえもん」なのだから。

のび太が神だと考えると納得いくことがある。本書でも指摘されていた「周りの人間がドラえもんを受け入れたこと」だ。
のび太は神となっても尚のびていた。しかし神となったのび太は本当にのびることはない。屋根から落ちても死なないし、お風呂で滑っても死なない。裏を返せば30分後の首吊りを木からぶら下がることに変換し、40分後の火炙りをお風呂で滑ることに変換したと言える。また、両親が部屋に入ってくるタイミングは「漸くか」と思ったり「今度は早いな」と思ったりする。これものび太が「自分に必要なものを享受している間は誰にも侵されない」というある種ルールめいたものが働いていると思わざるを得ない。だからこそのび太がドラえもんを必要としている限り、周囲は違和感を感じたり異を唱えることなくドラえもんを受け入れるのだ。

 また、実はのび太は神として復活することで新たな能力を手に入れている。それは冷静さと唯一の特技だ。それらは”ドラえもん”という神を従わせている前では発揮されない力であり、あくまで「ドラえもんがいないとき(従っていないとき)に自己防衛するために必要な力」の領域を出ることはない。普段は隠されているため、私たちは復活した神ののびたも「勉強もスポーツも芸術もできない、ダメなのび太」であると錯覚してしまう。
 冷静さと特技の描写はどこにあったのか。まず、冷静さ。これは本書でも何度も触れられているが、<誰?><どこから来た?><何しに?>という問いかけだ。本書では「危機的状況であっても決してめげない」と書かれていたが、私はこの簡潔且つ端的な質問はかつてののび太にできる代物ではないと思った。目の前に異形の生き物が現れた中でこの質問をするというのは、例え「ドラえもん」の作中で完璧とされている出来杉くんであっても無理だろう。また、両親にドラえもんと対峙した話をした際に「こわい夢を見たのね」と諭されたときも同じである。かつてののび太なら自分を恐怖に陥れるはずがない両親の発言を信じ疑わないだろう。「パパ、ママがあぁ言うなら、きっと夢だったんだ!」とお餅をパクつくに違いない。それを「だけど…」と疑うのび太は冷静であり、両親からの脱却も感じられる。それまで自分を守る存在として絶対だった両親を捨て、ドラえもんという神に乗り換えたのび太は冷静を通り越して冷徹なのかもしれない。
 そして唯一の特技。これはドラえもんに向けられた鉄砲型に突き出した左手が表している。そう、射的である。漫画からは逸脱してしまうが、アニメや映画ののび太は射的が唯一の特技とされている。その腕前はなかなかのもので、ドラえもんですら敵わない。超ド近眼なはずなのに、危機的状況をくぐり抜ける道具として射的は絶大な力を発揮しているのだ。(私たちはのび太がドラえもんと出会う前を知らないが、きっと射的はできなかったであろうという推論から発している。)

のび太は、現実で死ぬことから神として復活し、復活しても変わりきれない自分を補う「ドラえもん」という分身を手に入れ、ユートピア時空で生きる。この物語は作者によって巧妙に隠されているが、超ド級SF作品なのかもしれない。セワシを見た読者は、ドラえもんがのび太の分身であるとは思いもよらない。
今回の私の解釈は「世界文学の中の『ドラえもん』」で先生が示された要点を基に述べているが、おそらく「ドラえもん」の切り口は多種多様なのだろう。深く追求し熟考したわけではないが、死して尚変わらないのび太は神であると同時に悪魔的側面も感じさせる。本書を読んで、様々な切り口で「ドラえもん」を読み解いてみたいと感じた。