「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載4)

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「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載4)
アポロンの地獄』論からの出立

清水正

 映画は〈現代〉(『アポロンの地獄』の脚本を掲載した「映画芸術」1968年12月号の記事によれば、「一九二0−三0年代の北イタリアの片田舎」)において、一人の男の子が誕生する産室を外側から映し出す場面から始まる。パゾリーニにしてみれば、オイディプスの運命はソポクレスの時代に特定されるものではないことを予め宣言しておきたかったのであろうか。すでにフロイトエディプス・コンプレックスはすべての男の子に共通した普遍的な心理であることを指摘していた。生まれてきた男の子は無心に母親の乳を吸うが、父親の子を見る眼差しに嫉妬と憎悪の感情が混じることで、子の顔にもそれに対応する、将来の運命(父を殺し、母と情を結ぶという)を先取りするような不気味で不遜な表情も見え隠れする。若い父親は我が子に対する激しい嫉妬心を深く押さえ込んで妻をベッドに押し倒す。妻の仮面のような表情は、単純化せずには炎上してしまう複雑怪奇な感情を幾重にも畳み込んで妖しいオーラを発している。
 最初に観た時から、ライオスやオイディプスを演じた役者には役不足の感を否めなかったが、イオカステを演じた女優には〈女性〉や〈母性〉を超えた何か得体の知れない秘められた力を感じた。眉を塗りつぶした、その能面のようなメークが東洋的な神秘を感じさせ、親和と違和の混じりあった奇妙な感情を起こさせる。
 画面は〈現代〉から古代ギリシャのキタイロンの山岳地帯へと変わる。その場面をシナリオから引用する。

  太陽に焼けただれ、赤茶けた土地を、テーバイの羊飼がやって来る。担いだ槍には、赤ん坊が裸のまま手足を縛り付けられて泣き叫んでいる。
  近くにいたコリントスの羊飼いの老人が赤ん坊の鳴き声を聞きつけて、いぶかし気に声の方に歩いて行く。
  テーバイの羊飼、槍から下した赤ん坊を突き殺そうとするがどうしてもできない。荒涼とした一帯は、鷲や蛇の棲息地である。老人、困惑しているが思い切ってその場を離れる。
  コリントスの羊飼が近づいて来るのに出合い、お互いにみつめ合う。テーバイの羊飼、相手の男に信頼の微笑を投げかけて、急ぎ足に立去る。
  コリントスの老人は岩陰に赤ん坊を見つけ、嬉しそうに駈け寄る。急いで手足を縛った皮紐を解いてやり、足をさすって唇を触れる。
 羊飼「足がこんなに腫れちまってる。何てきつく縛ったんだろう。泣くじゃない。泣かんでいいんだよ」
  老人、赤ん坊を抱き上げると急いで山を下りて行く。

 映画では父親が赤ん坊の両足踝を強く握りしめた場面から、古代ギリシャの荒涼とした風景へと変換する。〈現代〉の父親が息子の両足首を強く握りしめたことは、彼の息子に対する殺意の現れであり、それが実際に行使されたかどうかは別として、象徴レベルでは子殺しは全うされたことになる。
 が、古代ギリシャを舞台としたオイディプス劇においては、息子オイディプスアポロンの神のお告げ通り、生き延びて、やがて父親を殺し、母親と肉の結合をはたすことになる。テーバイの羊飼いはオイディプス殺害を命じられていたにもかかわらず、不憫を感じて殺すことができなかった。たまたま居合わせたコリントスの羊飼いが、いわば荒野に捨ておかれた赤ん坊を拾い上げ、子供に恵まれなかった自国の王ポリュボスに差し出すことになる。
 ここで、いったん立ち止まろう。疑問は数かぎりなく潜んでいる。いったいだれがオイディプス殺害を命じたのか。『オイディプス王』(藤沢令夫訳。岩波文庫。特に断らない限りこのテキストから引用する)からイオカステの証言をまずは引いてみよう。

  以前あるとき、ライオスにひとつの神託が下されたことがありました。わたくしはそれを、アポロン直きじきの御神託とは申しますまい。そのお社に仕えるかたがたから、告げ聞かされたものでございます。そのお告げにによりますと、わたくしとあのかたとの間に子供が生まれたならば、ライオスはその子の手にかかって、殺される運命にあるということでございました。ところが、ライオスのほうはある日、噂によれば他国の盗賊どもの手にかかって、三筋の道の合わさるところで命を落されました。一方子供はいえば、生まれてまだ三日もたたぬとき、ライオスが留金で両のくるぶしを差し貫いたうえで、人手に託して人跡なき山奥に捨てさせてあったのでございます。
  こうして神アポロンは、先のお告げにあったようなことを、何も実現させたまいませんでした。あの子が父親の殺害者となるということも、またライオスがおそれてやまなかった、みずからの子の手にかかって死ぬという凶事も──。(60〜61)

 
 このイオカステの言葉には実に多く〈声〉が埋め込まれている。まず言えるのは、彼女にとってアポロンの神託はどうやら絶対ではないということである。しかも彼女はそのことを面と向かって言うような女ではない。彼女は「アポロン直きじきの御神託とは申しますまい」というような言い方をする。予め逃げ隠れできる場所を確保した上での物言いである。わたしは今回『アポロンの地獄』を批評するにあたって最も興味を牽かれているのがイオカステである。この女はライオスやオイディプスの単純な頭脳をもってしてはとらえがたい大いなる曲者である。
 いったい誰がオイディプスの死を命じたのか。ふつうに考えれば、アポロンの神託を恐れたライオスということになろう。イオカステの証言によれば、ライオスは赤ん坊の両くるぶしを留金で差し貫いたうえで、人跡なき山奥に捨てさせた、ということになる。
 ここでわたしは、どこまで現実的に想像力を働かしたらいいのだろうかとふと思う。映画では赤ん坊の両手両足は縄できつく縛られて、羊飼いの担ぐ槍に吊されていた。映画を観ながら、この赤ん坊を炎天下の撮影現場に提供した母親のことなど思って不快な気分にもなった場面である。もし、原作通りに赤ん坊の両足踝を留金で差し貫けば人権侵害で問題になるだろう。

 さて、生後三日もたたぬ赤ん坊が、その両くるぶしを留金で差し貫かれ、槍に吊されて人跡なき山奥に運ばれれば、もうそれだけで命を存続させることは不可能ではなかろうか。もし奇跡的に助かったとしても、成長したオイディプスは満足に歩行もできなかったはずである。映画では同年輩の若者たちと競技などして大地を駆け回っているが、そんなこともまた不可能なはずである。
 それよりなにより、イオカステの証言からは、我が子に対するうめきがまったく聞こえてこない。最初の子供が、夫ライオスの手によって両のくるぶしを差し貫かれ、人跡未踏の山奥に捨てられるというのに、この女からは嘆きの声も怒りの声も聞こえてこないのだ。王ライオスが決定したことは絶対であり、その絶対性の前ではどんな悲しみも怒りも押さえ込まれてしまったというのであろうか。
 ここで、さらなる疑問の前に立ち止まろう。王ライオスはわざわざアポロンの神託を乞うているわけだから、単純に考えれば王ライオスの絶対性より神アポロンの絶対性の方が優位性を持っていることになる。ライオスが息子オイディプスを山奥に捨て去ることを従僕に命じたことは、つまり王の神に対する反逆を意味しており、イオカステは夫のその反逆に同調したことを意味している。
 イオカステはアポロン神に従う女である前に、夫であるライオス王に従う女であったことはしっかりおさえておく必要がある。原作『オイディプス王』においても映画『アポロンの地獄』においても、イオカステがわが子オイディプスを助けようと心乱すことはなく、夫にあがらう場面もない。
 映画でライオス王の従僕がオイディプスを槍にぶら下げて熱い日差しを浴びながら荒野を歩いていく場面を観ると、牧畜民族にとって赤ん坊は四肢動物と同じような存在なのかと思ってしまう。赤ん坊のオイディプスは子豚のように四つ足をきつく縛られ、槍に吊されている。もし泣き声が聞こえなければ、オイディプスが人間であるということさえ確かに伝わってこないかもしれない。わたしはヨブ記を読んだときにも、亡くなった子供に対する賠償が、まるで牛や羊と同じような扱いをされていることに違和感をおぼえた。三人の子供を奪った神は、新たに三人の子供を与えれば、それですむような書き方であった。イリューシャ少年を亡くしたスネギリョフにとって、イリューシャに代わる子供はいないのだ。『ヨブ記』に多大な影響を受けたドストエフスキーは『ヨブ記』をさらに深く越えて人間の悲嘆と憤怒の究極に迫った。