『「悪霊」の謎」の校正

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ここ一カ月、「清水正ドストエフスキー論全集」第六巻に収録予定の『悪霊』論三部作の校正に追われている。愛用していた近眼メガネの柄が壊れ、修理に出していたのでここ十日間は異様に目が疲れた。なんとか一回目の著者校正が終わったが、引用文献の照らし合わせなどがまだ若干残っている。とにかく校正は執筆以上に疲れる。第三部『悪霊』論のあとがきの一部を次に紹介しておこう。これは一九九三年五月二十五日に書いたものである。

『悪霊』の第三部の表紙。肖像は舞踏家・岩名雅記

『悪霊』の第三部の扉。肖像は舞踏家・上杉貢代。撮影は高橋成忠

『悪霊』の第三部の目次。
第三部『悪霊』論のあとがきの一部
 いずれにせよ、一九八八年十月二二日に「政治的季節の『悪霊』」から書きはじめた『悪霊』論は、最終章「『悪霊』の作者アントン君をめぐって」を一九九〇年八月二八日に書き終えることで幕を降ろした。四〇〇字原稿用紙に換算すると一七〇〇枚に及ぶ、この膨大な『悪霊』論を書かしめたエネルギーの秘密を今打ち明けることはひかえよう。ただ一言だけ言わせてもらえば、まさに小〈ピョートル〉や市井のスパイ〈リプーチン〉がルサンチマンにかられて鉄面皮に跳梁跋扈する、醜悪きわまる〈生きてある現実〉が、わたしの怒りのマグマをいたく刺激したということである。
 『悪霊』論を書きはじめたとき、わたしの念頭にいつもあったのは連合赤軍事件である。わたしは浅間山荘を舞台にした機動隊と連合赤軍の銃撃戦をテレビで見ていた一人である。連合赤軍の主要メンバーたちと、いわば、ほぼ同年齢であるわたしは、いつか、この連合赤軍事件についてきちんと自分なりの考えをまとめなければいけないと思っていた。わたしは、当時、可能な限りの新聞、雑誌を取り寄せて、連合赤軍事件に関する記事を切り抜き、スクラップしておいた。だから、わたしは、その資料を『悪霊』論で生かせるのではないかと考えたし、論の中で充分、連合赤軍事件にも言及できるのではないかと考えていた。ところが、どうだろう。読んでいただいた方にはすでにお分かりだと思うが、わたしの『悪霊』論のどこにも連合赤軍事件に言及した箇所はない。どうして、こういうことになったのか。わたしは論をすすめていく過程で、その理由をはっきりと思い知らされることになった。それは、連合赤軍事件という、いわば凄惨きわまる「事件」が、『悪霊』の舞台になった《スクヴァレーシニキ》という巨大なブラックホールに何なく吸い込まれていってしまったということなのだ。
 連合赤軍事件当時の『悪霊』論の水準も、作品『悪霊』に比べれば、それこそ児戯に類するものであったが、連合赤軍事件そのものが、ピョートルが組織した五人組(革命秘密結社)の水準にとどまっていたと言えようか。否、ピョートルの五人組には「無制限の自由から出発しながら、私の結論は無制限の専制主義に到達した」と語る苦渋の狂信的人類愛論者シガリョフが存在したが、連合赤軍にはただ一人の〈シガリョフ〉も存在せず、ましてやそこには様々な貌(共同の事業を達成するための革命家の領袖、非社会主義者、ペテン師、道化、政治的詐欺師、陰謀家、卑劣漢、使嗾者、秘密工作員)を持った〈ピョートル・ヴェルホーヴェンスキー〉の存在は影も形もなかった。師ピョートルの秘密を何ひとつ知ることのできなかった忠実な弟子〈エルケリ〉、この〈エルケリ〉たちが舞台を百年後の日本に移して展開した革命運動の顛末が連合赤軍事件であったと言っても過言ではないであろう。
 『悪霊』の奥深さは恐ろしいばかりである。連合赤軍事件当時の『悪霊』論で俎上にあげられていたのは、虚無の権化ニコライ・スタヴローギン、人神論者キリーロフ、国民神信仰者シャートフ、秘密革命結社の首魁ピョートル、それに彼らの先生とも言うべきステパン氏の五人ぐらいのものであった。しかも、彼らの「思想」については論議されても、彼らが秘め抱えていた「秘密」は何ひとつ明かされてはいなかった。
 わたしは『悪霊』論の第一部で特にステパン先生とピョートル、第二部でニコライ・スタヴローギンとヴァルヴァーラ夫人、舞台となったスクヴァレーシニキ、日付、そして本書の第三部でリーザ、マリヤ、作中作者アントン君等に照明を与えることで、今までこの作品に秘め隠されていた数々の謎を浮き彫りにしたつもりでいる。