清水正の『浮雲』放浪記(連載77)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載77)
平成△年9月28日
 宗教を商売と考える伊庭のビジネス哲学を徹底的に根幹から突き崩せる宗教家がはたしているのかどうか。伊庭の宗教ビジネス観は、イヴァン・カラマーゾフが創造した劇詩に登場する老大審問官の思想に共通するものを持っている。ドストエフスキーの人神論者たちは、口をそろえて「人間はすべてことごとく卑劣漢なのだ」と言う。その卑劣漢の中でも特に傑出しているのがフョードル・カラマーゾフである。フョードルが「私の天使」と呼ぶ三男アリョーシャは、ゾシマ長老に師事するために修道院入りを決意する。この世は暗黒に満ちていようとも、一人ぐらいは真理を体現されているお方があるに違いないとアリョーシャは思う。そしてアリョーシャが唯一、真理を体現されたお方と見なしたのがゾシマ長老であった。
 この清廉潔白な高僧ゾシマをはたしてフョードルはどのように見ていたかが問題である。ユダヤ人と交際のあったゾシマは居酒屋から女郎屋の経営にまで通じている。しかも彼は、裏社会に通じているばかりでなく、人間の裏、人間が内部の闇の中に密かに抱え持っている秘密にも鋭利な直観力を備えている。ゾシマ長老を天使アリョーシャは無条件に信じ込んでいるが、もちろんフョードルの冷徹な道化の眼差しはゾシマの暗黒を見据えている。フョードルが乞食女に生ませたというスメルジャコフは、実は甘いもの好き、女好きであったゾシマの子供と見ることもできる。フョードルが自分の屋敷の風呂場に産み落とされた乞食女リザヴェータの赤ん坊を「くさい臭いを発する」という意味のスメルジャーシチィという言葉をもじってスメルジャコフと名付けたことと、ゾシマ長老が死んですぐにくさい臭いを発したことの符号は単なる偶然ではない。ゾシマ長老の庵室には〈抜けっこ〉の通路によって離れの部屋へと繋がっている。『カラマーゾフの兄弟』の第一部においては、未だゾシマの暗黒の領域はきわめて暗示的に描かれており、その全貌は深い霧に覆われている。スメルジャコフはフョードルを殺したが、それは本当の父親殺しではない。すでに彼の父親ゾシマは病死している。あの世でゾシマとフョードルが交わす会話にこそ興味がそそられる。
 伊庭はゾシマのような高僧ぶりを発揮できず、フョードルのような冷徹な道化の眼差しも備えていないが、共通しているのは〈好色漢〉ということである。

平成△年9月29日
 ゾシマの好色ぶりは隠されているが、このしわくちゃ顔の歳より老けて見える男が抱えていた闇は深い。『カラマーゾフの兄弟』でゾシマの秘密を知っていて道化まくっていたのがフョードルで、この二人の内心のドラマを見ない者に、この作品の醍醐味を味わうことはできない。伊庭は描かれた限りにおいては、単純な好色漢で、宗教ビジネスを成功させた敏腕家に過ぎないが、しかし彼の平板に見える俗な思想こそが、大半の日本人の本音の部分を端的に語っている。葬儀に参列して僧侶が唱えるお経の意味を知っている者はほとんどいない。お経の意味を説明する僧侶もいない。葬儀は死者をこの世からあの世へと送る儀式となっており、あえてその儀式に反逆する者もいないが、心の底からあの世の極楽浄土を信じているわけでもない。宗教を、躓かずにはいない人間を救済するビジネスと割り切れば、伊庭のような経営戦略はごくまともな考えということになる。
 人間は、うまく誤魔化されて魂の安泰を願う存在なのである。大審問官はキリストに向かって言う「よく人間を観察するがいい。いったいおまえはだれを自分と同等の高さにまで引き上げたか? わしが誓っておくが、人間はおまえの考えたよりも、はるかに弱く卑劣につくられている! いったいおまえのしたと同じことが人間にできると思うのか? あれほど人間を尊敬したために、かえっておまえの行為は彼らにたいして同情のないものになってしまった、それはおまえがあまりに多くを彼らに要求したからである。これが人間を自分自身より以上に愛したおまえの、なすべきことと言われようか? もしおまえがあれほど彼らを尊敬しなかったら、あれほど多くを要求しなかっただろう。そして、このほうが愛に近かったに相違ない。つまり、彼らの負担が軽くなるからだ。人間というやつはいくじがなくて、下劣なのだからな」(348)と。
 大審問官の言葉は延々と続くが、劇詩の聞き手であったアリョーシャは「兄さんの老審問官は神を信じていやしません、それが老人の秘密の全部です!」と言い切っている。伊庭もまた〈彌陀の本願〉を信じていない。それが伊庭の大日向教の秘密の全部である。劇詩は、終始沈黙を守っていたキリストがとつぜん無言のまま大審問官に近づいて、九十年の星霜をへた血の気のないくちびるに接吻して幕を下ろす。伊庭に大審問官の苦悩はなく、伊庭に黙って接吻する者もない。伊庭は『罪と罰』に登場するルージンと同じような敏腕な実務家でぬかりなく生きている。