プーチンと『罪と罰』(連載4) 清水正

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                清水正・画

 

プーチンと『罪と罰』(連載4)

清水正

 

 『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャを囲んだ子供たちの「カラマーゾフ万歳」は、「ディオニュソス万歳」と解釈はできても「キリスト万歳」と一義的に受け止めることはできない。ドストエフスキーは生涯の最後においても、作品の世界で絶対的な、つまり不信と懐疑を完璧に超克した信仰を表明することはできなかったとわたしは考えている。

 ドストエフスキーは『白痴』のムイシュキン公爵において真実美しい人間の造形を目指したが、その目論見に成功したとはとうてい思えない。ムイシュキン公爵は現実世界を生きる人間たちが抱え込んでいる欺瞞を無邪気に容赦なく暴き出す人物であり、過剰な同情心あふれる人物であるが、決してひとに安泰と幸福をもたらす人物ではない。彼は秩序を無秩序に、安泰の日常を悲劇的な非日常に変える異様な力を備えた異人的存在であり、自意識の届かぬ内部世界の深奥に自他共に破壊せずにはおかないし毒物を抱え持った人物であった。

 ムイシュキン公爵という人物は、シベリアで〈思弁〉(диалектика)の代わりに〈命〉(жизнь)が到来した、と作者ドストエフスキーによって保証されたロジオン・ラスコーリニコフの直々の後継者とは言いかねる。ムイシュキン公爵ラスコーリニコフよりはむしろスヴィドリガイロフの血を多分に受け継いでいる。キリスト教に対する不信と懐疑の念はスヴィドリガイロフに鬱積している。その意味では、ムイシュキン公爵はスイスの療養所からではなく、蜘蛛の巣のかかった田舎の〈永遠の湯殿〉からペテルブルグへとやってきたと言った方が納得がいく。

 『未成年』のヴェルシーロフは神を信じようとして様々な苦行までするが、ついに信仰することができない。ヴエルシーロフは自分には神を信仰する能力がないのだと思わざるを得ない。『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老は清廉潔白な高僧と思われているが、実はスメルジャコフの父親の顔を隠している。ゾシマ長老の闇の秘密を知っているのは、スメルジャコフの父親だと噂されているフョードルだが、彼は最後までこの秘密を誰にも晒すことなく墓場へと持ち去った。

 ゾシマ長老が死んで悪臭を放ったことは、いつも悪臭にまみれていた乞食女リザヴェータとの繋がりを暗示していたが、作者はこの秘密を封印し、またこの秘密に肉薄する批評家、読者もいなかった。わたしはスメルジャコフはゾシマ長老がリザヴェータに秘密裡に孕ませた子供、スネギリョフ退役二等大尉の息子と思われているイリューシャ少年は、実はフョードル・カラマーゾフの子供だと思っている。ゾシマ長老とフョードル・カラマーゾフは世間から隠された〈実子〉を持っていることでも共通している。ゾシマ長老の抱え込んでいる闇は深く、一種独特の眼差しを獲得した者にしか彼の秘密をのぞき見ることはできない。

 『カラマーゾフの兄弟』は未完の小説であり、この小説は死期を予感していたドストエフスキーによって書き急がれている。ゾシマ長老とフョードル・カラマーゾフの秘密、アリョーシャの内部に潜んだ〈悪魔の子供〉は未だその成長を停止されたままである。アリョーシャの描かれざる未来に〈革命家〉の相貌を見る者があるが、たとえそうだとしてもこの〈革命家〉はピョートル・ヴェルホヴェーンスキーの悪魔の長い赤い舌を口中に隠し持っていることを忘れてはならない。ドストエフスキーにおける〈革命家〉の実体を的確に把捉するためには、ピョートル・ヴェルホヴェーンスキーにおける〈キリスト〉が見えていなければならない。が、未だ『悪霊』に秘め隠された多くの点が知られていない。ドストエフスキーの文学は百年や二百年ぐらい経過しても、容易にその姿を晒すことはない。

 いずれにしても、世界的な小説家であるトルストイドストエフスキーが真剣に真摯に〈人間とは何か〉を問い続け、〈神の問題〉を追究し続けたことを忘れてはならないだろう。わたしはドストエフスキー宮沢賢治の文学を通して、生きてあることの謎の前に立ち続けている。七十歳を越えて三年目になるが、分かったことと言えば〈分からない〉ということだけである。なんのために生まれてきたのか、死んだらどうなるのか、まったく分からない。が、分からないことに苛立ちはない。それでいいと思っている。運命に身をゆだねている。〈諦め〉と言ってもいいが、別に人生に絶望しているわけではない。〈諦念〉〈絶望〉をニーチェ風に〈積極的ニヒリズム〉と換言してもいい。

 わたしは十四の時から〈必然者〉となったので、すべての事象に〈必然〉をみる。この〈必然〉は即〈自由〉でもあるので、〈必然〉と〈偶然〉が対立概念となることはない。ドストエフスキーは『地下生活者の手記』で、すべての事象は〈必然=二×二=四〉であると見なしながら、人間の〈気まぐれ〉は〈必然〉の網の目から抜け出して〈自由〉の範疇に属するものと認めた。

 創世記の全能の神が人間を自由な意志を持つ存在として創造したということを、キリスト教圏内のドストエフスキーもまた忠実に継承している。ドストエフスキーの人物たち、特に人神論として設定された人物たちは、自らの〈自由〉を徹底的に余すところなく駆使して、創造主〈神〉をも〈否定する自由〉を放棄せずに闘い続ける。ドストエフスキーの人物の内に、仏教的な〈無〉や〈空〉を体現する人物は登場してこない。

 

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