清水正の『浮雲』放浪記(連載64)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載64)

平成△年8月21日
 作者は「車中で、富岡が、ゆき子の手を握り、人目につかないかくしかたで、車窓に乗り出すようなかっこうで、走り去る疎林を指差し、あすこはベンベン、サオ、ヤウ、コンライ、バンバラと教えてくれた」と書いているが、この描写には濃密なエロスを感じる。
 書かれているのは表層の場面だけで、この場面を描かれた通りに映像化しただけでは、その重層的なエロスを味わい尽くすことはできない。富岡は右手で走り流れていく疎林の植物を指さしながら、左の手指でゆき子の敏感な軀の各所に触れ〈あすこはベンベン、サオ、ヤウ、コンライ、バンバラ〉などと口に出していた、そんな、読者にも密かに隠された場面が埋め込まれていたような重層的なエロスを感じる。ベンベン、サオ、ヤウ、コンライ、バンバラを口に出してみたらいい、エロティックなリズムそのものである。
 〈疎林〉〈落葉〉〈林床〉〈野火〉〈凄んだ林野〉〈おそろしくこんもりした密林〉〈棕梠竹〉〈下草〉〈椰子〉など、これらをエロスの文脈にそのまま重ねてみれば、ゆき子が思い出す車窓から眺められた風景そのものがエロスの様々な諸相を物語っている。特に巨大な掌状葉を拡げている〈パラと言う椰子の一種〉は鮮烈に印象に残る。ゆき子が、富岡の解説の甘い声を耳で感じながら眼にした南国のジャングルの光景は、富岡に触れられていた軀の触感と連動している。
 富岡がゆき子と初めて挨拶を交わした翌日、彼は一人、山林事務所からマンキンへと向かう。富岡は黙々と、勾配のある曲がりくねった自動車道を歩いていくが、その時の場面を作者は「沿道は巨大なシイノキや、オブリカスト、ナギや、カッチャ松の森で、常緑濶葉樹林が、枝を組み、葉を唇づけあって、朝の太陽を鬱蒼とふさいでいた」と書いていた。この描写は富岡のゆき子に対する慾情の具体的な発露の隠喩であった。この場面を単なる常緑濶葉樹林の描写としか見れない読者は、人物の内面を生々しく感じとることはできない。ゆき子が富岡と車窓から眺めた自然の光景は、二人の性愛関係の内的光景と密接に重なっている。林芙美子はこういった隠喩的表現の名手であり、読者はそれを存分に味わう必要がある。

  ああ、もう、あの景色のすべては、暗い過去へ消えて行ってしまったのだ……。もう一度、呼び戻すことのできない、過去の冥府の底へかき消えてしまったのだ。貧弱な生活しか知らない日本人の自分にとっては、あの背景の豪華さは、何ともすばらしいものであったのだ。ゆき子は、そうした背景の前で演じられた、富岡と、自分との恋のトラブルをなつかしくしびれるような思いで夢見ている。(306〈三十六〉)