清水正の『浮雲』放浪記(連載37)

清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。
ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載37)
平成△年7月22日
 ゆき子は〈みえぼうで、うつり気で、その癖、気が小さくて、酒の力で大胆になって……気取り屋〉〈人間のずるさを一ぱい持ってて隠してるひと〉である富岡に勝つことができなかった。なぜか。ゆき子は〈いい男〉で〈正直〉な男に魅力を感じなかったということである。富岡は女の狡さを知っている。〈いい〉とか〈正直〉などということに特別の価値を見いだしているわけでもない。女は自分の狡さや見栄や虚勢をよく知っている男に牽かれる。女心に無知な男の純情ほどうざったいものはない。富岡は加野の〈正直〉を認めているのではない。加野の〈正直〉は〈愚か〉と同義語であって、要するに富岡は加野をバカモノ扱いしているのである。
 加野は富岡に内緒でゆき子に手紙を渡したことがある。ゆき子は富岡にわからないようにその手紙をハンカチで隠した。要するに、加野もまた富岡に負けず劣らずのことをしているわけだが、ゆき子は独身の加野ではなく、妻帯者で浮気者の富岡を選んだということである。男と女の間に倫理も道徳もないし、善悪の彼岸における本能的な次元で生きている者にとって〈正直〉は〈嘘〉より高い価値と見なされることはない。つまり、加野は富岡と同じ次元で関わることができない男として設定されており、従って加野はゆき子のみならず読者にとっても緊張感のない存在である。
 林芙美子が富岡の存在のなんたるものかを描き出すためには、加野をきちんと描かなければならなかったわけだが、加野をそこまで魅力のある人物として描くことはできなかった。加野は富岡の虚無の空(そら)に浮いている形のある雲であり、富岡はそれを〈いい男〉とか〈正直〉とか名付けた。加野は富岡の虚無の空を見ることができなかった。ゆき子はそういったことに関しては動物本能的に敏感で、加野に男としての魅力を感じることができない。ゆき子が富岡に愛想を尽かすためには、富岡の虚無などすっぽりと包み込むような広大な虚無を抱え込んだ男と出会わなければならない。林芙美子は『浮雲』において〈しようのない人間〉富岡を描くにとどまった。ここに林芙美子の凄さと限界がある。