猫蔵の日野日出志論(連載21)

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猫蔵の日野日出志論(連載21)
日野日出志の『七色の毒蜘蛛』論(連載4)
猫蔵

見開き6ページ。
 その翌日、“私”はもっと巨大で恐ろしい蜘蛛を見るはめになる。1コマ目、巨大なキノコ雲が、この見開きページのコマ割りのなかで最大のものとしてクローズアップされ描かれている。よく見ると、キノコ雲の傘の部分に、大きなお尻をして複数本の足を四方へと伸ばした大蜘蛛の姿が浮かび上がっている。原爆投下と、決定的な日本の敗北を表すコマ絵である。
 2コマ目、GHQ総監・Dマッカーサーらしき人物が、パイプを片手に飛行機の梯子を降りてくる。その顔に一切の表情はなく、視線も黒いサングラスによって閉ざされ、窺い知れない。3コマ目、白い地面の上に、人間たちの靴の足跡だけが黒いベタ塗りとして残されている。4コマ目、「白鬼」や「黒鬼」と例えられ、米軍服に身を包んだ白人兵や黒人兵が日本に上陸してくる。その恐ろしげな形相は、語り手自身の主観を多分に反映しているようだ。
 左ページ1コマ目。
「それはやけに むし暑い夜の ことだった」。星と三日月に照らし出された土手の一本道を、三つの人影が寄添い歩いている。三つの人影は、画面の奥から我々読者のいる手前へと歩みを進めている。彼らが歩いてきた道の奥には、瓦礫の山となった町並みが見てとれる。月は寄添う三人の周囲を照らしてはいるが、彼らの行く手(つまり読者から見て手前の領域)はベタ塗りの闇に閉ざされたままで、前述の独白の言葉が白ヌキで書き込まれているだけだ。「むし暑い」という言葉と相俟って、ねっとりと密度の濃い闇が肌に絡み付いてくる感覚を覚える。
 2コマ目。
「ヘ〜イ ママサン 遊ビマショウ」。
ねっとりとした闇の沈黙が、何者かの声によって打ち破られる。そして三人(父、母、そして幼い“私”)はその場に棒立ちになる。闇のなかから現れたのは、占領軍の米兵たちであった。三人は脂汗を顔に滲ませ、後ずさりをする。父は母と“私”を庇う素振りをみせるが、「白鬼・黒鬼」と例えられた米兵たちに適うはずもない。4コマ目、父から引き離された母は、激情に駆られた白人兵の大きくて毛むくじゃらな手でその口を塞がれ、眉間に皺を寄せ身悶えするしかない。妻を取り返すべく抗う父は、別の白人兵によってまるで子供のように事も無げに取り押さえられてしまう。
 6コマ目。「私の 目の前で 悪夢が 展開されたのだ」。どうする訳でもなく、ただひとりぽつねんととり残された“私”は、押し黙り空で輝くだけの月や星たちと同じように、米兵たちに乱暴される母をじっと見つめている。このコマ絵に描かれた“私”の顔には脂汗ひとつ浮かんではいない。阿呆のように薄ぼんやりと口を開き、丸い目を見開いて、視線はある一点を凝視している。独白においては「悪夢」といいながらも、米兵たちを含めこの場に居合わせたどの誰よりも無感覚を保っているように見える。もしこの場面において“私”の顔に汗の玉がひとつでも浮かんでいたなら、読者はもっと救われた心持ちになっていたであろうし、結果として『七色の毒蜘蛛』はもっと凡庸な印象のみを残す作品になっていたことだろう。

見開き7ページ。
月と星々は相変わらず何事もなかったかのように光り続けている。1コマ目、父と“私”に背を向け、着物の肩をはだだけさせたまま、母は地面に座り込んでいる。2コマ目、道に突っ伏し、力なくうなだれている父と、そんなふたりの姿をやや遠巻きに見下ろしている“私”の姿が俯瞰で描かれている。“私”の顔には相変わらず汗粒ひとつなく、コマ絵において“私”は空に浮かんだ三日月とまったく同質の存在となっている。
3コマ目。土手の一本道の上の家族三人の姿を、月が煌々と照らしている。効果音は何もない。父に背を向けた母の黒い影が地面の上に伸びている。先ほどははだけていた着物の襟が、いつの間にか直されている。ただ、夫であり妻であるという、父と母ふたりの関係を、何事もなかったかのようにこれからまた続けてゆくには、あまりにも不自然な沈黙と距離がここにある。
4コマ目。「ドボーン」という音がし、土手下のどぶ川に映った三日月が歪に波打っている。母が身を投げたのだ。波打つ水面を指差す“私”の様子に、放心していた父がようやく正気を取り戻す。母を助けるべく、父もまた川へと飛び込む。母が飛び込んだときにできた渦と、父が飛び込んだときにできたそれとが水面で隣り合い、ふたつの波紋を描いている。見つめる“私”の顔には脂汗がいくつも浮かんでいる。
左ページ。まもなくして母は引き上げられる。しかし、すでに手遅れであった。1コマ目、もう二度とその目を開くことのない母の寝顔が描かれている。ぷっくりと柔らかそうな唇の端からは、血の筋が二本、滴り落ちている。母の死因は、果たして溺死によるものだったのだろうか。あるいは、父の手によって助けられることを拒んだ心が、みずからの舌を噛み切らせたのだろうか。
母を助けるべく、無我夢中でどぶ川へと飛び込んだせいで、父の全身からは粘り気を帯びた夥しい汚水が垂れ下がっている。これらのせいで、父の顔面には、漫画特有の冷汗が描かれる余地はない。また、眼鏡をかけたまま飛び込んだため、ぶ厚いレンズが目の表情を遮り、この場面において父はまるで、その感情を窺い知ることのできないゾンビかエイリアンのような風貌で膝をつき、すでに冷たくなった母を介抱している。
3コマ目。上着を脱ぎ捨て剥き出しになった父の背中に、“私”の視線は釘付けになる。ふたたび、そこにあの大蜘蛛の姿を見たのだ。蜘蛛は悲しみに打ち震えた父の背中で、紫色に変化していた。4コマ目においては、母が米兵に襲われたときや自殺を図ったときにも増して、カメラ=語り手の視点は、“私”の表情を大映しで抜いている。顔中に汗の粒が浮かび、零れ落ちそうなほど飛び出た目玉は、父の背中の蜘蛛に釘付けになっている。顔色も目の表情も窺い知ることのできない父の、剥き出しになった背中に、“私”は釘付けになる。
5コマ目。コマの枠いっぱいに、死んだ母を見下ろす父の背中が描かれている。引き攣れと汚水まみれの父の背中。その上に、大きな尻をした大蜘蛛が一匹、八本の細く長い足を広げている。独白の言葉はその光景について、「無数の水滴が 蒼い月光を浴びて、まるで真珠のように、美くしく 輝いていたのだった」と述べている。
“美しい”という言葉であるが、遡ること見開き5ページにおいても用いられていた。町に無数の火の玉が降り注ぐ光景に“私”は魅入られていた。いずれも忌まわしい場面であるはずなのに、ただひとり“私”だけはそこに<美>を感じずにはいられない。本来であれば見えるはずのない大蜘蛛に魅入られた私は、<美>を感受する場面において、ことごとくその姿を目撃せずにはいられなくなる。

 大蜘蛛とはいったい何者であろうか?世の中の倫理や道徳から甚だしく逸脱した美と、人外の美の虜となった者の物語といえば、芥川龍之介の『地獄変』がある。腕利きの屏風絵師・良秀は、みずからの娘が炎に包まれ死にゆく様を前に、ただひたすら絵筆を動かし、その光景を描き続ける。語り手はそんな良秀の姿を、「何か背後に荘厳な光が輝いているようにさえ見える」(芥川龍之介著『地獄変』より)と語っている。日野日出志もまた同名の漫画を描き残し、芥川の短編の切れ味に物語作家として多大な影響を受けたことを公言している。しかし、物語構成という現実的な手法のみならず、美の実現のためならばその他のありとあらゆるものの犠牲をも厭わないとする拭い難い一念のようなものもまた、芥川の作品から受け継ぎ、そして強められた部分もあったように見受けられる。
 漫画『赤い花』において、「美花園」にやって来た美しい女性客を手にかけ、その血と肉を肥料にし、可憐な花を作り出すことを第一義とした主人公の男。ここに、『地獄変』の主人公・良秀の姿が重なる。両者とも、その身にある種の非日常的な凄味を兼ね備えてはいるが、同時に、否定しがたい欠落(例えば男性的な不能のようなもの)の臭いをもまた確かに感じさせることを見逃せない。
「美花園」の主人は、ひとりの女性客を犠牲にし、美しい花を完成させる。しかし、それには飽き足らず、次なる獲物に視線を定める。たったひとりだけの女を愛の対象とするエロスからはむしろ遠く隔たりがあり、彼の創作の営みは、いっときの充足以上のものを男に約束するものではないように映る。やや穿った言い方をすれば、一見すると<美>の創造に殉じる男の営みは、男性的に不能であるがゆえに怨念にも近い感情を伴って持続する、捌け口を失ったリビドーを紛らわすための、身を削るような自涜行為にさえ思えてくる。ここに、誠の意味での心の安らぎはありえない。
『赤い花』に着想を得、そこからまったく異質な作品として生まれ変わったのが、映像作品『血肉の華』である。『赤い花』においては主人公の男はまだ、<美>の創造という営みに専念することができた。しかし、『血肉の華』では、みずからが創り出す<美>さえ、懐疑すべきものの対象へと堕してしまう。『赤い花』で見せたような“熱狂”はもはやここにはない。ついに美しい花が咲き誇ることもなく、ただ、女の血と肉とハラワタとが切り分けられる事実が、ビデオキャメラによって記録されるのみである。
『七色の毒蜘蛛』の話題に戻ろう。文芸作品のなかには、他人には見えざるものが見え、多分にしてそのことが当人に好ましからぬ影響を及ぼすということを描いたものがある。先の芥川の場合、最晩年の作『歯車』が挙げられる。作者である芥川龍之介自身を思わせる主人公の小説家は、「僕の視野を遮りだす」ものとして、徐々に数を増やしてゆく半透明の歯車を幻視するようになる。また、若かりし頃その芥川に心酔していた太宰治も『トカトントン』という小説を書いている。本作のなかで太宰は、感情の昂ぶりを覚えるような出来事に直面するとことごとく何処からともなく聞こえてくる「トカトントン」という音に、たちまち冷笑的な気持ちにさせられてしまう男のことを描いている。後者の場合、異常が視覚にではなく聴覚に訴えかけてくるものとして感受されるという違いこそあれ、どちらの場合も、みずからの五感と外部の世界とのスムーズな連携を拒む“ノイズ”としての性質は非常に似通っている。一方、『七色の毒蜘蛛』の場合はどうか。これまで本編を詳細に読み進めてきて、僕らは主人公である“私”が見出す「毒蜘蛛」に、ある一定の特性を認めることができる。
 まず、空襲によって瓦解する街や死にゆく人々、あるいはどぶ川の泥に塗れて母の亡骸を救い上げる父の背中の毒蜘蛛に、“私”は他のあらゆる感情にも増して、人知れず美しさを見出し、そこに見入る。<美>に見入ると言いながらも、この乾いた眼差しはどうだろう。ここに、対象への憧憬や慕情といった、ある種の熱や湿り気を帯びた感情を見出すことは不可能だ。三島由紀夫作『仮面の告白』の主人公は、子供の頃、町の若者衆に担がれる煌びやかな神輿の中心に、ぽっかりと空いた四尺平方の闇を見たと語っているが、まさにこれである。古都の仏教建築を前にして、壮麗さへの驚きとある種の呆気が、神仏に対する崇敬よりもまず先に僕らの心を惹くように、美を感受する“私”の眼差しは、潔よ過ぎるほど<美>にのみ純粋なのである。
 いずれにせよ大蜘蛛は、三島言うところの“義”よりもまず先に<美>を主人公に意識させるものとして彼の前にたち現れてくる。ただひとつ、これまでのところ“私”の眼差しが大蜘蛛を見出す場所は、他ならない父親の背中であったという必然は、『歯車』や『トカトントン』とは若干異なっている。それはつまり、“私”にとって父親というものが、<美>に拮抗すべき唯一にして最後の砦だからであろうか。以降、本編を読み解くにあたり、“私”が父親に見出し、託していたものに着目する。

 
猫蔵・プロフィール
1979年埼玉県生まれ。我孫子市並木に二歳まで住み、その後埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。清水正教授に師事。日大大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。著書に『日野日出志体験――朱色の記憶・家族の肖像』(D文学研究会)がある。本名・栗原隆浩