「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」連載1〜8までを読んだ感想(2)

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「文芸批評論」受講生のレポートを紹介します。
「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」を読んで
小島 梨沙

 意識空間内分裂者とは何だろうと思いながら読んでいた。連載3回目になって、ようやくそれがわかるような内容が書かれていたわけだが、哲学者が語っているようでいまいちよくわからなかった。鍋の話はわかりやすかったが、人間に置き換えると少しややこしい。どの具材も“我”の一部だけど、混ざり合うこともなく磁石のように常に真逆にいるわけでもなく、変な具合に組み合わさりながら頭の中を行き来しているということだろうか。嘘つきでもなく多重人格者でもない何者かの存在はいまだに頭の中を占領してしまっている。
 外国の本を読むときに、訳は誰がやっているとはあまり考えたことがなかったが、そんなにも違うものだったのかと思った。たしかに訳にも上手い下手がいると言うし、江川卓は翻訳者ではなくミステリー作家のようにも見える。
 『罪と罰』を読んでいるときも思ったが、ドストエフスキーもまさか日本で読まれるとは思わなかっただろうから、キリスト教をあまり知らない私にとっては想像できないところが多々あった。注釈でキリスト教についてちょこちょこ入れておいてもらえるとすごく助かるのになと思った。聖書の最後に信じない者のために書かれた言葉があるが、そもそもキリスト教を信じない人間が聖書なんて読まないんじゃないかとも思った。そうやって考えると『罪と罰』のように聖書について触れられている本と言うのは、聖書の入門編に見えなくもない。また、時代や国が違うので仕方がないが、「信仰なきことは罪である」と書かれては、現在の日本は罪人大国だなと思った。
 『罪と罰』のロジオンは、他のよくあるどうしようもない若者が紆余曲折を経て大きな成長を遂げて成功を手にするようなわかりやすい話ではなく、見た目もよく結構なエリートコースを歩んでいた青年がうっかり道を踏み外してしまい最後にあっさり復活してしまう話だから同調しにくい。どうしても極端すぎて「こんな人間いないだろ」と思ってしまう。そこで、ロジオンが全く非難されないのは、そのあまりにも現実離れしすぎた描かれ方をしているからではないかと思う。ラスコーリニコフ家は計算高い家系で、そこがある意味人間的だと思うが、徹底的に違うのは計算し尽されていて隙が見えないところ。ロジオンもそれを自覚していたとしたら、ものすごく恐ろしく見えてしょうがない。
 また、人の見方は人それぞれだと日常的にかなり思うことが多いのだが、ロジオンはマルメラードフの話を聞いただけで、ソーニャを踏み越えの告白の相手に選んでしまった。マルメラードフは真実しか語らないと信じきっているのか、会ってもいないソーニャが聖女のような女だと決めつけてしまっているなんて、思い込みが激しすぎると思う。あれだけずっと自分の頭の中でいろんなことを考え込んでいたロジオンが、当たり前のようにマルメラードフの話を飲み込んでしまうとは納得がいかない。
 先生の謎解きはただの仮説ではなく、その可能性をもとに次の闇にはこういう真実が隠されているとつながるから面白い。さらに次々見つけていくから考古学者の発掘みたいだと思った。ただドストエフスキーには隠された性的描写が多いと言うけれど、実際は隠したかったんじゃなくて、ただ単に経験がなかっただけではないのかとは思う。

先生のブログに掲載されている『意識空間内分裂者が読むドストエフスキー』第1回〜8回を読んで
原崎 絵理

 読んでいて、私自身ドストエフスキー作品の読み込みが足らないので、理解しきれない部分もあったが、ドストエフスキーの一言では語りつくせない深さが少しだけ分かった。先生は本文で≪作品の〈読み〉は限りなく開かれたものであったほうがいいと思っている。批評は作品に描かれた人物や思想や世界とどこまでも対話的に関わっていくことで〈再構築〉される。それがわたしにおける〈読み〉であり〈批評〉である。小さな遊園地の子供用のブランコに乗って牧歌的な遊びに満足する〈読み〉も内包するが、その時点にとどまることなく、ディズニー・シーのジェットコースターにも乗るし、想像力で宇宙の果てまで遊泳するのもわたしの〈批評〉なのである。≫と仰っている。だから中途半端に読み進めたり、ある一部分に特化して、偏った読み方をしていると、先生の批評はなかなか理解できないだろうと思った。数多くいる批評家がそうであるが、ある一面に特化して、面白く、分かりやすく批評した方が読者受けは良い。しかしその作品の本質、秘め隠されたものは、簡単に求められるものではなく、永遠の課題である。現在進行形でそれを再構築し続けているのが清水先生なんだなぁと思った。
≪わずかに書かれたことから、描かれざる場面をどのように想像するかで全く違った光景が浮かび上がって来ることになる。≫

〔意識空間内分裂者〕とはどういうことかよく分からなかったが、本文を読んで分かった。≪無数に分裂した〈我〉を抱え込んでしまった人間存在。どの人物にも自分自身とぴったり重ね合わせることができない。『カラマーゾフの兄弟』で言えば、神の存在を信ずるというアリョーシャと、神の存在を信じないというイヴァンの両方を共に抱え込んでしまったのが意識空間内分裂者で、にもかかわらず狂気に陥らないのは、分裂した様々な〈我〉を統治する意識(いわば映画における監督のような存在)が働いて無数の〈我〉を統治しているからである。
〈我〉のうちの一つが他の〈我〉を圧倒的に押さえこんでしまえば、意識空間内分裂者と唯一絶対の《我》を保持している者との区別は傍から見ればないということになる。二つの〈我〉、例えば神を信ずる者と信じない者が強烈に〈自己〉を押し出して来れば、その時、監督者としての統治的役割を担った〈我〉がその統治に失敗すれば、実存の均衡を崩して狂気に陥る可能性もある。≫

一般に、作品を読み進める際に、〈我〉のうちの一つが他の〈我〉を押さえこんでしまえば楽であるし、モデル像(これぞ正しい!とされるもの)があった方が安心できる気がするし、潜在的にそのように読み進める傾向があると思う。
しかしドストエフスキー作品に限らず、作品を読む時に例えば、‘正義は絶対に正しい’という〈我〉が、他の我を押さえこんでいたら、場合によっては危険なことになる可能性もある。何を以て正義となすかということもある。綺麗ごとを言っていても、それでは済まされないことが往々にしてある。それを知っておかないと、危険だということだ。人間は正義だけではなく、誰しも“悪”の部分を持っているし、あらゆる可能性は開かれているということだ。
誰しも持っているそうした隠された闇の部分も、先生はきちんと掘り下げようしているのだと思う。『罪と罰』の登場人物に関してもそうだ。浅く読んだ限りによってついたロジオンやソーニャ、ドゥーニャをはじめとして、あらゆる登場人物のイメージが見事に覆される。
例えば≪今までドゥーニャは兄思いの、自己犠牲的な、高潔で誇り高い美しい女性と見なされてきた。しかしドゥーニャはわずかの期間中に三人の男と深く関わった。淫蕩漢スヴィドリガイロフの倦怠に彷徨う魂を誘惑し、敏腕な実業家ルージンに結婚を決意させ、そして女たらしの好青年ラズミーヒンの心を奪った。スヴィドリガイロフを自殺に追い込み、ルージンに赤恥をかかせたこの魔性の女が、ラズミーヒンという平凡な男とどんな結婚生活をしていくのかみものである。ドゥーニャはルージンとの結婚を一度は承知した、打算的な女である。この〈打算〉はラスコーリニコフ家の人々に共通している。≫と先生は述べている。
神聖なイメージのあるソーニャの処女異論説もだ。
登場人物の隠されたどんな面をも追求する。例えば善と悪の両方をもっているとしたら、その両者を対等にみなす力が必要ということか。


私たちは人間の、何を信じたら良いのだろうか。あまり期待せず、美化しすぎず、でも騙されたと思ってみるのも良いかもしれない。
色々述べてきたが、私自身どうやって生きているかと振り返ってみると、時に意識空間内分裂者になったり、時には唯一絶対の《我》を保持している者であるかのように弁をふるったり、潜在的に、その場に応じて都合良く入れ替わっているような気もする。何が本当の自分かというとよくわからない。前述したことからいくと、とりあえず善も悪も持ち合わせている。

最後に、私が本文で印象的だった部分を抜粋して終わりたい。清水先生の生きざまは困難も多いだろうが、泥くさくてアツくて何だかカッコイイ。

わたしのように十七歳でドストエフスキーの「地下生活者の手記」を読み、地下男の自意識に洗脳された者は、否応もなく意識空間内分裂者として生きていかざるを得ない。意識空間内分裂者とは言っても、この地上世界においては身体存在としても存在しているから、時と場合によって一義的な〈我〉として振る舞うことを不断に要請されている。ある時は〈ニンジン〉として、またある時は〈ジャガイモ〉としての〈我〉を演じなければならない。各々の〈我〉は唯一絶対の《我》ではないので、いつも自分は演技している、今はたまたま〈ジャガイモ〉であるかのように振る舞っているだけだという意識にまとわりつかれる。尤も、近頃はそんな面倒くさい意識にとらわれることもなく、ごく自然に〈ジャガイモ〉であったり〈ニンジン〉であったりしている。
 チェーホフの作品を読んでいるとそこに「どうでもいいさ」(フショー・ラヴノー=всё равно)という言葉が出てくる。ドストエフスキーは、神の存在に関して一生涯苦しんだ作家である。ところが、チェーホフのフショー・ラヴノーは、神が存在しようがしまいがどうでもいいさ、といった虚無の底から静かに響いてくる。ドストエフスキーの人物の中には、こういったけだるい感じの虚無の声を発する者は見あたらない。なぜ今、唐突にチェーホフの言葉を持ち出したかと言えば、ドストエフスキーディオニュソス的世界と関わり続けて来た意識空間内分裂者の純粋意識の耳にこの言葉が心地よく響いてくるからにほかならない。わたしは「どうでもいい」「どうでもいい」と呟きながらドストエフスキーを読み、そして書き続けているのである。意識空間内分裂者は文字通り意識空間内においては分裂しているわけだが、明晰な意識、演出家としての純粋意識を保持している限りは狂気に陥ることはない。