荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載26)

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偏愛的漫画家論(連載26)
華倫変
 死に憑かれたカルト漫画家は極楽に辿り着けたのか (その⑥)

荒岡 保志漫画評論家

猫蔵と荒岡保志。清水研究室にて。なにがそんなにおかしいのか。

●作品発表の舞台を太田出版へ、漫画家活動再開!


「デッド・トリック」の、連載2週目に打ち切り決定と言うショックから、華倫変は漫画家活動を休止して実家に戻ってしまう。漫画家活動休止期間にして約2年間、自宅で引き篭もりのような生活を過ごしていたと言う。確か、2ちゃんねる華倫変掲示板にご本人が書き込みをし、それが何かと問題に挙がり、大炎上したのもこの頃である。
そして、2001年に入り、華倫変は作品発表の舞台を講談社から太田出版へと移し、漫画家活動を再開するのである。

太田出版と言えば、あの「クイック・ジャパン」を発行する出版社であるが、私は、かなり以前からこの出版社に注目していた。勿論、「クイック・ジャパン」も愛読していたが、選び取る作家、漫画家、主題が他誌と圧倒的に差別化され、正直なところ、青林堂の「月刊ガロ」と同じ顛末を迎えるのではないかと想像した事もある。それぐらい、一般商業誌とは一線を引いているのだ。

面白いのだが、太田出版華倫変は、相思相愛のような関係である。

太田出版は、1999年3月に、全く新しいカテゴリーの漫画専門誌「季刊マンガ・エロティクス」を創刊する。勿論、発行人は岡聡、スパーバイザーにあの「山本直樹」を起用すると言う念の入った漫画誌で、カテゴリーはタイトル通りエロ漫画ではあるが、山本直樹の言葉を借りれば、「エロであってエロだけで終わらない」漫画誌、と言う事だ。
岡氏は、華倫変を、この漫画誌に参加してもらいたい漫画家の筆頭クラスに入れていたのだ。ところが、その創刊当時の華倫変は、講談社と専属契約をしていて、他誌に作品を発表するのが困難な環境であったらしい。そして、「デッド・トリック」連載終了後には、今度は、実家に引き篭もった華倫変と連絡が取れない状況に陥ってしまったと言う。

そして2000年、年末に、岡氏の下に華倫変から一通の封筒が届く。中に入っていたのは、華倫変の処女作品集「カリクラ」で、「このころよりは上手くなっていると思います」と、鉛筆書きのメモが同封されている。思わず笑い声を上げる岡氏である、「ありゃ、あっちから飛び込んできたよ!」と。

そして2001年に入り、華倫変は、同社発行「マンガ・エロティクス」、「マンガ・エロティクスF」の看板漫画家に成長するのだ。ある意味、これは必然だったろう。


●「あぜ道」、「下校中」、「木々」、多重人格3部作に見る愛とエロス、そして死


2年振りの漫画作品「あぜ道」は、2001年、「マンガ・エロティクスF」vol.2に発表される。元々は単発の読み切り短編漫画であったが、華倫変の、執筆中の突然の病で考えさせられるところがあり、キャラクターの魅力も手伝ったのだろう、同誌vol.3に「下校中」、vol.4に「木々」と、3話に渡り連載、発表される事になる。

「あぜ道」に見るエロス、「ミレマ」

「岡山三奈」には、3つの人格がある。便宜的に一人一人に名前を付けるが、まずは「芳子」、東洋のマタハリ川島芳子」から命名した人格で、サバサバした気持ちいい性格である。二人目は「玉江」、優しい、普通の女の子で、この玉江が三奈のオリジナルだろうと思われる。そして、一番厄介な人格が「ミレマ」、場所を選ばず、常時セックスを求める異常求愛者である。ところ構わずパンツを脱ぎ、股を開いて、「おちんちん、ミレマのオマンコに入れてー」とせがむ。

主人公は「西野」、そんな彼女を見守るボーイフレンドである。気の弱そうな、優しげな男の子で、三奈の事、否、玉江の事が好きだ。そして、ミレマとは何度も性交している。

そんな三奈なので、勿論西野以外に友人もいる訳がなく、寧ろ苛めの対象となっている。上履きに鼠の死骸を詰められたりするが、ミレマの時は更に酷く、大人数で姦輪されるのは日常茶飯事である。

ある日、部活で帰宅が遅くなった西野は、帰宅途中で芳子に声を掛けられる。「手を貸してくれんかな」、相変わらずサバサバした声である。西野が振り返ると、暗がりで三奈の姿が月明かりに照らし出される。三奈は、股間から多量に出血をしている。芳子は、股関節が外れて歩けない、と他人事のように言う。どうやら、ミレマの時に、大勢の男性に乱暴されたらしい。西野は、三奈を負ぶって帰る。こんな事も、今年だけで、もう何回もあった事なので、西野も慣れているのだ。
西野に負ぶられる三奈の手に力が入る。啜り泣き、「もう・・・殺して・・・」と声を絞る。玉江である。西野は思う、「誰が彼女を救うのだろうか?」と。
そして、月明かりに照らされたあぜ道を歩くのだ。

玉江が三奈のオリジナルに一番近い、西野は言う。救われない、西野は思う。確かに、如何に西野が三奈を、玉江を守ろうとしても、それは無駄な事である。三奈には、自己破壊を目論むミレナが内在している、否、ミレマこそが三奈のオリジナルである可能性も捨てきれないのだ。西野は何を救うのか。救える理由がないのだ。

元々セックス表現に関しては寛容だった華倫変であるが、この「あぜ道」は、掲載誌の性質も手伝い、かなりエロ漫画の要素が色濃くなっている。その、妙にリアルな性描写は、何とこの作品を有害図書に認定してしまう。勿論、華倫変としては初めてである。

そして、華倫変は、この作品を執筆中に病に倒れる。その事が原因で、本来読み切り短編漫画の予定であった「あぜ道」が、「下校中」、「木々」と3部作になった、と華倫変が自己分析している。倒れた後の心情、経験が、続く2話に生かされている、とも書いている。
その事については、「下校中」、「木々」の批評の中で検証しよう。

「下校中」に見る愛、「玉江」、「芳子」

何も変わりようがない。玉江は、自分の言い知れない不安を西野に語り、ミレマは、ただ、ただ、西野とのセックスに明け暮れる。芳子は、今の自分がどうであれ、受け入れて生きるしかない、と常に冷静である。

下校中、たまたま通った体育館、騒がしいので覗いて見ると、ミレマが鼻血を出しながら笑い、姦輪されている。ミレマは西野に気付き、「西野くん、みんなと一緒にしようよー」と声を掛ける。西野は、やるせなさを押さえながら体育館を去る。

そして、何も変わらないいつもの下校中。西野は芳子に告白をするのだ、「僕はミレマと寝ているんだ」と。芳子は、そのまま黙りこくってしまい、暫くして、「そう」とだけ答え、少しだけ哀しそうに笑うのだ。

西野は、何故芳子に告白しなければならなかったのか。三奈の、多重人格に対する猜疑心の為か。そう告白した際の芳子の反応が見たかった為か。
西野は三奈を守りたい。玉江も、芳子も大好きである。それは、いつかは話さなければならない事だったのだ。

「木々」に見る死、第4の人格「由美」

ミレマと寝ている、と言う告白後、西野は三奈と話さなくなっている。気まずいのだ。それでも、ミレマの時は、ミレマが西野を求める。西野は、ミレマを通して、玉江、そして芳子の身体を抱く。それでも、西野は、抱きなれた三奈の身体に何も感じなくなっている。
西野は、夢の中に現れるミレマに別れを告げる。ミレマは、「良かった、消えてあげる」と、少しだけ微笑むのだ。

三奈の中に、第4の人格が生まれる。その人格は「由美」と呼ばれる。由美はキップが良くて快活だが、西野とは合わなそうな性格であった。そして、学校にいる時の三奈は、殆どが由美となる。

三奈が西野に声を掛ける。それは、芳子であった。芳子は、3人の人格が、由美に統合される事を打ち明ける。精神療法により、一番社会適応能力の高い由美が、岡山三奈になる、と言う。「三奈もやっと真人間になれる」、芳子は言う。「じゃあ、玉江は!? 芳子たちはどうなるの?」、西野が芳子に詰め寄ると、「それはしょうがないよ」と寂しそうに答える芳子、「そんなもんだよ」。
西野は、三奈に抱き締め、叫ぶ、「行かないで!!」と。芳子は、いつものクールな口調で、「君は、一体誰を抱きしめているつもりだい?」と問う。「みんなだよ、みんな消えないで!!」、西野の答えを聞き、芳子は空を仰ぐ。気の強い芳子の目から涙が流れる。「芳子は君が好きだったのにな、でも、そんなもんだよ」、芳子は言うのだ、「そんなもんだ」と。

そして、三奈の人格は由美だけのものとなる。当然、西野とは疎遠になり、三奈とは会わなくなる。揺れる木々の中に、玉江、ミレマ、そして芳子の記憶を思い出す。彼女たちは、小さく笑って消えて行く。

これも、明らかに死の体験である。病に倒れた華倫変は、魂の存在に拘ったのだろう。第1話「あぜ道」で読み切り完結とするならば、それは多重人格を題材として発想された愛とエロスのストーリーと評価するに過ぎないだろう。この作品を3部作にした事により、主題は、肉体と魂、精神の二元論までに昇華するのだ。そして、ここで表現される「死」とは、肉体の死ではなく精神の死である。

この、読後に残るせつなさ。どうにもならないやるせなさ。これも華倫変漫画のもう一つの主題である。

華倫変の作品に、「忘れる」と言う6ページばかりの短編漫画作品がある。漫画作品と言うよりは、挿絵入りの詩、と言った印象の作品である。発表されたのは2001年、「ヤングマガジン」増刊・赤BUTAであるが、作品自体は随分以前に描いたものだと言う。やはり、当時没となった原稿の一作品だったのだろう。

毎日毎日、何十時間も眠る。眠れない時は、薬を飲み、酒を飲んで無理やり眠る。そして、いろいろな事を忘れる。楽しかった時間、言えなかった言葉、好きだった人の名前も、全て忘れる。記憶なんて何の役にも立たない、いろいろな事を忘れながら眠る。
「ただ・・・どんなにいろんなこと忘れてしまっても、どんなに脳が腐ってしまっても、せつないという気持ちだけは残るんだと思う」、華倫変は言うのだ、「どんなにいろんなことを忘れてしまっても、いくらすべて消えてしまっても、せつないと思う気持ちだけは忘れないのだ」と。