清水正の「雪渡り」を読む

清水正担当・夏期課題平成24年度)

「文芸批評論」
下記の課題に答えなさい。

○ロジオンの〈アレ〉とは何か

※『罪と罰』のロジオンは「おれにアレができるだろうか」と考える。この〈アレ〉は何を意味しているのか。『清水正ドストエフスキー論全集』第五巻に収録の第三部「ヒングリーの『ニヒリスト』をめぐって」と第五部の「神か革命家」を読んで、ロジオンの〈アレ〉について考察すること。ロジオンが最終的に求めていたものとはいったい何だったのか。
テキストは江古田校舎購買部に置いてあります。またネットなどで入手できます。

※字数は3200字。提出期限は2012年9月10日まで。
提出は
電子メールの場合は
qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp宛に
郵送の場合は
〒270-1151 我孫子市本町3-5-20 清水正宛に
送ってください。

池袋リブロ書店地下一階のロシア文学コーナーにて

「マンガ論」
下記の二つの課題から一つ選んで書きなさい。
①「世界文学の中の『ドラえもん』」(D文学研究会)を読んで、感想を書きなさい。
課題には必ずサブタイトルをつけてください。
手塚治虫のマンガ『罪と罰』とドストエフスキーの『罪と罰』の決定的な違いについて書きなさい。『清水正ドストエフスキー論全集』第四巻を参照のこと。 
※①②ともに字数は2000字以上。提出期限は2010年9月30日まで。
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「文芸特殊研究Ⅱ」
下記の二つの課題に答えなさい。
①『どんぐりと山猫』におけるオイディプス的野望とその挫折について。
②『注文の多い料理店』とヨハネ黙示録の関係について
 『清水正宮沢賢治論全集1』を参考のこと。

※①②ともに字数は2000字以上。提出期限は2010年8月20日まで。
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「雑誌研究」
下記の課題に答えなさい。
下記の二つの課題から一つ選んで書きなさい。
①「世界文学の中の『ドラえもん』」(D文学研究会)を読んで、のび太の「死と復活」「分身」「ユートピア時空」などをキーワードに感想を書きなさい。
課題には必ずタイトルをつけてください。
清水正著『オイディプス王』(D文学研究会)を読んで、自由と運命について思うことを書きなさい。
字数は2000字以上。提出期限は2010年9月30日まで。

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〒270-1151 我孫子市本町3-5-20 清水正宛に
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※参考テキストは江古田校舎売店においてあります。そのほかネットなどで入手してください。

「文芸批評論」
下記の二つの課題に答えなさい。
①ロジオンにおける神と革命について
②ソーニャのヴィデーニィエとマルファのプリヴィデーニィエについて
 ※『清水正ドストエフスキー論全集』第5巻を参照のこと。
※①②ともに字数は2800字以上。提出期限は2010年8月30日まで。レポートには必ず自分で題名を付けてください。

提出は
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郵送の場合は
〒270-1151 我孫子市本町3-5-20 清水正宛に
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※参考テキストは江古田校舎売店においてあります。そのほかネットなどで入手してください。


「文芸研究Ⅰ」
下記のいずれかの課題に答えなさい。
①『清水正ドストエフスキー論全集』第3巻(191頁〜350頁)を読んでスヴィドリガイロフとポルフィーリイについて思ったことを書きなさい。
②『清水正ドストエフスキー論全集』第5巻の第五部「現在進行形の『罪と罰』」を読んで、スヴィドリガイロフとドゥーニャについて、及びプリヘーリヤについて思ったことを書きなさい。
※字数は4000字以上。提出期限は2010年9月10日まで。レポートには必ず自分で題名を付けてください。

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〒270-1151 我孫子市本町3-5-20 清水正宛に
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※テキストは江古田校舎売店においてあります。そのほかネットなどで入手してください。





清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。
ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

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清水正の著作   D文学研究会発行本

日芸文芸学科の専門講座「文芸特殊研究Ⅱ」と「文芸研究Ⅰ」の受講者は下記の「雪渡り」論を読んで、来週の月曜日に感想を2000字書いて授業時間に提出してください。

雪渡り』を読む
―白狐の紺三郎は子供と読者を騙した―
(本論は『ケンジ童話の授業』(D文学研究会 2005年5月)からの再録である)

清水正


小狐紺三郎の正体は?

 〈雪渡り〉という言葉は日本語にあるのだろうか。宮沢賢治が生まれ育った岩手では〈
雪渡り〉という言葉は普通に使われているのであろうか。宮沢賢治が自分の童話のタイト
ルに使っている言葉であるから、それはとうぜん日本語として通用しているのであろう(
注1)。

 見出しに「雪渡り その一(小狐の紺三郎)」とある。〈その一〉とあるからには〈そ
の二〉もあるのだろうが、その点については後に言及することにして、ここでは〈小狐の
紺三郎〉について想像を膨らましておきたい。ケンジ童話の中にあって〈狐〉は『貝の火
』の〈狐〉、『黒ぶだう』の〈赤狐〉など、どれも良いイメージではない。彼らは狡猾で
、悪魔の化身のような存在である。ところが〈狐〉に〈小〉がついただけで〈狐〉の負の
イメージは払拭される。〈小狐〉とだけ聞けば、なんとなく可愛いらしいイメージが優先
する。しかし、ケンジ童話にあっては、このように読者が予めイメージしてしまう事がか
なり危険である。『黒ぶだう』の〈赤狐〉が巧みに甘言を労して仔牛を柵の外に誘いだし
たこと、また『貝の火』の〈狐〉がホモイに盗品の角パンを進呈して巧みに丸め込もうと
したことを忘れてはならない。否、〈狐〉は主人公のみならず、読者をも巧みにだますの
である。〈小狐の紺三郎〉とて〈狐〉には違いない。わたしなどは、この一見可愛らしい
イメージを持った〈小狐〉がどのような騙しのテクニックを駆使して来るのか、その方が
楽しみである。

 〈紺三郎〉の〈紺〉は、〈狐〉の泣き声〈コンコン〉から採ったのかもしれない。〈三
郎〉はこの小狐が三番目の子供であり、姉や兄がいたことを暗示している。同時に〈三郎
〉は〈風の又三郎〉も連想させる。つまり〈小狐の紺三郎〉はどう見てもただ者ではない
のだ。あるいは〈小狐の紺三郎〉とは、〈紺三郎〉が〈小狐〉に化けていた可能性すらあ
る。ここでケンジ童話の読者は『ひのきとひなげし』で〈悪魔〉が〈蛙〉に化けて〈ひな
げし〉達の前に現れたことを思い出せばいい。宮沢賢治はどんな手を使って読者を騙しに
かかるかわかったものではない。美しいものが醜いものであり、可愛らしいものが悪魔だ
ったりしたことをわたしたちはいやというほど見てきた。まさかこの童話だけが例外とも
思えない。

  雪がすっかり凍って大理石よりも堅くなり、空も冷たい滑らかな青い石の板で出来て
ゐるらしいのです。
 「堅雪かんこ、しみ雪しんこ。」
  お日さまがまっ白に燃えて百合の匂を撒きちらし又雪をぎらぎら照らしました。
  木なんかみんなザラメを掛けたやうに霜でぴかぴかしてゐます。
 「堅雪かんこ、しみ雪しんこ。」
  四郎とかん子とは小さな雪沓をはいてキックキックキック、野原に出ました。

 雪がすっかり凍って大理石のようになるという譬えは分かる。しかし〈空〉も〈冷たい
滑らかな青い石の板〉で出来ているらしいと見るその眼差しは凡庸ではない。大理石の雪
と青い石の空、その狭間の舞台に「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」の声が聞こえる。いっ
たい誰が、この言葉を発しているのか。

 「お日様がまっ白に燃えて」・・そうか、〈お日様〉が〈まっ白〉に〈燃えて〉いるの
か。あの、一行目に書かれた「冷たい滑らかな青い石の板で出来てゐるらしい」〈空〉に
、今、〈お日様〉は〈まっ白〉に〈燃えて〉いるんだ。この〈お日様〉が〈雪〉を〈ぎら
ぎら〉と〈照らし〉ているんだ。なるほど、その光景を眼前に見るようだ。ところで問題
は、この〈お日様〉が「百合の匂を撒きちらし」ていることだ。まっ白に燃えている〈お
日様〉が〈百合の匂〉を撒きちらしている。このことを素直に納得できる読者が何人いる
のだろうか。まっ白に燃えている〈お日様〉から〈百合の匂〉を嗅ぎとることのできるも
のとは、いったいどういうひとなんだ。

 〈木〉はみんな〈ザラメ〉を掛けたように〈霜〉で〈ぴかぴか〉している。〈雪〉は〈
ぎらぎら〉、〈木〉は〈ぴかぴか〉、そして世界は〈百合の匂〉に満たされている。なん
という幻想的な光景であろう。こんな世界が本当に現実に存在するのだろうか。この世界
はもしかしたら、この世のものではないのではないか。そして再び「堅雪かんこ、凍み雪
しんこ。」の声である。いったい、誰がこの言葉を発しているのだろうか。

 〈四郎〉と〈かん子〉が〈小さな雪沓〉をはいて〈キックキックキック〉と〈野原〉に
出てくる。〈四郎〉とは誰だろう。〈かん子〉とは誰だろう。〈小さな雪沓〉をはいてい
るというのであるから、おそらのこの二人はまだ幼い子供で、おそらく兄妹なのだろう。
〈キックキックキック〉は彼らの喜びを端的に表している。なぜ二人は喜んで〈野原〉に
出てきたのだろう。語り手はその理由を次のように記している。

  こんな面白い日が、またとあるでせうか。いつもは歩けない黍の畑の中でも、すすき
で一杯だった野原の上でも、すきな方へどこ迄でも行けるのです。平らなことはまるで一
枚の板です。そしてそれが沢山の小さな小さな鏡のやうにキラキラキラキラ光るのです。

 「すきな方へどこ迄でも行けるのです」・・この言葉は誘惑的な怖い言葉だ。〈四郎〉
と〈かん子〉を或る何ものかが、誘惑している。〈雪〉は〈ぎらぎら〉、〈木〉は〈ぴか
ぴか〉、そして〈一枚の板〉のようになった〈野原〉は〈小さな小さな鏡〉のように〈キ
ラキラキラキラ〉光っている。『貝の火』のホモイは小川の底の光っている砂に目を捕ら
われる。直後に「ビルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」というけたたましい声を耳にする
。ケンジ童話の主人公たちは〈光〉や〈音〉に誘発されて異界へと参入することが多い。

 〈四郎〉と〈かん子〉も〈ぎらぎら〉〈ぴかぴか〉〈きらきら〉に誘われて外へと出て
来たのかもしれない。それにしても「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」と声を発しているの
は誰なんだ。・・わたしがこういった問いを執拗に繰り返していること自体を不思議に思
う読者がいるかもしれない。ふつうに読めば、この声を発しているのは〈四郎〉と〈かん
子〉ということになるだろう。しかし、そのように読んでしまうと、ケンジ童話に隠され
た不気味な領域への参入は拒まれる。このテキストで、語り手は「堅雪かんこ、凍み雪し
んこ。」と歌っているのは二人の子供たちであるなどとは言っていない。この〈声〉は、
やがて子供たちの声と重なるように配置されているが、最初はやはり子供たちを外へと誘
いだす、誘惑の声として〈或るだれか〉から発せられていたと見た方がいい。その方がこ
のテキストを断然面白く読めるし、ケンジ童話の神秘ゾーンへの参入が可能となる。

  二人は森の近くまで来ました。大きな柏の木は枝も埋まるくらゐ立派な透きとほった
氷柱を下げて重さうに身体を曲げて居りました。
 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。狐の子ぁ、嫁ほしい、ほしい。」と二人は森へ向いて高
く叫びました。
  しばらくしいんとしましたので二人はも一度叫ばうとして息をのみこんだとき森の中
から
 「凍み雪しんしん、堅雪かんかん。」と云ひながら、キシリキシリ雪をふんで白い狐の
子が出て来ました。

 〈四郎〉と〈かん子〉は〈森〉の〈近く〉まで来る。大理石のように堅い、一枚の板の
ようになった〈野原〉を歩いて、二人は今、〈森〉の〈近く〉までやって来た。二人の子
供にとって〈森〉は入っては行けないタブーの領域であり、おそらく家の者にも厳重に注
意されていた筈である。〈立派な透きとほった氷柱〉を下げている〈大きな柏の木〉は、
〈野原〉と〈森〉の境界に生えており、〈森〉に入ろうとする子供たちに向けての警告塔
の役割を持っている。しかし、子供たちはもちろんそのようなことに頓着しない。彼らは
〈ぎらぎら〉〈ぴかぴか〉〈きらきら〉に誘われて、すでに〈野原〉に出て来てしまって
いる。おそらくこの二人は何ものかに誘われているが、二人共にそのことに気づいていな
い。主人公が気づいていないので、読者の大半もまたそういったことに気づくことはない
。ケンジ童話の語り手は、そうそう簡単に種明かしなどしない。場合によっては語り手(
および作者)すら分かっていないところで物語は進んでいく。

 二人の子供は〈森〉に向かって「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。狐の子ぁ、嫁ほしい、ほ
しい。」と高く叫ぶ。この叫びはいったいどのようなことを意味しているのであろうか。
〈かんこ〉や〈しんこ〉が〈堅雪〉や〈凍み雪〉の愛称(別称)であることは容易に想像
がつく。しかし次の〈狐の子ぁ、嫁ほしい〉となるとちょっと分かりづらい。〈狐の子〉
が〈嫁〉を欲しがる季節を迎えたとも思えないし、いったいこの二人の子供たちは何を思
ってこんな言葉を〈森〉へ向かって投げかけたのだろうか。

 〈嫁〉を欲しがる〈狐〉に、自分たちを花嫁候補として差し出す気なのだろうか。はた
して〈嫁〉とは、文字通りの嫁なのであろうか。読者は〈小狐紺三郎〉などと言われてい
る〈狐〉を甘く見ているととんでもない騙し(わな)にかかりそうだ。何か、この場面に
供犠の匂いが感じられないだろうか。わたしはグリム童話の『赤ずきん』を想起する。私
見によれば〈赤い頭巾〉は、赤ずきんちゃんが〈森の神〉(お婆さん)に供犠として捧げ
られる徴であった。そうとでも考えなければ、お母さんが幼い赤ずきんちゃんを、危険に
満ちた森の中にお遣いに出す筈はない。〈四郎〉と〈かん子〉が二人して、なぜ大理石の
ように堅い〈野原〉へと出て来たのか。なぜ、彼らの父や母は、幼い二人を危険な〈野原
〉へと出したのか。改めて考えればおかしなことである。

 〈小狐紺三郎〉とはもしかしたら〈森の神〉、ないしはその〈使者〉であるかもしれな
い。〈森の神〉は〈嫁〉と言われる〈供犠〉を求めており、今、〈四郎〉と〈かん子〉が
それに答えるべく〈森の近く〉までやって来たのだとすれば、この童話は一挙に恐るべき
物語へと変容する。

 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」という掛け声は、〈四郎〉と〈かん子〉が〈森の神〉
に呼びかける、挨拶のような言葉であったのかもしれない。それに対する答えが「凍み雪
しんしん、堅雪かんかん。」である。供犠の子供たちの呼び掛けに〈森の神〉が応えたと
いうことに注意したい。子供たちが供犠であるなら、呼び声に応えたということは、それ
を了承したということになろう。〈森の神〉が「凍み雪しんしん、堅雪かんかん。」と応
えたこの時点で、〈四郎〉と〈かん子〉の運命は決定したと言える。森の中から姿を現し
たのは〈白い狐の子〉である。この白狐は、〈キシリキシリ〉と雪を踏む音をたてて、そ
の姿を現す。〈白い狐〉とは、やはりどこかしら神々しい、神秘的な印象を与えるが、語
り手は〈白い狐の子〉と語ることで、この〈白狐〉の威厳のある神々しさをぼかすことに
成功している。

  四郎は少しぎょっとしてかん子をうしろにかばって、しっかり足をふんばって叫びま
した。
 「狐こんこん白狐、お嫁ほしけりゃ、とってやろよ。」
  すると狐がまだまるで小さいくせに銀の針のやうなおひげをピンと一つひねって云ひ
ました。
 「四郎はしんこ、かん子はかんこ、おらはお嫁はいらないよ。」
  四郎が笑って云ひました。
 「狐こんこん。狐の子、お嫁がいらなきゃ餅やろか。」
  すると狐の子も頭を二つ三つ振って面白さうに云ひました。
 「四郎はしんこ、かん子はかんこ、黍の団子をおれやろか。」

 人間の子供と狐の子供が、楽しく言葉を掛け合って交流を深めていく。〈森〉の中の〈
狐〉という、異類の動物が人間の子供の呼び声に応えてその姿を現すということ自体が奇
跡的だ。わたしたちは〈童話〉(メルヘン)を読んでいる。その童話の世界では、人間と
動物が言葉を交わし合っても不思議ではない。童話の世界では、人間は動物、植物、鉱物
、その他あらゆるものと会話することができる。それが童話を読む上での前提になってい
る。だから、誰も〈四郎〉と〈かん子〉が〈白い狐の子〉と言葉を交わしても不思議に思
わない。読者はすぐに両者の言葉の掛け合いの面白さの直中に参入することになる。

 それにしても掛け合いの面白さだけに注目しているわけにもいかない。〈四郎〉は「狐
こんこん白狐、お嫁ほしけりゃ、とってやろよ。」と言っているが、本当に〈お嫁〉を狐
の子にとってやることができたのだろうか。もし白狐が〈お嫁〉が欲しいと言ったら、〈
四郎〉はうしろにかばった〈かん子〉を白狐の〈お嫁〉に差し出したのであろうか。白狐
の応えは「四郎はしんこ、かん子はかんこ、おらはお嫁はいらないよ。」である。この言
葉も何か不気味な感じである。白狐は〈お嫁〉はいらないと言っている。が、この白狐の
言葉は、〈お嫁〉はいらないから、他に何か別のものをよこせ、という意味を籠めてはい
なかったであろうか。もう一度、白狐が言う「四郎はしんこ、かん子はかんこ」に注意し
てみよう。先に、わたしは〈四郎〉と〈かん子〉は〈森の神〉(白狐)に捧げられる供犠
だったのではないかと解したが、その文脈にこの言葉を置き換えると「四郎はしんこ」は
「四郎は死んだ子」、「かん子はかんこ」は「かん子は棺桶に入った子」となる。

 もちろん〈四郎〉も〈かん子〉も、こんな風に白狐の言葉を解さない。〈お嫁〉はいら
ないと言われて、〈四郎〉は〈かん子〉を差し出さなくてもよいと思い、安心して笑う。
〈四郎〉は〈お嫁〉の代わりに〈餅〉をやろうかと言う。白狐はそれを欲しいともいらな
いとも言わず、再び「四郎はしんこ、かん子はかんこ」と歌い、続けて「黍の団子をおれ
やろか。」と言う。

 〈四郎〉も〈かん子〉もすでに死んでしまっている子供だとすれば、その墓前に〈黍の
団子〉を供えてやろうというのが、白狐の言葉の意味するところであったのかもしれない
。が、もちろん、童話の表層はそんな風に展開していかない。人間の子供と白狐の子供の
面白おかしい、言葉の掛け合いが続いていく。

  かん子もあんまり面白いので四郎のうしろにかくれたまゝそっと歌ひました。
 「狐こんこん狐の子、狐の団子は兎のくそ。」

 〈狐の団子〉は〈兎のくそ〉というのであるからすごい。〈かん子〉は〈四郎〉の後ろ
に隠れてそっと歌っているのだが、その中身は辛辣である。狐は〈兎のくそ〉を〈団子〉
にして人を化かす。まったく油断も隙もない。

  すると小狐紺三郎が笑って云ひました。
 「いゝえ、決してそんなことはありません。あなた方のやうな立派なお方が兎の茶色の
団子なんか召しあがるもんですか。私らは全体いままで人をだますなんてあんまりむじつ
の罪をきせられてゐたのです。」

 ここで注意すべきは小狐紺三郎が、〈かん子〉の歌に腹を立てなかったことであろう。
紺三郎は笑って、言う。しかもその言い方が、とても子供のそれとは思えないほど、沈着
冷静で、改まっている。〈小狐〉と断りがなければ、こういう物言いは十分に大人のそれ
を思わせる。紺三郎は人間の子供に向かって〈立派なお方〉と言っている。こんなことを
言う〈小狐〉は要注意である。いったいこの〈小狐〉は何を企んでいるのだろうか。

 紺三郎は、狐がひとをだますなどというのは〈むじつの罪〉だと強調し、〈四郎〉や〈
かん子〉のような〈立派なお方〉が〈兎の茶色の団子〉を召し上がるわけはないと言う。
紺三郎は相手が子供だからといって、なめたような口はきかない。これはひとを騙すテク
ニックの基本である。大人も子供も、人間という動物はお世辞に弱い。お世辞でいけば天
使も堕ちると言ったのはロシアの文豪ドストエフスキーである。紺三郎はなかなかのやり
手と見た方がいい。油断していると、〈四郎〉や〈かん子〉ばかりではなく、読者もまた
コロッと騙されることになる。が、しばし紺三郎の術に騙されてみるのもいいだろう。い
ったい紺三郎は〈四郎〉と〈かん子〉に何を言いたいのだろうか。今まで狐はひとを騙す
などという〈むじつの罪〉をきせられてきたが、そんなことはないのだということをこの
子供たちに認めてもらいたかったのだろうか。

 四郎がおどろいて尋ねました。
 「そいぢゃきつねが人をだますなんて偽かしら。」
  紺三郎が熱心に云ひました。
 「偽ですとも。けだし最もひどい偽です。だまされたといふ人は大抵お酒に酔ったり、
臆病でくるくるしたりした人です。面白いですよ。甚兵衛さんがこの前、月夜の晩私たち
のお家の前に坐って一晩じゃうるりをやりましたよ。私らはみんな出て見たのです。」
  四郎が叫びました。
 「甚兵衛さんならじゃうるりぢゃないや。きっと浪花ぶしだぜ。」
  小狐紺三郎はなるほどといふ顔をして、
 「えゝ、さうかもしれません。とにかくお団子をおあがりなさい。私のさしあげるのは
、ちゃんと私が畑を作って播いて草をとって刈って叩いて粉にして練ってむしてお砂糖を
かけたのです。いかゞですか。一皿さしあげませう。」
 と云ひました。

 四郎は、狐が人を騙すなんて言われているのは〈偽〉なのかと訊く。すると紺三郎は待
ってたとばかりに「偽ですとも。けだし最もひどい偽です」と断言する。紺三郎によれば
狐に騙されたなどと言う人は〈お酒に酔ったり、臆病でくるくるしたりした人〉ばかりで
、〈立派なお方〉は決して騙されるものではないということになる。さて、紺三郎は甚兵
衛が月夜の晩に狐たちの家の前で〈じゃうるり〉をやっていたと語ると、〈四郎〉はすぐ
に甚兵衛なら〈浪花ぶし〉だと訂正する。すると子狐紺三郎はなるほどという顔をして「
えゝ、さうかもしれません。とにかくお団子をおあがりなさい」とすすめる。この箇所は
要注意である。語り手は今まで〈小狐紺三郎〉〈紺三郎〉などと表記していたのを、ここ
では〈子狐紺三郎〉としている。〈小狐紺三郎〉でも〈紺三郎〉でも〈子狐紺三郎〉でも
いいじゃないか、面倒だから表記は一つに統一してしまえなどという傲慢な編纂者は別と
して、やはりここで表記が変わっている以上は、この白狐の変幻自在さに注意すべきだろ
う。紺三郎は〈じゃうるり〉と〈浪花ぶし〉の違いを知らなかっただけであり、間違いを
指摘されて自尊心が傷つけられたのかもしれない。ちょっとした間違いを指摘された時、
プライドの高い者たちは、往々にして自分の間違いを素直に認めることができずに、とぼ
けた対応をしたりする。要するに、虚勢を張ったりするものだが、この時の紺三郎の対応
にもそういった風が見られる。しかし問題はそんなことよりも、次の「とにかくお団子を
おあがりなさい」であろう。なぜ〈とにかく〉なのであろうか。紺三郎は〈とにかく〉、
どんなことがあっても、〈四郎〉と〈かん子〉にこの〈お団子〉を食べさせたがっている
のだ。たとえば、お口じょうずなセールスマンを思い出したらいいだろう。彼らが、愛想
のいい挨拶をしたり、尻がくすぐったくなるようなお世辞をばらまいたりするのは、何も
客と仲良くしたいからではない。彼らの第一の目的は商品を買い上げて貰うことである。
その目的を達するために、客の心をくすぐったりいい気持ちにさせたりするのだ。紺三郎
が子供たちを〈立派なお方〉と持ち上げ、狐は決して人を騙すようなことはないのだと強
調し、狐に騙されたなどと吹聴する者は酔っぱらいや臆病者だけだと言い聞かせているの
は、彼が何か一つの目的を達しようとしているからに他ならない。その目的とは〈四郎〉
と〈かん子〉に〈お団子〉を食べさせることである。そうとしか思えないではないか。

 さて、ケンジ童話の牧歌的な読者諸君は、このへんで腹を立てはじめているかもしれな
い。なぜおまえはそんな意地の悪い、皮肉な読み方しかできないんだ、と。人間の子供た
ちと、子狐の心温まる交流の場面に悪意の泥を投げつけているようなもんだ、と。わたし
が、ここでこんなことを言いはじめたのにはそれなりの理由がある。十二三年前、『銀河
鉄道の夜』を授業で取り上げ、ジョバンニ少年は実は父を殺した息子なんだ、と話した時
宮沢賢治のファンだった女子学生に実に冷たい眼差しを向けられたことがある。わたし
のケンジ童話論は、宮沢賢治ファンにはとうてい耐えられない酷いものらしい。毎年、何
人かの学生の冷たい反応に晒されている。しかし、何回か授業をすすめていくうちに、わ
たしのケンジ童話に関する解釈も受け入れられていく。わたしは、ケンジ童話はずいぶん
と長い間、誤解され続けてきたのではないかと思うようになった。童話という体裁をとっ
ているから、日本語が読めるようになればどんなに小さい子供でもケンジ童話は読める。
しかし、ケンジ童話は一筋縄ではいかないのだ。そこには孤独な天才宮沢賢治が、テキス
トで一人遊びを延々と繰り返してきた痕跡がある。同時代の人々の理解を絶したケンジ童
話の深遠な世界は、賢治の死後も、実に長いこと、とんでもなく幼稚な読みの歴史を刻ん
できた。だからというわけではないが、このテキスト『雪渡り』もまた、牧歌的な読みの
次元に止まっていると、とんでもない騙しにあうということである。
 
〈かん子〉は〈狐の団子は兎のくそ〉と歌った。紺三郎はどんなことをしてでもこの言
葉を撤回させなければならない。つまり、どんな手を使っても、〈兎のくそ〉を〈団子〉
として食べさせなければならない。紺三郎がどんな手を使ったかは今まで検証してきた通
りである。愛想のいい笑いで子供たちを安心させ、〈立派なお方〉とお世辞で持ち上げた
上で、自分たちは今まで〈むじつの罪〉をきせられていたのだと弁明する。まったく、大
のペテン師も舌を巻くような巧妙な話の進め方ではないか。これでは牧歌的な読者などイ
チコロである。〈兎のくそ〉を食わされて、うまい〈団子〉を食べた気になっている読者
はおそらく五万〉といるだろう。未だに騙され続けて、何も気づいていない読者もいるこ
とだろう。おそるべきはケンジ童話の作者である。

 紺三郎は子供たちに「とにかくお団子をおあがりなさい」とすすめた後で、すぐに「私
のさしあげるのは、ちゃんと私が畑を作って播いて草をとって刈って叩いて粉にして練っ
てむしてお砂糖をかけたのです。いかゞですか。一皿さしあげませう。」と付け加えるこ
とを忘れない。なんとも巧妙な話の運びである。紺三郎は子供たちに微塵の疑いも抱かれ
ないように話を進めていく。紺三郎の〈団子〉は、変な添加物の混じっていない、まさに
正真正銘の自家製の〈団子〉であり、さらにその上、子供の好きな甘い〈砂糖〉がかかっ
ているというのであるから、全く申し分のない完璧な口上(騙し)である。

 酒飲みでもない、臆病者でもない、〈立派なお方〉である〈四郎〉と〈かん子〉を騙す
に、こんな口上以上のものを考えることができるだろうか。「いかゞですか。一皿さしあ
げましょう。」この最後の言葉など駄目押しである。しかし、ただより高くつくものはな
いのだ。こんな甘い、出来すぎた話を持ちかけられた時は、とにかく要注意なのである。
さて、〈四郎〉と〈かん子〉はどのような態度をとったのであろうか。

  と四郎が笑って、
 「紺三郎さん、僕らは丁度いまね、お餅をたべて来たんだからおなかが減らないんだよ
。この次におよばれしようか。」
  子狐の紺三郎が嬉しがってみじかい腕をばたばたして云ひました。
 「さうですか。そんなら今度幻燈会のときさしあげませう。幻燈会にはきっといらっし
ゃい。この次の雪の凍った月夜の晩です。八時からはじめますから、入場券をあげて置き
ませう。何枚あげませうか。」

 どうだろう。わたしの論展開に素直についてきた読者は「よかった、よかった」と胸を
撫で下ろすであろう。とにかく、〈四郎〉と〈かん子〉は紺三郎の騙しを運良くかわすこ
とができたのであるから。さて、ケンジ童話の語り手は、紺三郎以上に〈騙り〉の天才で
あることを忘れてはいけない。この騙り手は「子狐の紺三郎が嬉しがってみじかい腕をば
たばたして云ひました」と語る。これを、わたしの読みの文脈に沿って書き直せば「子狐
の紺三郎が悔しがってみじかい足をばたばたして云ひました」となる。何しろ紺三郎は、
今まで順調に騙し続けていたのに、いざ〈団子〉を食わせるという、最後の最後のところ
で失敗したのだ。紺三郎にしてみればこんなに悔しいことはあるまい。しかしここでそん
な悔しさをすこしでも漏らせば、〈四郎〉や〈かん子〉ばかりではなく、読者にも〈騙し
〉がばれてしまう。紺三郎は単に作中人物の子供たちだけを騙そうとしているのではない
。紺三郎は読者をも騙そうとする野心に駆られているのだ。紺三郎は悔しさを心の奥深く
に埋め込み、なにくわぬ顔をして〈四郎〉と〈かん子〉を〈幻燈会〉に招待する。
 
 紺三郎は第一回目の試み(狐の団子を食べさせること)には失敗したが、しかし彼は決
して諦めない。次なる誘惑の罠をかける。時は〈この次の雪の凍った月夜の晩〉である。
つまり、〈雪の凍った月夜の晩〉には気をつけろ、ということであるが、もちろん子供た
ちはそのことに気づかない。ここでも紺三郎の話の進め方は巧みである。紺三郎は「おな
かが減らない」子供たちに〈団子〉を無理強いしないし、今度の幻燈会にさしあげましょ
うとさりげなく言った後で、「幻燈会にはきっといらっしゃい」と言っている。つまり子
供たちに「幻燈会に来ますか、来ませんか」といった二者択一を迫らない。来ても来なく
てもいっこうにかまわないといった風を装いながら、「きっといらっしゃい」と強く暗示
にかけ、その暗示をさらに「入場券をあげて置きませう」と言う言葉で補強している。紺
三郎は最後に「何枚あげませうか。」と言っている。〈入場券〉はあなた方以外の者にも
あげますよ、どなたでも好きなだけ一緒に来てもかまわないのですよ、といったニュアン
スがこめられており、幼い子供たちを安心させるには十分な言葉である。まったく、短い
言葉ながら、何一つ無駄のない完璧な誘惑の言葉である。紺三郎は現代のキャッチャーや
スカウトマンも見習えるほどの誘惑術を駆使していると言うべきであろうか。

・紺三郎の術中に落ちた〈四郎〉と〈かん子〉・

 さて、こんな巧みな誘惑の言葉に子供たちはどのような対応をしたのであろうか。

 「そんなら五枚お呉れ。」と四郎が云ひました。
 「五枚ですか。あなた方が二枚にあとの三枚はどなたですか。」と紺三郎が云ひました

 「兄さんたちだ。」と四郎が答へますと、
 「兄さんたちは十一歳以下ですか。」と紺三郎が又尋ねました。
 「いや小兄さんは四年生だからね、八つの四つで十二歳。」と四郎が云ひました。
  すると紺三郎は尤もらしく又おひげを一つひねって云ひました。
 「それでは残念ですが兄さんたちはお断わりです。あなた方だけいらっしゃい。特別席
をとって置きますから、面白いんですよ。幻燈は第一が『お酒のむべからず。』これはあ
なたの村の太衛門さんと、清作さんがお酒をのんでたうとう目がくらんで野原にあるへん
てこなおまんぢゅうや、おそばを喰べようとした所です。私も写真の中にうつってゐます
。第二が『わなに注意せよ。』これは私共のこん兵衛が野原でわなにかかったのを画いた
のです。絵です。写真ではありません。第三が『火を軽べつすべからず。』これは私共の
こん助があなたのお家へ行って尻尾を焼いた景色です。ぜひおいで下さい。」
  二人は悦んでうなづきました。

 〈四郎〉が「五枚お呉れ。」と言った時、まさにその時、〈四郎〉は白狐紺三郎の術中
に落ちた。〈四郎〉は自分と〈かん子〉と兄三人の分〈五枚〉を頼む。ところか紺三郎は
「兄さんたちは十一歳以下ですか。」と尋ねる。つまり狐の幻燈会に招待される客は十一
歳以下でないと駄目なのである。この十一歳以下でないと駄目な〈幻燈会〉というのはど
う見ても怪しい。紺三郎は十一歳を越えてしまった〈四郎〉の兄たち三人を断り「あなた
方だけいらっしゃい」と誘う。〈四郎〉と〈かん子〉は兄たちを断られたにもかかわらず
、そのことを不思議にも思わないし、不安にかられることもない。これも紺三郎の話方が
巧みであったからと言えよう。紺三郎はさりげなく「特別席をとって置きますから」と言
い添えている。先にも指摘したように、紺三郎は相手が子供とは言え、お世辞や特別扱い
に弱いということを知っているのである。

 続いて紺三郎は〈幻燈会〉の目録を披露する。第一『お酒をのむべからず』、第二『わ
なに注意せよ』、第三『火を軽蔑すべからず』である。第一は、子供の〈四郎〉と〈かん
子〉にはもともと関係がない。もともと関係がないことを一番先に出すことによって子供
たちを安心させる手口である。第二を紺三郎は「これは私共のこん兵衛が野原でわなにか
かったのを画いたのです」と説明している。つまり〈わな〉にかかったのは〈私共のこん
兵衛〉であることを強調して、ここでも子供たちを安心させている。しかし、読者は、紺
三郎がすでに人間の子供たちを森の近くの〈のはら〉で〈わな〉にかけている真っ最中で
あることを忘れてはならない。第三も紺三郎は〈これは私共のこん助〉が云々と説明して
いる。あたかも〈四郎〉や〈かん子〉に関係のない〈幻燈〉であるかのように説明してい
る所が、彼の騙しのテクニックである。

・子供の〈死〉を内包したキックキックトントン・

 紺三郎が「ぜひおいで下さい」と言うと、二人の子供は悦んでうなづく。今日この日、
〈団子〉を食べさせることには失敗したが、〈幻燈会〉に誘うことに成功した白狐の喜び
ようはどんなであったろうか。

  狐は可笑しさうに口を曲げて、キックキックトントンキックキックトントンと足ぶみ
をはじめてしっぽと頭を振ってしばらく考へてゐましたがやっと思ひついたらしく、両手
を振って調子をとりながら歌ひはじめました。
  「凍み雪しんこ、堅雪かんこ、
     野原のまんぢゅうはポッポッポ。
   酔ってひょろひょろ太右衛門が、
     去年、三十八、たべた。
   凍み雪しんこ、堅雪かんこ、
     野原のおそばはホッホッホ。
   酔ってひょろひょろ清作が、
     去年十三ばいたべた。」
  四郎もかん子もすっかり釣り込まれてもう狐と一緒に踊ってゐます。
   キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック
、キック、トントントン。
  四郎が歌ひました。
 「狐こんこん狐の子、去年狐のこん兵衛が、ひだりの足をわなに入れ、こんこんばたば
たこんこんこん。」
  かん子が歌ひました。
 「狐こんこん狐の子、去年狐のこん助が、焼いた魚を取ろうとしておしりに火がつきき
ゃんきゃんきゃん。」
  キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、
キック、トントントン。

 まんまと人間の子供を〈わな〉にかけた白狐の紺三郎は嬉しくてたまらない。騙されて
いることを知らない〈四郎〉と〈かん子〉もまた大喜びで歌をうたい踊っている。先に指
摘したように、この歌の出だしの一行「凍み雪しんこ、堅雪かんこ」を「凍み雪で死んで
しまった子、堅雪で棺桶に入った子」と読み解けば、この愉快に歌われている歌が、ゾッ
とするほど恐ろしいものに変容するだろう。紺三郎は歌い踊りながら子供たちの〈死〉を
予告しているのである。子狐と人間の子供たちの楽しい交歓という次元で読めば、この場
面は読者をも誘い込む愉快な祝祭空間となるだろう。おそらく今までの読者はそのような
次元でこの場面を読んできたに違いない。白狐紺三郎の騙しのテクニックは極めて巧妙で
、彼にとって読者をたぶらかすことなどお茶のこさいさいなのである。しかし白狐の〈歌
〉を〈子供の死〉の隠喩と見れば、一見楽しく心地よく響く「キック、キック、トントン
。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キック、トントントン」が瞬時
に不気味な恐ろしい音に変調するだろう。白狐の掛け言葉は子供の〈死〉を内包したキッ
ク、キック、トントンなのだ。

  そして三人は踊りながらだんだん林の中にはひって行きました。赤い封蝋細工のほほ
の木の芽が、風に吹かれてピッカリピッカリと光り、林の中の雪には藍色の木の影がいち
めん網になって落ちて日光のあたる所には銀の百合が咲いたやうに見えました。

 なんとも幻想的な美しい光景である。が、同時に何と恐ろしい光景であろうか。「そし
て三人は踊りながらだんだん林の中にはひって行きました。」という語りなどは実に怖い
。紺三郎にうまく唆されて〈林の中〉に入って行った〈四郎〉と〈かん子〉は本統に帰っ
てこれるのであろうか。〈赤い封蝋細工のほほの木の芽〉が〈風〉に吹かれて〈ピッカリ
ピッカリ〉と〈光〉っている。この〈ピカッリピッカリ〉は誘惑の光であり、なんとも美
しいが、同時に怖い。〈林の中〉の〈雪〉には〈藍色の木〉の〈影〉がいちめん〈網〉に
なって落ちている。ここでもすぐに想いだすのが『黒ぶだう』の「別荘の中はしいんとし
て煙突からはいつものコルク抜きのやうな煙も出ず鉄の垣が行儀よくみちに影法師を落し
てゐるだけで中には誰も居ないやうでした」といった場面である。仔牛はベチュラ公爵の
屋敷の〈鉄の垣〉の〈影〉によって串刺しにされる。この場面は子牛が犢肉にされてしま
うことの不気味な予告であった。今、〈四郎〉と〈かん子〉の眼前の雪には〈藍色の木の
影〉がいちめん〈網〉になって落ちている。彼らが〈銀の百合〉の美しさに惹かれて、こ
の〈網〉の中に入れば、もう二度と逃げることはできないのだ。はたして子供たちの運命
やいかに……。

  すると子狐紺三郎が云ひました。
 「鹿の子もよびませうか。鹿の子はそりゃ笛がうまいんですよ。」
  四郎とかん子とは手を叩いてよろこびました。そこで三人は一緒に叫びました。
 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ、鹿の子ぁ嫁ぃほしいほしい。」

 紺三郎は子供たちの警戒心をなくすためにか、〈鹿の子〉も呼ぼうかと提案する。子供
たちは手を叩いて喜んでいる。なんとも無邪気な反応だが、この反応を笑える読者はほと
んどいないであろう。なにしろ、紺三郎といい、この童話の作者といい、読者をたぶらか
す術に長けており、そうそう簡単には化けの皮を剥がれることはない。
 子供たちは最初、森の近くで狐に呼び掛けたが、ここでは林の中からさらなる奥に向か
って三人が一緒になって鹿に呼びかけている。〈鹿の子〉もまた〈嫁〉(供犠)が欲しい
のであろうか。

  すると今度はずうっと遠くで風の音か笛の声か、又は鹿の子の歌かこんなやうに聞え
ました。
 「北風ぴいぴい風三郎、西風どうどう又三郎」と細いいゝ声がしました。
  狐の子の紺三郎がいかにもばかにしたやうに、口を尖らして云ひました。
 「あれは鹿の子です。あいつは臆病ですからとてもこっちへ来さうにありません。けれ
どもう一遍叫んでみませうか。」
  そこで三人は又叫びました。
 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ、しかの子ぁ嫁ほしい、ほしい。」
  すると今度はずうっと遠くで風の音か笛の声か、又は鹿の子の歌かこんなやうに聞え
ました。
 「北風ぴいぴい、かんこかんこ
      西風どうどう、どっこどっこ。」

 〈風の音〉か、〈笛の声〉か、はたまた〈鹿の子の歌〉か、「北風ぴいぴい風三郎、西
風どうどう又三郎」と〈細いいゝ声〉が聞こえてくる。語り手は、その〈声〉の持ち主を
最初あいまいにしている。ところで、この〈音〉のような〈声〉のような〈細いいゝ声〉
を発している者の正体は後回しにしよう。

  狐は又ひげをひねって云ひました。
 「雪が柔らかになるといけませんからもうお帰りなさい。今度月夜に雪が凍ったらきっ
とおいで下さい。さっきの幻燈をやりますから。」
  そこで四郎とかん子とは
 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」と歌ひながら銀の雪を渡っておうちへ帰りました。
 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」

 〈北風ぴいぴい、かんこかんこ〉をどのように解するかによってこの場面も全く違った
光景となる。『貝の火』の〈ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ〉がホモイを試みの舞
台へと誘ったように、この〈北風ぴいぴい〉も、これから〈四郎〉と〈かん子〉を危ない
所へと拉致していく、その警告音のようにも聞こえる。〈北風ぴいぴい、かんこかんこ〉
は〈北風ぴいぴい、かんばこかんばこ〉とも解せる。〈四郎〉と〈かん子〉は〈死〉を運
命付けられているようだ。この日、たまたま〈お餅〉を食べて腹をすかしていなかったこ
とで、白狐の〈団子〉を食べずにすんだだけのことである。〈西風どうどう、どっこどっ
こ。」この遠くで聞こえる風の音が、次第に大きくなって子供たちを怖がらせるようなこ
とにでもなったら、白狐紺三郎の目論見は台無しである。紺三郎は妙に気取った態度で「
雪が柔らかになるといけませんからもうお帰りなさい」と子供たちを促す。〈四郎〉と〈
かん子〉は自分の歌っている詞の意味も分からずに、無邪気に「堅雪かんこ、凍み雪しん
こ。」と歌いながら「銀の雪を渡って」家へと帰る。

 幼い兄妹は無事に家に帰ることができた。それにしても、家族の者、両親や兄たちは何
の心配もしなかったのであろうか。語り手は、〈四郎〉と〈かん子〉の家族にいっさい照
明を与えない。家に帰った〈四郎〉と〈かん子〉は、小狐紺三郎と出会ったこと、団子を
すすめられたこと、一緒に林の奥の鹿に呼び掛けたり、歌ったり踊ったりしたことを家族
の者に話しただろうか。『どんぐりと山猫』の一郎は、山猫から届いたおかしな葉書のこ
とを誰にも話さなかった。〈四郎〉と〈かん子〉は紺三郎に、今日の事を誰にも話しては
いけないよ、と言われたわけではない。テキストの中のどこにも、紺三郎と子供たちの間
にそういった約束ごとが成立していたなどという記述はない。にもかかわらず、もし子供
たちが紺三郎の事を話してしまうと、〈幻燈会〉の招待券はたちまち消えてしまうような
気がする。やはり、紺三郎と会ったことは内緒にしておかなければならないのだ。見方を
変えれば、紺三郎と子供たちの関わりに、大人たちは参入できないということである。

 最初に取り上げておいたタイトルの「雪渡り」は、ここにきて漸くはっきりとする。「
雪渡り」とは〈雪〉が〈渡る〉のではなく、大理石のように堅くなった銀の雪の上を子供
たちが渡ることを意味していた。すると『雪渡り』という童話は、〈雪〉を渡って〈うち
〉から〈のはら〉、そして異界の〈林〉へと渡り行き、渡り来る子供たちの物語というこ
とになるのであろうか。否、『雪渡り』とは〈銀の雪〉を渡り損ねた子供たちの余りにも
悲しい物語だったのではないか。

 子供たちが「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」と歌った後、この一幕目の最後に記された
「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」はいったい誰が歌っていたのであろうか。この言葉は、
最初に出てきた「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」と呼応する。子供たちでもない、小狐紺
三郎でもない。これは子供たちの死すべき運命を告知する〈或る何ものか〉の声としか思
えない。子供たちが帰っていったと記される〈おうち〉が現実の家であるという保証はな
い。この〈おうち〉は死ななければいけない〈おうち〉であるかもしれないのだ。わたし
の脳裡をよぎるのはグリム童話ヘンゼルとグレーテル』である。ヘンゼルとグレーテル
は森の中に捨てられた子供にとどまるのではない。彼らは森の中で殺され、食べられてし
まった子供であり、死んで神の〈家〉へと召された子供なのである。〈四郎〉と〈かん子
〉は、この現実の世界ではない〈異世界〉(死の世界)へと連れ去られる運命にあり、第
一幕目最後の「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」はそのことを冷徹に告知しているのである


雪渡り その二(狐小学校の幻燈会)」を読む

  青白い大きな十五夜のお月様がしづかに氷の上山から登りました。
  雪はチカチカ青く光り、そして今日も寒水石のやうに堅く凍りました。
  四郎は狐の紺三郎との約束を思ひ出して妹のかん子にそっと云ひました。

 〈青白い大きな十五夜のお月様〉が〈凍りの上山〉からしづかに登る。その光景を伝え
るのは語り手である。同時に、この光景を見つめているのは〈四郎〉と〈かん子〉である
。彼らは白狐の紺三郎に招待された〈幻燈会〉を何よりも楽しみにしていた。約束の日時
は〈この次の雪の凍った月夜の晩〉の〈八時〉である。今夜、〈青白い〉お月様が登り、
雪はチカチカ〈青く〉光っている。〈青〉はここでは〈死〉の色である。〈四郎〉はこの
お月様の〈青〉とチカチカ光っている雪の〈青〉に誘われる。彼は紺三郎との約束を思い
出し〈かん子〉に〈そっと〉言う。何故〈そっと〉なのか。それは紺三郎との約束が〈四
郎〉と〈かん子〉だけの秘密になっていたからである。十一歳以上の者は白狐の幻燈会に
招待されないのだ。幻燈会の〈特別席〉に坐れるのは〈四郎〉と〈かん子〉だけであり、
彼らは紺三郎との約束を三人の兄たちにも内緒にしていたのだ。

 「今夜狐の幻燈会なんだね。行かうか。」
  するとかん子は、
 「行きませう。行きませう。狐こんこん狐の子、こんこん狐の紺三郎。」とはねあがっ
て高く叫んでしまひました。
  すると二番目の兄さんの二郎が
 「お前たちは狐のとこへ遊びに行くのかい。ぼく行きたいな。」と云ひました。
  四郎は困ってしまって肩をすくめて云ひました。
 「大兄さん。だって、狐の幻燈会は十一歳までですよ、入場券に書いてあるんだもの。

  二郎が云ひました。
 「どれ、ちょっとお見せ、ははあ、学校生徒の父兄にあらずして十二歳以上の来賓は入
場をお断り申し候、狐なんて仲々うまくやってるね。僕はいけないんだね。仕方ないや。
お前たち行くんならお餅を持って行っておやりよ。そら、この鏡餅がいゝだらう。」
  四郎とかん子はそこで小さな雪沓をはいてお餅をかついで外に出ました。
  兄弟の一郎二郎三郎は戸口に並んで立って、
 「行っておいで。大人の狐にあったら急いで目をつぶるんだよ。そら僕ら囃してやらう
か。堅雪かんこ、凍み雪しんこ。狐の子ぁ嫁ぃほしいほしい。」と叫びました。

 〈四郎〉と〈かん子〉の二人だけの秘密が、〈かん子〉が大きな声で「狐こんこん狐の
子」などと言ってしまったので、三人の兄たちにばれてしまう。二郎は自分も行きたいと
言うが、残念ながら狐の幻燈会は十一歳までである。兄たち三人はずいぶんと素直に幻燈
会に行くことを諦める。彼らは〈四郎〉と〈かん子〉に〈お餅〉を持たせ、囃し言葉で見
送る。

 さて、ここまでの場面で疑問点を提示しておこう。今まで両親が一度も顔を出していな
いのはどういうことだろうか。幼い子供が二人きりで、月夜の晩に狐の幻燈会に出掛ける
ことを許す両親がいるだろうか。この童話において大人が登場することはまずい。大人が
登場しただけで話をスムースに展開することができなくなる。もし、両親が〈秘密〉を知
ったら、〈四郎〉と〈かん子〉が楽しみにしていた狐の幻燈会は、まさに幻と消えてしま
うだろう。狐の幻燈会は子供たちのみに知られた催しであり、大人になったらすっかり記
憶がなくなってしまう、そういった性格の催しなのである。

 なぜ、〈大人の狐〉にあったら急いで目をつぶらなければいけないのだろうか。目を開
けていると〈大人の狐〉は子供たちを化かすからであろうか。それとも小狐紺三郎が主催
する幻燈会は、〈大人の狐〉には内緒の催しであったのだろうか。なぜ、二郎は〈四郎〉
と〈かん子〉に〈お餅〉を持たせたのであろうか。〈お餅〉は幻燈会に招待してくれた紺
三郎に対するお礼の贈り物なのであろうか。

 それにしても、一郎二郎三郎と兄たち三人が戸口に立って「堅雪かんこ、凍み雪しんこ
。」と囃しながら〈四郎〉と〈かん子〉を見送るその光景はなんとも恐ろしい光景に映る
。〈四郎〉は〈死郎〉、〈かん子〉は〈棺子〉として兄たちに見送られているからである
。もう二度と生きて帰ってくることはないであろう、弟と妹を、今、三人の生き延びた三
人の兄たちが戸口で見送っているのだ。こんなに悲しい光景はない。
兄たちは一見、無邪気に「狐の子ぁ嫁ぃほしいほしい」と囃したが、それが本当のこと
なら、紺三郎は〈かん子〉を自分の〈嫁〉に欲しかったということになろう。〈狐の嫁入
り〉ではなく〈かん子〉(人間)の〈狐〉への嫁入りである。そう考えれば異類婚姻譚
一つとも見なされるが、〈かん子〉が〈狐〉の〈嫁〉として迎え入れられるということは
、〈かん子〉が〈人間〉としては死ぬことを意味しているのであるから、いずれにしても

〈かん子〉は死を免れることはできない。

 一郎二郎三郎に見送られた〈四郎〉と〈かん子〉は再び〈森〉の入口へとやって来る。
まず〈白い小さな狐の子〉が二人の入場券を確認し、手で林の奥を指示する。二人は〈白
い一枚の敷布〉がさがっている所へやって来る。不意に紺三郎が〈立派な燕尾服〉を着て
登場する。胸に〈水仙の花〉をつけ、〈まっ白なはんけち〉でしきりに尖った口を拭いて
いる。狐の学校生徒は「白いお餅はべったらこ」と叫ぶ。なぜこんなにも〈白〉が頻出す
るのか。〈白〉は不気味だ。〈白〉は〈死〉の隠喩ではないのか。

 〈四郎〉と〈かん子〉は狐の幻燈会に招待されたことになっている。しかし実は、二人
の子供は小狐紺三郎の〈結婚式〉に招かれたのではなかろうか。紺三郎の〈嫁〉は〈かん
子〉である。しかし、〈結婚式〉が成立するためには、〈四郎〉と〈かん子〉は狐の黍団
子を食べなければならない。しかもこの団子を食べると死んでしまうのだ。つまり死なな
ければ〈白狐〉の〈花嫁〉となることはできないのだ。

 〈四郎〉が紺三郎にお餅(鏡餅)をあげると、幕の横に「寄贈、お餅沢山、人の四郎氏
、人のかん子氏」と大きな札が出る。この札の文字も「寄贈、お餅沢山、人の四郎死、人
のかん子死」と書き直すことができる。その時〈ピー〉と笛が鳴る。〈ピー〉は〈開会〉
を告げる音であると同時に、二人の子供たちに対する〈警告音〉ともなっている。再び、
笛が〈ピー〉と鳴る。いよいよ幻燈会の第一『お酒をのむべからず』が映される。酒にし
こたま酔った太右衛門ぢいさんが〈野原のまんぢゅう〉(兎の糞)を食べている。続いて
、酒に酔った清作が〈野原のおそば〉(これはいったい何だろう。語り手は具体的に語っ
ていない)を木の葉のお椀で食べている。彼らは、酒に酔って白狐に騙されていることに
気づかない。写真が消えて休憩に入ると、〈可愛らしい狐の女の子〉がお皿にのせた〈黍
団子〉を持ってくる。〈四郎〉は迷う。何しろ、太右衛門と清作が〈悪いもの〉をそれと
知らずに食べたのを先刻見たばかりである。自分もまた狐に騙されているのかもしれない
。〈かん子〉は恥ずかしくてお皿を手に持ったまままっ赤な顔をしている。〈四郎〉は紺
三郎を信用して〈黍団子〉を食べる。その〈おいしいこと〉は頬っぺたが落ちそうである
。二人は〈黍団子〉をみんな食べる。狐の学校生徒は踊りあがって喜び、「狐の生徒はう
そ云ふな」「狐の生徒はぬすまない」「狐の生徒はそねまない」と歌う。〈四郎〉と〈か
ん子〉も嬉しさのあまり涙をこぼす。

 さて、狐の学校生徒たちの歌はまるで道徳家か宗教家のそれのようである。嘘を言うな
、盗むな、嫉むな、というのであるから、人の世界では化かすと言われている狐の言葉と
はとうてい思えない。
 再び〈ピー〉という笛の音が鳴り、第二『わなを軽べつすべからず』が始まる。狐のこ
ん兵衛が〈わな〉に左足をとられた景色が映し出されている。小狐たちはみんなで
  「狐こんこん狐の子、去年狐のこん兵衛が
   左の足をわなに入れ、こんこんばたばた
                 こんこんこん。」

 と歌う。この歌は〈四郎〉が作った歌である。

 〈四郎〉は〈わな〉にかかった狐のこん兵衛をからかうような歌を作った。〈わな〉に
かかったこん兵衛はその後どうしたのだろうか。人間によって殺されてしまったのだろう
か。それとも逃げることに成功したのだろうか。語り手は何も報告しない。読者が分かる
のは、狐の子供たちが口をそろえて歌った歌が〈四郎〉の作った歌であったということ位
である。もしこん兵衛が殺されていたとしたら、狐たちは人間に対する復讐の念を感じな
かったであろうか。先に生徒たちは「たとえからだを、さかれても/狐の生徒はうそ云ふ
な。」「たとへこゞえて倒れてもゞ狐の生徒はぬすまない。」「たとへからだがちぎれて
も/狐の生徒はそねまない。」と歌った。まさにきれいごと中のきれいごと、この世のど
こにもありえない〈理想〉の歌であり、言葉を変えれば〈欺瞞〉の歌である。こん兵衛が

〈わな〉にかかって「こんこんばたばた」したあげく撲り殺されていたとしても、狐の生
徒たちは人間を憎んだりしなかったのであろうか。『わなを軽べつすべからず』とは、狐
の子供たちに向けての警告というよりは、〈四郎〉と〈かん子〉に向けての警告のような
気がする。つまり彼らは狐の〈黍団子〉を食べて、すでに〈わな〉にかかってしまってい
るのだ。悲しいことに彼らは〈わな〉にかかったことを自覚していない。彼らは今、こん
兵衛のように「こんこんばたばた」しなければならない状況に陥ったにもかかわらず、自
分たちの置かれた状況を的確に判断できないのである。恐るべきは小狐紺三郎の仕掛けた
〈わな〉である。

 第三『火を軽べつすべからず』が始まる。狐のこん助が焼いた魚を取ろうとしてしっぽ
に火がついた場面である。狐の生徒が
  「狐こんこん狐の子。去年狐のこん助が
   焼いた魚を取ろとしておしりに火がつき
                 きゃんきゃんきゃん。」

 と叫ぶ。

 三たび、笛が〈ピー〉と鳴って幻燈会は終わる。

 紺三郎が登場して閉会の挨拶をする「みなさん。今晩の幻燈はこれでおしまひです。今
夜みなさんは深く心に留めなければならないことがあります。それは狐のこしらへたもの
を賢いすこしも酔はない人間のお子さんが喰べて下すったといふ事です。そこでみなさん
はこれからも、大人になってもうそをつかず人をそねまず私共狐の今迄の悪い評判をすっ
かり無くしてしまふだらうと思ひます。閉会の辞です。」と。なんともご立派な挨拶であ
る。しかしこんな立派な挨拶をされたら〈怪しい〉と思う常識を備えていなければいけな
い。第一、なぜ〈四郎〉と〈かん子〉は小狐たちにこんなに歓迎されなければならないの
であろうか。紺三郎の挨拶によれば、今までの狐の〈悪い評判〉を無くすためと受け止め
ることができる。紺三郎の〈理想〉は「大人になってもうそをつかず人をそねまず」であ
る。先にも指摘したが、表層の紺三郎はまるで立派な宗教家のようである。
 さて、〈四郎〉と〈かん子〉は無事、家にたどり着くことができたのであろうか。二人
は〈森〉を出て〈野原〉を行く。二人は〈青白い雪のまん中〉で〈三人の黒い影〉が〈向
ふ〉から来るのを見る。語り手は「それは迎ひに来た兄さん達でした。」と語る。あたか
も、二人は迎えに来た兄たちと一緒に家に帰ったと思わせる語りである。しかし、〈四郎
〉は〈死郎〉、〈かん子〉は〈棺子〉と解してきたわたしの目には、二人の子供が〈青白
い雪のまん中〉で息絶えた姿が見える。
…………「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」…………


雪渡り
 町田嘉章・浅野建二編『わらべうた・・日本の伝承童謡・・』(ワイド版岩波文庫94
一九九三年四月)の中に「堅雪かんこ〈堅雪渡り〉」が収録されている。「堅雪かーんこ
 白雪かっこ/しんこの寺さ 小豆バッとはねた/はーねた小豆こ すみとって/豆コ
ころころ 豆こ ころころ」。解説には次のように書かれている。・堅雪かんこ・「青森
・岩手地方の唄。歌意は明らかでない。山形に「かだ雪ぼんぼ、猫ぼんぼ」というのがあ
る。・白雪しんこ・(三戸郡戸来)「しみ雪しんこ」(岩手県九戸)・「霜雪しんこ」(
岩手)とも。
 〈堅雪かんこ〉は〈堅雪渡り〉とも言うのであれば、タイトルの『雪渡り』という言葉
は青森、岩手などの雪国では通常使われていたことになる。雪が凍って固まり、ふだん行
けなかった所へ行ける。深い雪に閉ざされた東北の子供たちにとって、大理石のように堅
い凍った雪の上を自由に渡れることは大いなる喜びであったろう。『雪渡り』は束の間の
祝祭空間を舞台とした〈異空間〉への踏み越えのドラマとも言えよう。

「キックキックキック」と「キシリキシリ」
 四郎とかん子が雪沓をはいて野原に出ていくときが「キックキックキック」である。雪
が凍って「すきな方へどこ迄でも行ける」という解放された喜びの感情がこの擬音語には
端的に表れている。一方、白狐の紺三郎が雪の上を歩くときが「キシリキシリ」で、この
擬音語は野に生きる狐の慎重さや狡猾さを醸しだしている。のみならず、この語には何か
神秘的な、異界からの使者が静かにその姿を現すといった不気味な荘厳さも感じる。現実
世界からの〈キックキックキック〉が、異界からの〈キシリキシリ〉と出会い、それが境
界域での祝祭を奏でる〈キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック
、キック、キック、キック、トントントン。〉へと融合する。

・「二人は森の近くまで来ました。」
 この日、四郎とかん子は喜んで野原に出る。なぜならこの日、雪がすっかり凍ってどこ
にでも行くことができたからである。が、ここで問題にしたいことはそういうことではな
い。なぜ、この日、子供たちにとって嬉しいこの日、四郎とかん子だけが野原に出てきた
のかということである。四郎とかん子には一郎二郎三郎の三人の兄がいる。彼らも十二歳
を過ぎているとはいえ、まだ子供である。なぜ彼らは四郎とかん子と共に野原に出ていか
なかったのかということである。否、語り手は一郎二郎三郎の三人が野原に出たとも出な
かったとも語っていない。しかし、語りの印象からは、野原に出てきたのは四郎とかん子
のみといった感じが強い。一郎二郎三郎はもとより、近所の子供たちの気配もまったく感
じられない。この日、「お日様がまっ白に燃えて百合の匂を撒きちらし又雪をぎらぎら照
らし」ていたこの日、野原に召喚されたのは四郎とかん子だけだったのではなかろうか。
言わば、彼ら二人のみが選ばれし子供だったのであり、彼らは〈森〉の中へと誘致される
運命にあったと言える。彼らが行きたかった〈すきな方〉とは、白狐の住む〈森〉の中だ
ったのであり、この現実の世界ではなく〈異界〉だったのである。

・〈写真〉と〈絵〉・
 紺三郎が紹介する幻燈会の内容は第一の『お酒をのむべからず。』が〈写真〉、第二の
『わなに注意せよ。』が〈絵〉、第三の『火を軽べつすべからず。』が同じく〈絵〉であ
る。〈写真〉とは事実をそのまま写したわけであるから、かなり信憑性がある。紺三郎は
写真班の誰かに、太右衛門や清作が「お酒をのんでたうとう目がくらんで野原にあるへん
てこなおまんぢゅうや、おそばを喰べようとした所」を撮影していたことになる。こん兵
衛が野原でわなにかかったこと、こん助がしっぽを焼いた景色は〈絵〉であるから、狐の
誰か絵の得意なものがそれを想像して描いたことになる。本文でも指摘したが、〈わな〉
にかかったこん兵衛が殺されたのか、助かったのかは分からない。もし殺されていたとし
たら、この絵は狐たちにとっては悲しみと怒りを起こさせたであろう。この場面を読んで
いても、狐たちの悲嘆と憤怒をまったく感じないのは、紺三郎の四郎とかん子に対する親
しげな対応の仕方にある。それにしても、紺三郎が自分たちの歴史をきちんと〈写真〉と
〈絵〉で記録していることは注意しておいていい。今、現に紺三郎と人間の子供たちが出
会い、話し、歌い、踊っているさまを、紺三郎の仲間は〈写真〉に撮っているはずである

・「狐の団子は兎のくそ」・
 狐の〈団子〉(野原のまんぢゅう)を〈兎のくそ〉とも知らずに酒に酔っぱらった太右
衛門は三十八も食べた。四郎とかん子が紺三郎の差し出した〈黍団子〉を食べたというこ
とは、かん子が紺三郎の〈嫁〉になることを承諾したことを意味する。さらに、人間が〈
狐〉の嫁になるということは、彼らの〈死〉を意味する。四郎とかん子は〈黍団子〉を食
べたことで〈現実〉〈人間世界〉〈生〉から〈非現実〉〈白狐世界〉〈死〉へと踏み越え
ていった。まさに「行きはよいよい 帰りは恐い」である。

・「キックキックトントンキックキックトントン」・
 この囃子言葉は四郎とかん子と紺三郎が一緒になって踊り歌っている様を端的に表して
いる。この言葉は何回も繰り返されるが、微妙に異なっている。次にそのすべてを引用し
て検証してみることにしよう。
①キックキックトントンキックキックトントン(紺三郎が足ぶみ)
②キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キ
ック、トントントン。(四郎・かん子・紺三郎)
③キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キ
ック、トントントン。(四郎・かん子・紺三郎)
④キックキックトントンキックキックトントン。(狐の学校生徒たち全員)
⑤キックキックキックキックトントントン。(狐の学校生徒たち全員)
⑥キックキックトントン、キックキック、トントン、(狐の学校生徒たち全員)
⑦キック、キック、キック、キック、トン、トン、トン。(狐の学校生徒たち全員)
⑧キックキックトントン、キックキックトントン。(狐の学校生徒たち全員)
⑨キック、キックトントン、キックキックトントン。(狐の学校生徒たち全員)
⑩キックキックトントン、キックキックトントン。(狐の学校生徒たち全員)
⑪キックキックトントン、キックキックトントン。(狐の学校生徒たち全員)

 ①は白狐の紺三郎の足踏みであるが、これから何か異様なことが始まる予感を覚える。
②と③は四郎とかん子と紺三郎が、歌い踊っている様がよく出ている。④から⑪は狐の学
校生徒たち全員が足踏みしながら歌っており、そのスピィーディーなタップ的な調子が
よく出ている。この擬音語囃子は繰り返し繰り返し音調を変えながら口にしていると、一
種異様な感覚に襲われてくる。〈森〉の空き地で催された狐の幻燈会は、いわば〈異界〉
でのカーニバル(祝祭)であり、酒や麻薬によらなくても、狐の学校生徒たちの合唱を聞
いているだけで陶酔感覚を十分に味わえる。紺三郎が吹く笛の〈ピー〉がなければ、覚醒
が危ぶまれるほどの陶酔作用を持っている。白小狐たちの擬音語囃子は危険なのだ。

・〈白〉のイメージ・
 『雪渡り』全編に〈白〉のイメージが覆っている。まず〈雪〉を含む言葉(〈雪渡り
〈堅雪〉〈しみ雪〉〈凍み雪〉)がそうだし、小狐紺三郎が〈白狐〉で、幻燈会の時には
〈まっ白なはんけち〉で口を拭いたり、第一の幻燈では〈白い袴〉をはいて登場している
。お日さまは〈まっ白〉に燃えている。〈青白い〉十五夜のお月様。その他〈白い小さな
狐の子〉、〈白い一枚の敷布〉、〈白いお餅〉、〈青白い雪の野原〉など。また視覚的に
は森の近くに生えている〈大きな柏の木〉の〈柏〉、聴覚的には〈しろう〉の〈四郎〉ま
でが〈白〉を際立たせている。〈白〉は〈死〉を喚起させ、〈四郎〉と〈かん子〉は〈死
〉に覆われている。

・小狐の紺三郎・
雪渡り』の第一部に(小狐の紺三郎)とある。小狐紺三郎は子狐紺三郎とも紺三郎とも
表記される。〈紺三郎〉が名前だとすると〈小狐〉は名字なのか。それとも単なる〈小さ
な狐〉という意味なのか。子狐紺三郎とは〈子供の狐〉の〈紺三郎〉という意味なのか。
それにしても、この白狐の名前・紺三郎の〈紺〉と〈三郎〉が気にかかる。〈風〉の〈又
三郎〉との関係はどうなっているのだろうか。第一幕目、〈白狐〉の〈紺三郎〉は人間の
子供と言葉を交わし、歌い、踊り、狐の幻燈会に招待する。第二幕目、彼は幻燈会の司会
をそつなくつとめ、人間の子供に〈黍団子〉を食べさせることに成功し、最後に教訓を垂
れる。一見、紺三郎は悟りを得た者の如く振る舞っているが、その言動はきれいごとの連
続できわめて胡散臭い。わたしの色彩感覚において〈紺〉は〈青〉よりも深く悲しく、癒
しがたい憤怒を抱えている。この童話テキストにおいて小狐紺三郎は、その悲しみと憤怒
を完璧に押さえ込み、牧歌的な読者に無邪気で晴朗な、ちょっぴり気取ったキャラクター
のイメージを植えつけることに成功している。

・「野原のまんぢゅうはポッポッポ。」・
 第一幕目で紺三郎がはじめて歌った時が「野原のまんぢゅうはポッポッポ。」である。
第二幕目、狐の学校生徒が足ぶみして歌う時には「野原のまんぢゅうはぽっぽっぽ」とな
っている。片仮名表記の「ポッポッポ」で句点止めになっているのが、平仮名表記の「ぽ
っぽっぽ」で句点なしになっている。これはどのような違いを意味しているのだろうか。
〈野原のまんぢゅう〉はかん子によれば〈兎のくそ〉であった。ひとによってその受け止
め方はちがうと思うが、片仮名表記で句点止めは〈くそ〉が時間がたって固くなっている
印象、平仮名表記はまだひりたての新鮮な印象を受ける。もし、この歌の場面を舞台など
で上演する場合には、違った歌い方を演出する必要があろう。紺三郎の歌い方は少し固く
こわばった感じで、学校生徒の合唱は固まった〈くそ〉が溶けだすほどに熱狂的に。

・「野原のおそばはホッホッホ。」・
 紺三郎が一人で歌った時には「野原のおそばはホッホッホ。」が、学校生徒たちがみん
なで足ぶみして歌う時には「野原のおそばはぽっぽっぽ、」となる。句点止めで片仮名表
記の「ホッホッホ。」は固いイメージと共に、何かひとをおちょくっているような感じを
受ける。つまり〈野原のおそば〉の様態を形容した言葉ではなく、あからさまではない皮
肉たっぷりの笑い声のように聞こえる。学校生徒たちの読点付き「ぽっぽっぽ、」は熱狂
と温かさを感じる。それにしても〈野原のおそば〉とは何なのだろう。それが、そばのよ
うに細長いもので、ひとを騙せる嫌なものだとすれば……ミミズとかムカデとか、そうい
った類のものであろうか。

・「狐こんこん白狐、お嫁ほしけりゃ、とってやろよ。」・ 四郎の本当の年齢は不明だが、十一歳以下であることは間違いない。こんな小さな子供
が「まだまるで小さい」狐の子に向かって〈お嫁〉云々を口に出すのはどういうことだろ
うか。四郎やかん子が住んでいる雪国の山村ではこういった囃し文句の歌が日常的に歌わ
れていたのだろうか。狐が人間の女に化けて嫁入りするという話は伝わっているが、人間
が狐に嫁をとってやるという話はきいたことがない。本論で触れたように、〈嫁〉は〈森
の神〉の化身である白狐に捧げられた犠牲(供犠)という意味を持っていたとしか思えな
い。〈白い狐の子〉が現出して来た時、四郎は少しぎょっとして妹のかん子をうしろにか
ばうが、〈かん子〉こそは白狐神に捧げられるべき供犠であった可能性がある。白狐は〈
お嫁〉はいらないと断る。四郎は〈お嫁〉がいらなければ〈お餅〉をやろうかと言う。白
狐はそのことには答えず、〈黍の団子〉をやろうかと言い返す。白狐が求めているのは〈
お嫁〉ではなく、〈黍の団子〉をやる代わりに二人の子供の命をくれと言っているのだ。

・「お嫁がいらなきゃ餅やろか。」・
 四郎とかん子は幻燈会に出掛けるとき、兄たちから〈鏡餅〉を持たされる。冬の厳しい
寒さの時(旧暦の十二月中旬)に狐に食物を与える行事(狐施行・寒施行)について、吉
野裕子は『狐・・陰陽五行と稲荷信仰』(法政大学出版局 一九八〇年)の中で「各家か
ら米や銭の施しを受けて、それで赤飯の握り飯や油揚を用意し、深夜、藪・林・丘など、
狐のいそうなところを廻って歩き、そこにそれらの供物を置いてくるのである」と書いて
いる。四郎とかん子が幻燈会に招待してくれた小狐紺三郎に〈鏡餅〉を持参したことは、
この狐施行と関係があるかもしれない。なお、吉野氏は狐の生態、稲荷信仰との関係、陰
陽五行の観点から徹底的に狐に照明を当てており、ケンジ童話を理解する上でも参考にな
る。

・「だまされたといふ人は大抵お酒に酔ったり、臆病でくるくるしたりした人です。」・

 逆説的な言い方をすれば、白狐は〈お酒〉に酔った人や〈臆病〉な人を騙すことはでき
ない。太右衛門や清作は狐に騙されて〈野原のまんぢゅう〉や〈野原のおそば〉を食べさ
せられたことを自覚している。ところが、〈お酒〉も飲まず、〈臆病〉でもない四郎とか
ん子の二人は、まんまと白狐の紺三郎に騙されて狐の〈幻燈会〉に出掛け、あげくのはて
に〈黍団子〉を食べてしまう。『黒ぶだう』の仔牛が赤狐に騙されて〈黒ぶだう〉を食べ
〈犢肉〉にされてしまったように、四郎とかん子は〈黍団子〉を食べて自らの命を狐神に
捧げてしまったのである。本論で指摘したように、小狐紺三郎は四郎とかん子だけではな
く、読者をもまたたぶらかしている。紺三郎のたぶらかしが余りにも巧みなので、牧歌的
な読者に「あなたはたぶらかされている」などと言おうものなら、おそらく本気になって
怒るだろう。こういった読者は未だに『オツベルと象』の赤衣の童子が〈悪魔〉であるこ
とに気づかず、『貝の火』のホモイの両親は〈立派〉だと思っている。栗鼠に鈴蘭の実を
集めることを命じたホモイを叱り、狐から盗品の角パンを貰ってきたホモイを叱った父親
が、それにもかかわらず鈴蘭の実を食べ、角パンを食べている。素直にテキストを読めば
ホモイの両親の〈欺瞞〉は明白である。自分を善と正義の側に置く自己内省力の欠如した
ロクデシの典型がホモイの両親である。
 白狐の紺三郎がどんなに〈立派〉なことを言っても無駄である。狐は生きるためには自
分よりも力の弱い小動物や昆虫の命を奪って生きている。彼らもまた弱肉強肉の自然の直
中に置かれている。小狐と人間の子供たちの交歓をそのまま信ずる人間の大人たちの誰一
人として、他の生物の命を奪わずに生きている者はいない。自分の現実に盲目な者だけが
、根拠のない〈ユートピア〉(幻想)に逃げ込む。異様に静謐で、異様に美しい幻想的な
表層世界の奥に潜む冷酷な深層を見ることができずにいる読者は、本当は表層の〈美〉を
味わってもいないのである。

・「まっ白なはんけちでしきりにその尖ったお口を拭いてゐるのです。」・
 狐に〈わな〉をかける人間と、飢えれば人間の家畜を襲う〈狐〉が平和に共存できるは
ずもない。共存できると考える人間の浅薄を、白い袴をはいた紺三郎が薄く笑っているの
を見ない読者はケンジ童話の深層に参入することはできない。語り手は、紺三郎が「まっ
白なはんけちでしきりにその尖ったお口を拭いてゐる」と語っている。おそらくその〈ま
っ白なはんけち〉は黒く汚れていたに違いない。狐が人をだますなんて〈けだし最もひど
い偽〉と言い切った、その〈まっかな嘘〉をごまかすためにこそ紺三郎はしきりに口を拭
いたのである。「口を拭いてゐる」を「口を拭っている」と言いなおせば事は明白である
。「狐の如きは実に世の害悪だ。たゞ一言もまことはなく卑怯で臆病でそれに非常に妬み
深いのだ」と言ったのは『土神ときつね』の土神である。ケンジ童話の読者はこの土神の
狐観を忘れてはならない。

・「その青白い雪の野原のまん中で三人の黒い影が向ふから来るのを見ました。それは向
ひに来た兄さん達でした。」・
 
〈四郎〉と〈かん子〉は〈森〉を出て〈野原〉を行くと、その〈青白い野原のまん中〉
で、〈三人の黒い影〉が向こうから来るのを見る。この〈黒い影〉は何だろうか。この〈
黒〉は二人の〈死〉の隠喩ではなかろうか。しかし、ケンジ童話の語り手は、そんな思い
を読者にさせない騙りの技巧を駆使している。彼はすぐに〈三人の黒い影〉は〈向ひに来
た兄さん達〉と断定し、牧歌的な読者を安心させる。こういったやり口は『貝の火』でも
見られた。ホモイは川の辺で〈けたゝましい声〉を聞く。語り手は上流から流れて来るも
のを、初めは〈うす黒いもじゃもじゃした鳥のやうな形のもの〉と語る。が、すぐにそれ
は確かに〈瘠せたひばりの子供〉ですと断定する。そのことで正体不明な、名付けられぬ
ものが持つ不気味さを解消してしまう。ケンジ童話の深層に参入するためには、ホモイの
眼前に流れてきた〈もの〉をあくまでも〈うす黒いもじゃもじゃした鳥のやうな形のもの
〉として見つづけていくことが重要である。〈四郎〉と〈かん子〉の目に映った〈三人の
黒い影〉を、彼らの兄三人と見たのでは、ケンジ童話の表層を歩いただけのことになって
しまう。作者の側から言わせれば、牧歌的な読者を無事に〈家〉に送り届けたということ
になるのだろうか。
 〈三人の黒い影〉とは、白狐・紺〈三〉郎が一郎二郎三郎の〈三〉人に化けた姿とも見
える。この〈三人の黒い影〉は〈四郎〉と〈かん子〉を黄泉の国へと迎えに来た或る何も
のかであり、二人の子供はこの物語の最初から〈死〉を運命づけられていたのである。『
雪渡り』全編に漂う透明感、静謐感は〈四郎〉と〈かん子〉の〈死〉を内包しているが故
のものである。表層舞台での狐と人間の歌と踊りの交歓の賑わいも、無音の静謐に溶け合
っている。

・「行っておいで。大人の狐にあったら急いで目をつぶるんだよ。」・
〈四郎〉と〈かん子〉を送りだす時に兄たち三人が言った言葉である。なぜ、〈大人の狐
〉にあったら急いで目をつぶらなければならないのだろうか。不思議な警告である。この
童話にはたしかただ一疋の〈大人の狐〉は登場していなかったはずだが。否、〈白狐〉の
ことだ、どのような騙しのテクニックを使っているか知れたものではない。まず気がつく
のは〈かん子〉が「狐こんこん狐の子、狐の団子は兎のくそ。」と囃したとき、急に紺三
郎が言葉の調子を変えて「いゝえ、決してそんなことはありません。あなた方のやうな立
派なお方が兎の茶色の団子なんか召しあがるもんですか。私らは全体いままで人をだます
なんてあんまりむじつの罪をきせられてゐたのです。」と言った時の、その実に大人びた
口調である。こんな言い方をする「まだまるで小さい」子狐がいるだろうか。やはり白狐
は〈子狐紺三郎〉〈小狐紺三郎〉〈紺三郎〉など様々に化けていたと見たほうが納得がい
く。
 幻燈会