宮内勝典『魔王の愛』の感想

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宮内勝典『魔王の愛』を読んで
清水正

二十九日に宮内勝典氏の『魔王の愛』を読み終える。非暴力を唱え、聖人と称されたマハトマ・ガンジーの心の内に潜む魔を見る作者が、ガンジーをXと記して、彼に向けて手紙を書くという体裁で展開したエッセイ風小説である。作者は世界各国を放浪した経験があり、その経験を存分に活かして、ガンジーの生涯の裏表に照明を当てていく。ガンジーを多面体と見る作者は、彼を聖人の衣装を纏った魔王としてとらえる。宮内氏はドストエフスキーの愛読者でもあり、わたしはこの作品を読みながら、ドストエフスキーの人物たちの何人かを重ね合わせながら読んだ。『悪霊』のニコライ・スタヴローギンは世界各地を遍歴した青年だったし、彼の先生であったステパン氏は古代異教徒的、汎神論的な神を信奉する自由主義者であった。聖者と言えばゾシマ長老やアリョーシャ・カラマーゾフがすぐに思い浮かぶ。ゾシマの高潔などのっけから信じていないのが、ゾシマ長老に師事するために修道院入りの許可を求めたアリョーシャに〈坊さん女郎〉の話をするフョードル・カラマーゾフである。ドストエフスキーには「人間はすべて卑劣漢である」という揺るぎのない人間認識がある。この認識は悪の哲学者とも言うべき『虐げられた人々』のワルコフスキー公爵、『罪と罰』のロジオン、『悪霊』のピョートル・ヴェルホヴェーンスキーなどを経て『カラマーゾフの兄弟』のフョードルにまで継承されてくる。人間通のフョードルの冷徹な道化の眼差しはゾシマの秘密の領域をくまなく見透かしているが、未完の『カラマーゾフの兄弟』においてそれが読者に明かされることはなかった。宮内氏は作品の中で自身が無神論者であると記している。ドストエフスキーを一生涯苦しめたのは神の存在で、彼が作り出した人神論者のすべてが神に反逆せざるを得ないヨブ的問題を抱えて苦悩している。要するに彼らは、この地上世界において神の正義が体現されていない、その不条理性を自らの狂気と引きかえに告発し続ける〈無神論者〉である。宮内氏に神の存在をめぐっての悶えはない。フョードルの道化の眼差しは一瞬のうちに対象を相対化する。たとえば、非暴力による革命運動を善とする視点もあれば、それを悪とする視点もあるということである。暴力を積極的に支持し行動する者は世界のいたるところに存在したし、今現在も存在する。ガンジーを聖人と見る者もあるし、欺瞞的な策略家と見る者もいる。晩年のガンジー若い女と添い寝していたことなどフョードル・カラマーゾフに言わせればとるに足りない出来事ということになる。『魔王の愛』を読んで改めて思うのは、現代において人間を深く追求することの不毛感である。人間の抱え込んでいる諸問題の悉くが、すでに十九世紀のロシア文学ドストエフスキートルストイチェーホフなど)において描き尽くされてしまったのではないのか、という思いである。『魔王の愛』には何度か「空っぽ」という言葉がでてくる。今、わたしは林芙美子の『浮雲』について書き続けているが、いつも富岡兼吾が抱え込んでいる虚無、空虚感を味わっている。『魔王の愛』の作者にも、どうすることもできない虚無、空っぽ感があることを感じる。神と言おうが、得体の知れない或る何ものかの意志と言おうが、あるいは遺伝子と言おうが、結局、わけもわからずこの地上世界に生み落とされた被造物としての人間には、世界の神秘と謎を解くことはできないのだという思いがよぎっていく。父性的な一神教に対して汎神論的アニミズム的な宗教観をもってすれば、この地上に平和が訪れるとも思えないし、ドストエフスキーの地下室人に言わせれば、そんな平和や幸福などクソ食らえということにもなる。永劫回帰の詩人ニーチェは世界を丸ごと肯定し、大審問官の劇詩を書いたイヴァン・カラマーゾフは世界の不条理を前にして「事実にとどまるほかはない」と苦渋の表情で呟いた。『魔王の愛』を一年間かけて書き上げた作者の眼には、キノコ雲が立ち上がってくる世界終末の光景が視えているようだ。作者の空っぽの世界に立ち上がるキノコ雲の幻想光景と言ってもいい。

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