荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載14)

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荒岡保志の神田森莉論は前回をもって終了、本日から新たに伝説の漫画家・山田花子論を連載する。五年前に「D文学通信」に発表した評論の全面的改訂版である。荒岡保志のペンはますます絶好調。偏愛ぶりが存分に発揮されている。


偏愛的漫画家論(連載14)
山田花子
 「誰にも救えなかったオタンチンに再び愛を」 (その①)

荒岡 保志漫画評論家


山田花子」という、本当に孤独な魂の漫画家について、もう一度じっくり語りたいと思い立ち、ペンを執った。その救われない魂に、少しでも暖かい光を注ごうと、「D文学通信」2006年1104号に発表した「偏愛的漫画家論 山田花子論」から既に5年近い歳月が経つが、やや首を傾げ、照れくさそうに微笑む彼女の遺影は未だ色褪せることなく、その作品への思いは膨れ上がる一方である。


ここでそう思い立ったのは、山田花子が傾倒した漫画家「根本敬」が命名した「特殊漫画家」というカテゴリーの特集号を読んだことに他ならない。古書店でたまたま手に入ったその特集号は、もちろん青林堂の「ガロ」であるが、1992年10月号、奇しくも山田花子団地の屋上から飛び降り自殺をした年度のものであった。その特集記事の中に、「根本敬」が青森県の恐山に向かい、口寄せにより山田花子と対面するという企画があり、その記事を読み進めるうちに熱いものが込み上げ、ペンを執るに至ったということである。山田花子の孤独な魂を、今度こそは抱きしめようと思い立ったのだ。

山田花子、本名高市由美(タカイチユミ)、1967年6月10日千代田区内「三楽病院」で生まれる。
1970年、3歳で東京都世田谷区より多摩市に転居する。車のセールスマンであった父、小学校教師の母、1歳下の妹、祖母、叔母の6人家族であった。
1973年、多摩市立竜ヶ峰小学校に入学する。「水木しげる」、「楳図かずお」、「日野日出志」、「赤塚不二夫」、「ジョージ秋山」らを愛読する。
1979年、多摩市立田中中学校に入学する。中学2年生のときいじめに合い、自殺未遂、山田花子の人間不信はここから始まる。
1982年、私立立川女子高校に入学する。漫画家を目指し、講談社「なかよし」に投稿を始める。同年9月、「なかよし」ギャグ漫画大賞に佳作入賞、1983年、「なかよしDX」1月号にその入賞作「明るい仲間」が掲載される。同誌4月号、デビュー作となる「大山家の人々」を発表する。当時のペンネームは「裏町かもめ」、何と当時15歳という早熟さである。


ここで、学校生活には馴染めない山田花子は、立川女子高校を中退、通信制の高校NHK学園に編入する。この頃に「ガロ」を知り、「根本敬」、「蛭子能収」、「丸尾末広」、「花輪和一」などに傾倒し、同誌に投稿するようになる。特に、「根本敬」には多大な影響を受け、ファンレターのやり取りの中で、同誌編集長「長井勝一」を紹介して頂くも、「もっと絵を勉強しなさい」と言われ、なかなか掲載には至らなかったという経緯を持つ。

同年、「なかよしDX」5月号から「人間シンボーだ」の連載を開始、本格的に漫画家としてスタートを切ることになる。この頃の作品であるが、当時は一切単行本化されず、山田花子の死後、1996年7月に青林堂から限定1000部で発行された「魂のアソコ」にようやく収録される。それらは、もうすでに山田花子出世作である「神の悪フザケ」の世界観の片鱗が窺える作品である。

1984年2月号より、ペンネームを「山田ゆう子」に変更するが、同年6月号でいきなり連載を終了し、そのまま「なかよしDX」から遠ざかってしまう。単純に、読者に受け入れられなかったため、とも考えられるが、商業漫画誌に作品を発表し続けることへの抵抗からの行為と考えたほうが自然であろう。山田花子は、これも死後になる1998年10月に太田出版より発行された「自殺直前日記」の中でこう書いている、「私はメジャー誌の仕事ができない。編集者は、私の描きたいことを描かせてくれない」と。

1995年、猛勉強の末、大検を受検、これは一発で合格する。漫画家として生活をする自身を失い、雑誌の編集者を志そうと、デザインの専門学校の入学資格を得るためである。同年、「日本デザイン専門学校グラフィックデザイン科」に入学、「筋肉少女帯」、「あがた森魚」、「戸川純」、「根本敬」のライブに通うようになり、1987年、妹「真紀」とバンド「グラジオラス」を結成、ライブハウスに出演する。

同年8月、講談社ヤングマガジン」奨励賞に、応募作品「人でなし」が入賞、漫画家として、約3年間の沈黙を破るのであった。ここで初めて、ペンネームを「山田花子」とする。
10月には、出世作「神の悪フザケ」が同誌「ちばてつや賞」に佳作入選、翌1988年1月4日号より同タイトルの連載を開始することになる。漫画家として第二のスタートを切ることになったわけだ。デザイン専門学校の卒業を間近に控えたときのことである。

1988年1月4日号から翌1989年2月6日号まで「ヤングマガジン」に連載された「神の悪フザケ」は、「たまみ編」と「桃子編」の2部から構成される。

第1部の主人公「大槻たまみ」は、眼鏡、丸顔、おかっぱ頭のお世辞にも美人とは言えない、いつも背中を丸め、何事にもビクビク、オドオドする過敏な女子高生である。
描かれてはいないが、中学校時代のいじめの記憶からのものであろう、たまみは、そのまま山田花子の分身である。
たまみは、他人の誘いを断れない。自己中心で、抵抗できそうにない女子を自分の我侭にすることを夢見るちょい変質者「楳図」からデートに誘われても、学校の帰りにクラスメイトに行きたくもない喫茶店に誘われても、とにかくその申し出を断ることができない。
気が弱い、と言えばそれまでのことだが、掘り下げれば、他人を不愉快にさせたくない、他人に嫌われたくないという神経質な感情の現われである。
もちろん、自己主張などもっての他である。愛猫がクラスメイトにいじめられても、俯いて「エヘッ」と卑屈に笑むのが精一杯で、また、逃げた愛猫が近所の中学生に弄ばれていても取り戻せず、自分の椅子にクラスメイトが座り続けていても何も言えない。「たまみは友達に嫌われたくなかった」と、第4話に当たる「自滅一直線」で描いている。

もう一つ、ここで描かれているのは、男性感、恋愛感である。

キーとなる登場人物は、まず、どうやらたまみのボーイフレンドであったらしい「アキラ」で、彼にはあっさり振られてしまう。第6話「破滅に向かってレッゴー」でも、「アキラにふられて3ヶ月・・・」と描いているが、振られる、という表現は適切ではなく、二人に、もともとそこまでの交友関係が成立していたとは思えない。仲の良い幼馴染、というレベルだったのだろう。ただ、たまみがアキラのことは大好きだったことは間違いない。アキラもそのことには気がついていて、少しだけ気まずさと罪悪感は残るのだ。

そして、もう一人、このキャラクターは今後山田漫画のレギュラーになる、前述した自己中心の楳図である。たまみを無理やり映画に誘い、暗闇でたまみの胸を触ったり、スカートに手を入れてきたりする。楳図は、抵抗できそうにない女子のみを誘うのだ。嫌がるたまみに「ブスのくせに」と吐き捨て、今度は、同じクラスの「ヒヨ子」に乗り換える。
このヒヨ子というキャラクターは、たまみに輪をかけて無抵抗な女子で、家族が留守だから自分の家に行こうという楳図の誘いを断り切れず、見事に楳図に犯されてしまう。それから二人はつきあい始めるのであるが、当然ヒヨ子が楳図を好きなわけはなく、何度となく別れようとするのだが、強引な楳図に、逆に説得されてしまう日々であった。

たまみはというと、もう生きていくことを止めようと考える。第15話、第1部「たまみ編」の最終話に当たる「そして救いはなくなった」で、「生きていても苦しくてつらいことばっかり・・・」と、山田花子が今までに何度も思ったことが繰り返される。そして、近所のマンションの屋上に上るたまみは、「死ねばもうなにもしなくていいのね・・・」と飛び降りる腹を決めるが、ちょうどその矢先、雑踏と人だかりに気づき、マンションを下りると、そこで飛び降り自殺者の潰れた骸を見てしまう。「やっぱりこわい・・・」と、たまみは死ぬことさえ諦めるのであった。

山田花子の漫画は、良く「日記漫画」と呼ばれることがある。前述したが、たまみとして登場してはいるが、主人公は言うまでもなく山田花子ご自身の分身であり、言わば私漫画だからである。私は、もう一つ「観察漫画」と付け加えたい。山田花子の漫画は、見たものを細かいディティールまで直接的に表現するという特異なスタイルをとっている。顔の皺、鼻の穴、ニキビ、耳毛までしっかりと描かれ、それは幼児が描いた似顔絵のような純粋さを持つ。その構図、コマ割り、ネームはもちろん、細かく描き込まれた背景、登場人物の表情、コマ枠外の注釈など、徹底的なこだわりを持って描かれている。極力スクリーントーンに頼らない画方も、この「観察漫画」をよりリアルに仕上げるのに一役買っている。また、観察しているのは外見だけではないことは言うまでもないだろう。

第2部の「桃子編」の主人公は、やはり女子高生の「河合桃子」、16歳という設定だから高校一年生か二年生だろう。もちろん山田花子の分身で、その性格はたまみを引きずっている。ただ、第2部では、学園生活がかなり広がっている。言うなれば、女子高生の日常が今様であり、第1部にあった閉鎖感がない。クラスメイトは、当たり前のように居酒屋で集合し、飲み交わす。ファッションは派手になり、化粧をする。桃子でさえ、喫茶店でアルバイトを始める次第である。

そして、やや腑に落ちないが、第2部からその絵柄がガラリと変わっているのに気づく。細かく描き込まれた第1部に比べ、随分とスッキリ纏まっている。見方によれば窮屈にも思えたコマ割りも比較的大きく、見易く、枠外に細々と書かれた自虐的とも言えるコメントも姿を消す。きっちり描き込まれた背景も淡白になり、まるでゴムのように自己主張し続けた顔の表情も完全にデフォルメ化されている。

もちろん、どんな漫画家も絵柄は進歩する。表現方法も、どんどん上達をする。ただし、この「桃子編」はかなり気になる。第1部と第2部には大したインターバルもなく、絵柄の進歩、という理由は当て嵌まらないからだ。強いて言えば、ここで山田花子は、自分の絵柄を無理やり変えざるを得なかった、と考えるのが普通であろう。それは、「ヤングマガジン」というメジャー誌の暗黒の意思である。この「神の悪ふざけ」第2部の第1話「河合桃子16歳」で、山田花子は、ここは自分の居場所ではないことを悟ったはずである。

この当時の「ヤングマガジン」の担当者はまだ若い「Y氏」であった。Y氏も困惑していた。山田花子は、素直に言うことを聞いてくれない。「ヤングマガジン」という、メジャー出版社のメジャー雑誌は、やはり一つの意思を持つ。その意思通りの作品を掲載し続ける使命がY氏に与えられている。それが怪物の意思であったとしてもである。

山田花子は、打ち合わせ中、急に泣き出すこともあったという。そして、当たり前のようにその連載は終わるのだが、その後、Y氏は山田花子から数々の嫌がらせを受けるのだ。
山田花子は、「Y氏からセクハラを受けた」と編集部に抗議をする。Y氏にとっては全く身に覚えがないことである。また、山田花子は毎朝Y氏の自宅にいたずら電話をする。他愛のないこと、と言えばそれまでであるが。

ただし、これは、山田花子の復讐である。

Y氏ご本人には、もちろん身に覚えがないことであろう。
ヤングマガジン」は、山田花子を一旦は受け入れたのだ。その独特の世界観を評価し、連載までお願いすることに至ったのだ。それでも、Y氏は言うのだ、「この作品はダメだ」と。「こう描かなければダメだ」と。
人一倍不器用な山田花子にそんなことができるわけがない。Y氏は、山田花子のことが何も分かってなかったのだ、人一倍繊細な傷つき易い感情を持っていたことも。

分かり易く書こう。
ヤングマガジン」、否、彼は山田花子を見初めた。そして睦まじく交際は始まったのだ。ところが、交際して暫くすると彼は言うのだ、「僕はやっぱり巨乳が好きだ、その小さな胸を豊胸手術してほしい」と。
山田花子が信頼していた彼にである。これは裏切りであり、ある意味セクハラでもある。山田花子にとって、Y氏は楳図そのものであり、Y氏に対する復讐は正当性を持つのである。

ここで、もう一度山田花子の言葉を思い出して欲しい。
「私はメジャー誌の仕事ができない。編集者は私の描きたいことを描かせてくれない」
荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)、漫画評論家。1961年7月23日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ。獅子座、血液型O型。私立桐朋学園高等学校卒業、青山学院大学経済学部中退。
現在、千葉県我孫子市在住。執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。
漫画評論家デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 山田花子論」である。その後、「児嶋 都論」、「東陽片岡論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「ねこぢる論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。