岩崎純一「日本の男らしさ」に関する十三のエッセイ風諸論 ― 三島由紀夫生誕百年に寄せて 三島の超克と藤原定家への道 ―(連載2)

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「日本の男らしさ」に関する十三のエッセイ風諸論

― 三島由紀夫生誕百年に寄せて 三島の超克と藤原定家への道 ―

 

岩崎純一(岩崎純一学術研究所 所長、日本大学芸術学部 非常勤講師)

 

第二の性」としての男

 

 三島由紀夫は、一般女性向けエッセイとして『第一の性』を発表し、男とはいかなる生き物であるかについて、「男性研究講座」として十三の特徴を語っているが、女性から見た理想の男性像に迎合して書いたのでなく、「男はこういう生き物であるから、許容して欲しい」思いを込めて書かれている。但し、筆致はやはり(ふざけてはいないが)一般の若い女性に対して諧謔、笑いを敢えて誘ったところがあり、三島の本心通りに書かれたものであるかはかなり怪しい。

 尤も、『第一の性』とは、ボーヴォワールが女性を『第二の性』とし、「人は女に生まれない、女になるのだ」と述べたことを利用したものである。ところが、今やボーヴォワールや三島の時代から随分とサイエンスは発展し、遺伝学的には男こそ「第二の性」であることが判明してしまった。

 どういうことかと言えば、男の性染色体はXY(ヘテロ)、女の性染色体はXX(ホモ)、もうこの時点で、男とは「完全に対称な第一の性(シンメトリー)としての女が(または世界と女を創り出し眺める神が)、生物学的・遺伝的多様性を生み出すために、性染色体の一部をねじ曲げて(捻り潰して)生み出した別の性」であることが示唆されるのである。

 だが更に、ヒトその他の霊長類や哺乳類のオスを決めるのはY染色体でなく、そこに組み込まれたSRY遺伝子だと分かってきた。ところが更に、Y遺伝子やSRY遺伝子の有無に拘らずオスが生まれることがあって、性染色体がXYであってもSRY遺伝子が存在していてもメスになることがあることも判明している。、

 オス(男)を規定するものはY染色体でもSRY遺伝子でもなければ、それらの内外に存在している何かの遺伝子でも物質でもなく、我々が「男」だと思って「男」だと言っているに過ぎないもの、サイエンスが「男」なる遺伝的存在者を断定的に解き明かしてくれるだろうと我々が妄想しているその何かに過ぎないことが分かってきたのである。

 そもそも、人間の女において性染色体がホモであるということは、人間の女においては「常染色体」と「性染色体」を分けず、全てが「常染色体」または「性染色体」としてもよいわけである。これは「女こそ第一の性である」とする私の持論でもあるが、驚くべきことに、最近北海道大学の研究チームによって、XXから精巣分化を引き起こす遺伝子発現が確認され、常染色体が性染色体に分化することも確認された。

 このような具合に、染色体やDNAに「男」や「女」を決定する何らかのスイッチや情報が準備されていると考える発想が人間側の空想、机上の空論であることを、科学自身が自分の首を絞める形で暴露し始めている時代なのである。

 哲学・文学人間の空想の方が科学者の理知に先行して科学的に正しいことはよくあることだから、何も私が予言者であるわけではない。最新の研究に照らせば、Y染色体の中のSRY遺伝子の中の○○物質の中の○○分子の中の・・・と入れ子状に「男」を探し求めても、どこにも「男」はいないのではないかという私の直観が最先端のサイエンスだったのではないかという気がするのである。

 この点、ボーヴォワールや三島と、私の「男女の序列観」は全くの逆である。ボーヴォワールや三島は、良くも悪くも男が神やら仏やらが創成または達観した「第一の性」で、女は後発的に創られたものだと前提している。決して女が差別されてよいという意味では前提していないが、ともかく、我々人間に認知された「性」の順序として、女を二番手の性別であると推認している。

 但し、この傾向は今も根本的には継続していて、フェミニズムにおいても、天皇の男系男子継承論においても、男を「第一の性」、とにもかくにも女よりも優越・優遇・優先している(歴史上、過剰にそうしすぎていた)性と見る点で、少なくとも私には同じ思想に見える。或いは、現代を見なくとも、単に「家の中」や「家の奥にいる人間」を指す「家内」や「奥様」が「妻」に当てられた経緯からして、まずほとんどの文明人の自己または他己に最初に認識される、人間世界の主たる性は、確かに男なのであった。

 しかし、ボーヴォワールや三島の言う「男女の序列」を反転させて、谷崎潤一郎のように男は自分の眼を潰してでも女性の官能に触覚的に服従すべきだと、私はここで言いたいわけでもない。そうではなくて、女において全ての染色体がシンメトリーであって、常染色体からも性染色体からも我々が「男」と呼ぶ性が派生的に生まれる事実がかえってサイエンスから分かり始めたということは、「常」とか「性」とかいう分類が一種の共同幻想であって、「常なる性」、「性なる性」、つまり「人間の性」とはそもそも「女」のことであり、「男は女の変形」であることの甘受の態度が最上最高の「男らしさ」であり、その態度を持つ人間個体を「男」というのではないかとする考え方を、私の持論としたいのである。ニーチェの言う「世界の心臓」や「世界唯一の根拠」、「始原の子宮」に遠く憧れつつ、かつ実母の子宮に敬服すること、これが先に言ってしまう、私の思う至高の「男らしさ」である。従って、多くの男は元来実母「お袋」の袋に戻りたい一心で生きることが許されると共に、虐待を受けて育った男子はコウノトリから生まれたと捉えても全く矛盾なく許されるのである。それは、その虐待した親の方が男と女を理解しておらず、サイエンスから見ても男と女ではないからである。

 三島の男論がいかに格好良くとも、それはいかなるサイエンスが発展した時代にも普遍的に当てはまるものでなければ、真の男論とは言えない。特に、三島が陶酔してやまないアマテラス、ニニギ、神武天皇以来の天皇史よりも短い時代にしか三島の男論が成立しなければ、三島の男論は忽ち虚構になる。自決したある男が「1+1=3」などと、ちょっと世間から外れた捻くれたことを格好良く言って、偶然に女性の黄色い声を浴びたとしても、次の時代の天才数学者が「1+1=2」を発見したら、社会と女性は自決した男の格好良さを忘れ、家計・食費・光熱費の勘定が正しくできそうな数学者の男を社会人の模範に、一家の主に、選ぶのである。しかし、三島の男論がそうであっては勿体ないので、三島が男について一体何を言いたかったのか、勝手ながら推測しつつ、『第一の性』の十三条件をやや組み替えながらエッセイ風に「男らしさ」論を書くものである。