随想 空即空(連載209)

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随想 空即空(連載209)

清水正  

 

 犯行前日、ロジオンはラズミーヒンの所へ行こうとして思いとどまる。作者は次のように書いている。

 

 『ふん、いったいおれはラズーミヒンひとりだけの力で、万事を回復しようとしたのか、いっさいの解決をラズーミヒンに求めていたのか!』と彼は驚いて自問した。

  彼は考え込んで、額をこすった。するとふしぎにも、長い沈思の後に、偶然、思いがけなく、ほとんどひとりでに、一つの奇怪千万な想念が頭に浮かんだ。

 『ふむ……ラズーミヒンのとこへ……』と彼はふいに、最後の断案といったような調子で、すっかり落ちつきはらった調子でいった。『ラズーミヒンのとこへ行こう、それはむろんだ……しかし――今じゃない……やつの所へは……あれをすました翌日行こう、あれが片づいてしまったとき、何もかも新規まき直しになったとき……』

  と、ふいにはっとわれにかえった。

 『あれの後で!』ベンチからはねあがりながら、彼は叫んだ。『しかし、ほんとうにあれをやるのだろうか? じっさいあれができるのだろうか?』

  彼はベンチを捨てて歩きだした。ほとんど駆けだした。彼はもと来たほうへ引っ返そうとしたが、家へ帰るのが急にたまらなくいやになってきた――あの片すみで、あの恐ろしい押入れみたいな小部屋の中で、もう一か月以上もあれが成熟していったのだ。彼は足の向くままに歩きだした。(60)

 

  〈痩せ馬殺しの夢〉の後、作者は次のように書いている。

 

  彼は全身うち砕かれたような気がした。心のなかは混沌として暗黒だった。彼はひざの上へひじをついて、両手に頭をのせた。

 「ああ」と彼は叫んだ。「いったい、いったいおれはほんとうにおのをふるって、人の脳天をたたき割るつもりなんだろうか、あれの頭蓋骨を粉々にするつもりなんだろうか……ねばねばする暖い血の中をすべりながら、錠前をこわして、盗みをするんだろうか? そしてぶるぶるふるえながら、全身血まみれのからだをかくすんだろうか……おのを持って……ああ、ほんとうにそんなことをするんだろうか!」

  彼はそうつぶやきながら、木の葉のように身をふるわした。

 「いったいおれはまあどうしたというんだろう!」と彼はまた身を起こしながら、深い驚愕に襲われたもののように、ことばをつづけた。「あれがおれに持ちきれないのは、ちゃんとわかっていたじゃないか。それだのに、いったいなんのためにおれは今まで、自分を苦しめていたんだろう! げんについ昨日も、昨日も、あの……瀬踏みに出かけたとき、とても持ちきれないということを、はっきりと合点したんじゃないか――それだのに、おれは今なにをしてるんだ! なにを今まで疑ってたんだ! げんにきのう階段をおりながら、おれは自分にそういったじゃないか――これは卑劣なことだ、いまわしいことだ、卑しいことだ、といったじゃないか……ただそのことを正気で考えただけでも、おれは胸がわるくなり、ぞっとするのじゃないか……」

 「いや、おれには持ちきれない、とても持ちきれない! たとい、よしたとい、この計算になんの疑惑がないとしても――この一か月間に決めたいっさいのことが、日のように明瞭であり、算術のように正確だとしても、ああ! しょせんおれは決行できやしない! おれには持ちきれない、とうてい持ちきれない……それだのになんだって、いったいなんだって今まで……」(67)

 

  やがて彼はT橋のほうへ歩きだした。その顔は青ざめ、両眼は燃え、四肢はぐったりしていた。けれど、急に呼吸が楽になったような気がした。これまであの長い間、自分を圧していた恐ろしい重荷を、もうさっぱり捨ててしまったように感じて、心は急にかるがると穏やかになった。『神さま!』と彼は祈った。『どうかわたくしに自分の行く道を示してください。わたくしはこののろわしい……妄想を振りすててしまいます!』(68)

  橋を渡りながら、彼は静かに落ちついた気もちでネヴァ河をながめ、あざやかな赤い太陽の沈み行くさまをながめた。からだが衰弱しているにもかかわらず、なんの披露も感じなかった。それは心臓の中で一か月も化膿していた腫物が、急につぶれたような思いだった。自由、自由! いまこそ彼はああした魅しから、魔法から、妖力から、悪魔の誘惑から解放されたのである。(68)

 

 改めて引用してみると、まさに作者ドストエフスキーが〈神=悪魔〉に乗り移っているような感がある。

 ロジオンの理性は〈アレ〉(老婆殺害)が〈幻想〉であり、実現不可能な〈妄想〉でしかないことを明確に告げている。ロジオンは〈おれには持ちきれない〉こと、すなわち〈アレ〉を実行して平然としていられるような〈能力〉が備わっていないことを認識している。そして作者は決定的な言葉を記す「橋を渡りながら、彼は静かに落ちついた気もちでネヴァ河をながめ、あざやかな赤い太陽の沈み行くさまをながめた。からだが衰弱しているにもかかわらず、なんの披露も感じなかった。それは心臓の中で一か月も化膿していた腫物が、急につぶれたような思いだった。自由、自由! いまこそ彼はああした魅しから、魔法から、妖力から、悪魔の誘惑から解放されたのである」(68)と。もしこのことが確定されていれば『罪と罰』というドラマはここで幕を下ろさざるを得なかっただろう。が、周知の通り、『罪と罰』は続行する。ここで一度は、〈悪魔の誘惑〉から解放されたはずのロジオンは、にもかかわらず、〈アレ〉へと向かう〈偶然〉の飛び石を一つ一つ踏んでいかなければならない。作者はロジオンの不可避の運命を描き出す。作者はロジオンを誘惑していた〈悪魔〉が、同時に〈神〉でもあることを知っている。作者は〈悪魔=神〉が作り上げたロジオンの〈運命の予定表〉を忠実になぞっていく。ドストエフスキーの才能が〈残酷な才能〉と見なされる所以である。

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