小川真実 だからヒゲは憎めない

ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

 

だからヒゲは憎めない
小川真実

 

 ヒゲの清水先生(以下、敬意をもってヒゲ)には、よく怒 られたものだ。
 
あの頃私には、パンクのミキちゃんとオカマのまっちゃん という、天才的にイカれた友人がいた。
 
ヒゲの授業はいつも出席を取るから出なきゃいけなくて、 出たら出たで「お前たちは前の席に座れ!」と怒られるか ら、本当に生きた心地がしなかった。  ドストエフスキー ??  罪と罰? 重苦しいテーマのその本 を買ったものの全く読むことができなくて、感想を書くため にビデオを借りてみたけれど、みんなで見ながらヒゲをネタ にした飲み会になってしまい、結局のところ最後まで内容が 分からなかった私たち。どうしたってヒゲとは相容れないか ら、お近付きになるはずがなかったのだ。

でも人間、なんだか分からない奇妙な縁に運命を感じてし まうもの。
 
思えば二十年前、入試の面接も私の担当はヒゲだった。短 歌を作るのが好きだと言ったら、じゃあここに書いてみろ と、突然白い紙と鉛筆を渡された。オロオロしながら考えて 書く私の顔を、グレーのアゴヒゲを触りながら見ていたヒゲ の姿は、今も鮮明に覚えている。偉そうなオジさんだなぁ ~、こういう人がニチゲーってところの教授なのか…と思っ たけれど、ヒゲがノーと言ったら私は合格しなかったわけ で、まぁ恩人ではあると感謝している。
 
さておき。
 
ある日のこと。
ヒゲは突然授業中に、ダァリヤダァリヤと唱え出して、
「まなづるとダァリヤ」のプリントをみんなに配った。そし て「今から誰か、この童話を実演しろ」と言い出した。
 
今はなき歌舞伎舞踊研究会に属していた私とまっちゃんは 格好の餌食となり、「お前たち前に出てやれ!」と無茶振り をされてしまった。
 
元来、上下関係が絶対な世界で生きてきた私たちに断ると いう選択肢などない。
 
自称美少年オカマのまっちゃんと、金髪に象牙のピアスで 顔色の悪いパンクファッションのミキちゃんと、厚化粧の半 ホステス系の私は、黒板の前に立たされた。
 
私はいつも、赤のダァリヤだった。 「あたしもう、本当にイライラしてしまうわ」
 
私のセリフに、ヒゲは、「ダメだ、もっともっと、全身が よだつくらいに感情を入れろ!   恥ずかしがるな、ダァリヤ になりきれ!」と、映画監督のようなことを言い出す始末。
 
私たちがやればやるほど、ヒゲはヒートアップし、もう手 に負えない…。 「まなづるさん。あたし、ずいぶんきれいでしょう?」
 
身体をクネクネさせ、身体の奥底から気味の悪い声を出す と、ヒゲは喜んでニコニコした。
 
他の受講生は、みんな座ってただ見ている。なんの授業な のかさっぱり分からない。
 
それも一度では終わらず、毎週同じ授業が繰り広げられる
ではないか!
 
つぎの授業では、青木さんっていったかな? 当時助手か副手かをされていたベートーベンみたいな男性 が、ビデオカメラを構えて後ろに立った。こんなの撮影して どうする?   これがニチゲーってやつなのか ??   でも、素直な私たちは、毎週、何度でも、ヒゲが飽きるま で全力で演じ続けた。
 
そして卒業後、ヒゲの研究室に遊びに行ったら、それがD VDになったものを嬉しそうに見せられた。
 
あの頃、フロッピーディスクや原稿用紙を配るのが仕事 だったお姉さん。いつもニコニコしていて、私がヒゲのこと をヒゲと呼ぶと大笑いしていたあのお姉さんが、今や教授 だって ?? これも、きっとヒゲのおかげだ。ヒゲよ、ありが とう。
 
そうそう、あれは江古田のかぐらだったかな?
 
ヒゲに誘われ、お姉さんと、まっちゃんと、ミキちゃん と、私で飲みに行った時のこと。
 
酔っ払ったヒゲに、私たち三人はすごい勢いで叱られた。 「まっちゃん、お前には未来しかないのか?   今を生きろ、 過去に目を向けろ!」 「だって、先生、あたしオカマよ。過去と鏡は捨てました」 「お前には過去が大事なんだよ!   まっちゃん。わかる
か?」
 
まっちゃんへのお説教を、ヘラヘラしながら聞く私とミキ ちゃん。
 
が、その後、ミキちゃんが犠牲になる。 「ミキちゃん、お前には過去しかないだろう!

どうして、 現在から目を背けて、私には未来なんかないって顔をしてる んだ!   過去にすがるな!」   あははと聞いていた私。   うん、私は就職も決まったし、卒業してまっとうに生きる だけ!   と、のほほんと傍観していたのだけれど。やっぱり きた…。 「マミ!」
 
ビクッ…。 「お前には、今しかないのか? 今しか見てない。過去も未 来も捨てている。ただ、今をくるくる回ってる。お前はコマ か ⁉︎」
 
…よくもまぁ、こうペラペラと上手いこと言うなぁと、感 心してしまう。
 
そして言ったんだ。 「お前たちほど、ニチゲーらしい変態はいないんだ。文学 をやれ!   文学だ!   ドストエフスキーだ!   文学だ!」   本当にそう思っていたのか、口から出まかせだったのかは 分からない。
 
だけど、あの時のヒゲの言葉がずっと私の心に残っている のは事実。
 
就職、結婚、出産、子育て、そしてワーキングマザー。 日々の時間の逆算と、目の前の課題をこなすのに精一杯の、 しみったれた幸せな生活の中で、気付けば卒業して十五年が 経っていた。ドストエフスキーとヒゲの見分けがつかなく なってしまうくらい、いろんなことが過去になっていたある 日。
   
久しぶりに、何か書いてみようかな。
 
ふと思い出したように、湧き上がった懐かしい感覚。
 
その、ふわっとした使命感に突き動かされ、今年から、も う一度文学をやることになった。
 
文学をやれ!  
文学だ!  
ドストエフスキーだ!  
文学だ!
 
あの日のヒゲの言葉が蘇る。  ドストエフスキーは分からないけど、文学はやるよ。これ から、もう一度。
 
すべては、ヒゲのおかげでヒゲのせい。
 
きっとヒゲのことだから、憎まれ口を叩いて、喜んでくれ るはず。
 
ドストエフスキーみたいなヒゲを触りながら、あの細い目を、もっともっと細くして。
だから、やっぱりヒゲは、憎めない。
ミキちゃんとまっちゃんの分も私から。ヒゲの清水先生、 これからもありがとう。
(おがわ・まみ 小説家)

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