D文学研究会第一回講演に参加して

 D文学研究会第一回講演に参加して


小山雄也
  

 
2014年7月26日土曜日。高気圧に覆われた日本列島は各地で猛暑となり、気象庁は41の都道府県に高温注意報を出して熱中症への注意を呼びかけていた。水分補給が必須となったこの日、私は日本大学芸術学部江古田校舎にて開催されたD文学研究会主催・第1回清水正講演会「『ドラえもん』から『オイディプス王』へ――ドストエフスキー文学と関連付けて――」に参加した。
 講演者の清水先生は開始時刻の午後3時から午後6時までの3時間、途中休憩を挟んだり椅子に座ったりすることはなく、最後まで立ったままの状態で私を含む聴講者全員に向けて話し続けていた。講演会に参加した者でなければ体験することが出来ない衝撃だった。
 私は清水先生の大学院の講義を受けているとき、いつも首の後ろが段々と熱を帯びてくる。不思議なことにその熱は頭の頂点を目指しているのか、じわりじわりと後頭部に侵入してくるのだった。清水先生の言葉を一言も聞き逃さぬように首の後ろに熱を持って集中して耳を済ませるが、いざ、清水先生から確認の質問をされると瞬時に回答することが出来なかった。私は清水先生から御指摘を受けた。私はただ講義を聞いているだけで、講義の内容をまだ自分のモノにしていなかった。
 今回の講演会において、清水先生は『ドラえもん』コミックス第1巻第1話「未来の国からはるばると」の1ページ、正月にのび太が呑気に御餅を食べている場面を単行本やテキストを何も見ずに黒板へ描き写し、さらに、のび太が置かれている状態を解説した。参加者の中には初めて清水先生の『ドラえもん』の1コマ解説を聞いて「のび太は死んでいるがすぐに復活する」等、日頃から私たち読者は漫画を作者の意図等を深く考えることなく、さらりと読み流していたことに衝撃を受けた方がいらっしゃったに違いない。私は2014年6月4日水曜日、所沢の日本大学総合学術情報センターにて行われた「ドラえもんを読み解く」というテーマの講義にも参加していた。その他にも学部生の頃に清水先生の講義にて『ドラえもん』の1コマ解説を聞いていた。私は講義で何度も清水先生の解説を聞いているはずなのに、『ドラえもん』冒頭の1ページを書いてみようと試みるが、必ず何か1つを見落とすのだった。一体なぜだろう。答えは簡単だった。『ドラえもん』をまだ自分のモノにしていないからだ。私は『ドラえもん』に限らず、ソポクレスの『オイディプス王』、ドストエフスキーの『白痴』『分身』『罪と罰』も同様でこれらの作品をまだ自分のモノにしていなかった。講演会にて清水先生が黒板に描く『ドラえもん』の1コマを、私は心の中で自己採点をしてみたが、やはり見落としが1つあった。また、『オイディプス王』の解説では后イオカステの弟クレオンの名前が咄嗟に思い出すことが出来なかった。反省しなければならない。
 講演会の間、私の首の後ろは熱を帯びていた。その熱はいつもよりも早く後頭部に侵入してくると、驚くことに熱だけではなく今度は痛覚が現れたのだった。私は後頭部を何者かの手によって鷲掴みにされているような違和感を覚えた。清水先生の講義は様々な点を追いかけるようだと私は思う。どの点も1つひとつ、色や形は様々で今の私では繋げることは出来ない。しかし、清水先生はどの点も逃すこと無く、点と点を繋げて1つの線へと姿を変えることが出来る。私が熱にうなされるのは必死に点を追いかけているからだろう。『ドラえもん』『オイディプス王』『罪と罰』これらの作品は清水先生の講義を受けなければ自ら進んで読むことは決してなかったはずだ。また、関連性の無い個々の本だと私は生涯思っていたに違いない。どれか1つの作品で良い。私は自分のモノにすることを諦めたくはない。たとえ熱にうなされたとしても、考えることを止めたくない。何をするにも時間はかかるものだ。しかし、一歩踏み出さなければ足踏みのままである。正直に言うと、大学院生になった今でも清水先生の講義内容は難解だ。要点を1つひとつ飲み込むのに時間がかかる。私は両頬を叩いて、目を見開き、発せられた先生の言葉を瞬時に掴み取らなければならない。講演会の参加を機に、自身の糧にするためにも清水先生の講義を受ける姿勢を改めようと思う。