D文学研究会第一回講演に参加して

 D文学研究会第一回講演に参加して

生貝恵美 文芸学科三年  

  神に宣戦布告

 運命は決定されているのか、それとも変えることができるのか。この問題についてはよく議論されるし、日頃から私もよく考える。
 

 私は中学高校の六年間、田舎のミッションスクールに通っていた。「祈りの時間」というのは、とても身近にあって、朝のお祈り、授業前のお祈り、主の祈り、聖母マリアの祈り、ミサでのお祈り……。信者でもないのに祈ってばかりで、何をそこまで祈る必要があるのだろう、と、ろくに祈りもしないで、反抗ばかりしていた時期もあった。しかし、六年間も同じことを毎日続けていると、それが習慣になり、その時間が自分と向き合う貴重な時間になり、誰にも言わなかったが、祈る時間が好きになっていた。

 何かに迷った時、苦しい時、自分を見失った時などあらゆる場面で祈った。「感謝をする」というのも私はれっきとした祈るという行動だと思っているから、嬉しいことがあった時や幸せを感じた時もたくさん祈った。
 別に私は何かの宗教に信仰しているわけではないが、神様を信じている。この「神様に祈る」という行為は、決して自分の運命を変えたいと思っているからではない。「見られている」という意識によって自分を正すことができる、とても人間らしい行いの一つなのだと思う。


 今回、この記念すべきD文学研究会の第一回講演に参加し、「清水論」を聴いていると、このような考えを持っている私にとっては、とてもすんなり入ってきて、とても楽しい時間だった。
 「ドラえもん」という青い物体は、のび太が何かに「見られている」、という行為を具現化したもので、それは、のび太自身の分身であり、神であるのだ。
 これについて、「ドラえもん」という、今や世界的に愛されている漫画の第一巻の第一話から導き出した清水正という人間が、これほど身近にいたなんて、私の運命も捨てたものじゃないと、驚きと喜びの気持ちで心が弾んだ。

 小説を読んだりドラマや映画を観ていて、結果がどうなるのか分からないというところに面白さを求めるのも楽しいが、それよりも、結果は明らかに分かるのだけど、どういう経緯があってこの人たちは結ばれたのだろう、どうしてこの人はこのような罪を犯したのだろう、などと考えさせられる物語の方が私は好きだ。登場人物のあらゆる行動や考えに共感したり、信じられないと思ったり、その運命になる道のりを一緒になって追って行くことがたまらなく好きだ。


 「結果ではなく、プロセスに意識を集中させることが大切」
 これは、かの有名な野球のイチロー選手や、私の運命の恩師とも言える人に教えて頂いたことなのだが、これも運命という言葉にお置き換えて考えることができる。

 運命は決まっているけど、そこに辿り着く道のりはどのようにでも変えることができる。その道のりを楽しむことができれば、例えどんな運命が待っていようと、その運命を受け入れることができる。

 私がミッションスクールに入ったことも、日芸に入ったことも、清水先生や今私に関わる全ての人に出会ったことも、この講演会を聴かせて頂けたことも、今私がこの文章を書いていることも、全て運命という名の必然であると、自分自身断言できる。

 私という人間はこの先どうなっていくのだろう。先が見えないというのは、怖くて怖くて、「神様、私は何をしたらいいの?」「私の運命教えてよ!」と叫びたくなることもよくある。しかし、運命を知ることができないという、これもまた運命。目の前に起きた出来事を一つ一つ夢中になって乗り越えて行き、自分の可能性を信じる。そして、何事にも感謝する気持ちを忘れなければ、同じ運命でも重みの違う、壮大な物語になることを確信した。

「神様、見てなさいよ!」と、神に宣戦布告をした講演会であった。