清水正教授の実存、常識、公正、重層

清水正教授の実存、常識、公正、重層。

尾崎克之


 平成26年7月26日に日本大学芸術学部江古田校舎で開催されたD文学研究会主催・第1回清水正講演会「『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻刊行を記念して〜『ドラえもん』から『オイディプス王』へ─ドストエフスキー文学と関連付けて─」を拝聴した。日大の学生でもなく、D文学研究会に参加申し上げてもおらないけれども、「『ガロ』という時代」(青林堂)という書籍のご縁から、聴講を許された。
 記念すべき清水教授の第1回講演の聴講許可をいただいたことにまず御礼を申し上げる。三時間の講演は初体験でおられたそうだが、飽きさせることの一点もないうねりのある三時間を堪能申し上げた。「ドラえもん」の画コマ、「オイディプス王」における秘匿、パゾリーニ作品「アポロンの地獄」における愛撫の方法をはじめ、清水教授が仕掛ける論説術にもまんまと引っかかり、痛快を感じるとともに大いに反省をした。
 講演の中で清水教授は「西洋においては絶対神に合い向かう私というものがあり、その私というものが中心となって他者との関係がある、しかし日本はそうではない」という趣旨の言説をされた。本講演の主筋とは離れるものかもしれないが、ここに清水教授の言論の魅力のひとつがあると思い、僭越ながら申し上げたいと思う。
 私と他者ということを考えるということは、言い方を変えれば世界観を整えるということであり、存在論を整理する、ということになろうかと思う。ここにひとつ考えてもよかろう点としてあるのは、「キリスト教文化圏人が携えてきた世界観・存在論と日本人が携えてきた世界観・存在論は違うのではないか。優劣をいうのではないけれども、明治維新以降に輸入された西洋存在論は実は日本人には必要のないものではなかったか」ということで、清水教授の今までの、また今後の言説はこのことを考えるのに大いに参考になる気がするのである。
 神話はその民族の世界観をあらかた説明する。だとすれば、古事記における日本の神々のありかたは、古事記成立以前から、音声言語のみで神話を伝達してきた数万年来、日本人が携えてきた世界観に他ならない。古事記の中で、神々は占いをする。イザナミイザナキがヒルコしか生まれないのに悩んで相談したアマツミカミは占いをして、「回り方が悪かったのだ」と言う。また、アマテラスは「スサノオがやってくるがどうしたらよいか」ということについても占いをする。占いをする、ということは、自分の上位に、それが何かはわからないけれどもとにかく何か従うべき存在があるとしている、ということである。上位に綿々と何かがあり、自分らはそれに従う状態にある、と、日本では神々が、あるいは神々であってさえそう思っているということだ。
 存在とは関係であるという考え方を手に入れるのに西洋がほぼ20世紀まで待たなければならなかったとすれば、日本ははなからその考え方しか持っておらず、西洋でいう解決すべき問題などまるで持っていなかったということになる。徳川時代の、伊藤仁斎、三浦梅園など、いわゆる今でいう哲学者と呼ばれる町学者たちは、これはおそらく大陸儒学の考え方への反発ではあったにしろ、存在は有無ではない、関係であり場だ、ということを共通して言うようだ。
 そして清水教授の言説は、伝統と申し上げた方がさらに正しいだろうと思うが、この日本人古来の存在論に根ざしておられるという気がしてならない。従って教授は、「実存」的でなく、「常識」から外れ、「公正」でなく、「重層」的でない考え方を強く批判される。


尾崎克之 おざきかつゆきWEB制作会社「インターソース」代表。1959年生まれ。
最近の執筆図書に「江戸の風物詩」「日本昔話を旅する」(洋泉社ムック)、「天皇125代」「徳川家のすべて」(別冊宝島)。平成24年第八回銀華文学賞歴史小説賞奨励賞受賞。