吉本ばななの文芸学科卒業制作・論文を読んで

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吉本ばななの卒業制作・論文を読んで
ーー東北関東大震災に直面してーー
清水正
 
 東北関東地方を突然襲った大地震とそれに続く巨大津波によって沿岸部の村や町は途方もない被害を被った。一瞬にして家、車、船が飲み込まれ、何万人もの被災者が出た。家族や友人を喪った人たちが、それでも悲しみを押さえ込んで必死に生きようとしている。

 今、地震津波によって福島原発は危機的状態にある。放射能被爆する不安と恐怖を感じながら、危険圏外へ脱出できない者も数多い。絶望と諦め、焦燥とストレスが蔓延してもおかしくない状況下にあって、日本列島に暮らしを定めた者たちの生きようとする強い意志を感じる。


 この小説の主人公さつきは、恋人の死を通して初めて、日常の平和がどんなにもろいもので、孤独や死や狂気がいつでも隣りにあったということを知り、ショックを受ける。

 本当の所、彼女は1日中ベットにもぐっていたいような心境であり、押されれば倒れてしまいそうに心細い。暗い思いが押してきて、息をするのがやっとというような、力のない状態である。しかし、彼女の中にはたったひとつゆずれないものがあり、本人もそれが何なのかわからないけれど、そのラインだけは守りたいと考える。そして毎朝走ったり、食べることや人に会うという日常的なことを大切にして、それにすがりながら、細々とチャンスを待つ。そして、直接的にではなくても、そのことによって救済される。

 ここに引用したのは吉本真秀子が昭和61年度文芸学科卒業制作「ムーンライト・シャドウ」に付した副論文の文章である。わたしは三月末までに、鼎書房の依頼によって吉本ばななの「虹」について書くため、二十四年も前に優秀論文審査のために読んだ彼女の卒業制作・論文を再読することにした。わたしは依頼された原稿にも書いたが、真秀子の小説に漂う透明感を改めて確認した。この透明感は生の世界に死の永遠の時をなだれ込ませたような感じで、「虹」の舞台となった世界(タヒチ)にも感じる。死をはらんだ生の世界は白、青、光に満ちていて、ゾッとするような静けさをたたえている。

  私は、人間がとてもデリケートであると同時に、タフなものであることを肯定的に言いたかった。

 この言葉に端的に表現されているように、「ムーンライトシャドウ」の主人公さつきは自らの生に対して前向きであり、タフであり、決して絶望の淵に落ち込むことはない。が、さつきが愛するかけがえのない恋人・等の喪失に立ち会った主人公であることは忘れてはならない。さつきという名前は死をはらんだ、復活蘇生を体現するものとしての〈五月〉である。

 デリケートであると同時にタフであるさつきの傍らに謎の女うららがとつぜん現れ、さつきの生を支える。うららに関して真秀子は次のように書いている。

  うららは、例えば柊がさつきの哀しみを等倍した人物だとしたなら、ちょうどそれを普遍化した人物である。強さということをつきつめていった人物である。彼女は「死なずに生き続けてゆく、時空を超えたエネルギー体」として設定した。愛や結婚や仕事、家、子供を産み育てるなどの、人が孤独を忘れることのできるすべての行事を取り去ったとしたなら、その人はどうやって生きてゆくのか。死がないのなら、何を前提に生きるのか。それは人間の永遠の憧れであると同時に、最も深い絶望である。うららにとって、人生は単に遠大なヒマつぶしである。ただ、興味の方向へと流れてゆき、留まり、また流れてゆく。それでも彼女はさつきに対して親切である。うららは、私にとって親切の概念そのものである。 

 わたしはこういった文章を読むと、うららの存在を『罪と罰』のポルフィーリイ予審判事に重ねてしまう。二人の女を殺害したロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフに向かって、あなたは太陽だとか、ためらわずに命(жизнь=イエスの言う命)へ飛び込みなさいとか言うポルフィーリイは、ロジオンに「いったいあなたは何者なんだ」と問われて、「私はまったくおしまいになってしまった人間です」などと答えているが、しかし彼が彼流のやり方でロジオンを救済しようとしていることは確かである。真秀子の言葉で言えばポルフィーリイはうららと同じように〈死なずに生き続けてゆく、時空を超えたエネルギー体〉であり〈親切の概念そのもの〉なのである。ポルフィーリイを辛辣で鋭利な分析力と直感力を備えた予審判事としてのみ見ていたのでは、彼の『罪と罰』における本来的で神秘的なその役割を認識することはできない。
 真秀子はうららに関してさらに次のように書いている。

 さつきの、本人にもわからない領域にうららは救いを与える。自分の人生に対する諦念や、つみ重ねた様々な体験をどう使えば他人が助かるのかを、他人ができる範囲で知りつくした存在として、自信と理性から来る思いやりをもって、うららはさつきに接する。他人から受け取るものに深い期待をよせることができない分、彼女にとってさつきは、ほんの通りすがりである。そのことを、いやというほど知りつくしていても、うららはさつきに対して親切であるのが自然であり、とめることはできない。あまりにたくさんの時間を持ち、あまりに深い絶望を知っていても、多分その分だけ、人はそうせずにはいられないのではないかと、想像したかった。

 うららは、ポルフィーリイと同時にわたしの内にソーニャを思い出させた。ソーニャはロジオンに大地への接吻、公衆の面前での罪の告白を命じたユロージヴァヤ(宗教奇人=聖痴愚)であり、ロジオンを復活の曙光へと導いたヴィデーニィエ(実体感のある幻)であった。わたしの内でソーニャは、一娼婦に化身して現れた〈キリスト〉でもあるが、まさに〈死なずに生き続けてゆく、時空を超えたエネルギー体〉としてのうららもまた〈ソーニャ=キリスト〉的存在の様相をまとっている。

 真秀子がここで言う、うららのさつきに対する〈親切〉が実に深い思いの果てに出てきているかに注意したい。二十歳を過ぎたぱかりの学生の文章とは思えないほどである。真秀子が想像したうららの〈親切〉こそは、ポルフィーリイのロジオンに対する〈助言〉やソーニャの〈指示〉に通じるものがある。〈人はそうせずにはいられない〉という言葉に、真秀子の前向きな、肯定的な、遠方に虹を見る希望の眼差しを見る。

 真秀子はさらにな書いている。

 さつきは、うららが本当はどういう人で、どこから来て、どこまで行くのかを全く知らないままだが、彼女のまなざしや言葉の端々からその孤独な深さを感じとる。うららはいつも楽しそうに生きているが、その裏にあるものを、さつきは見えるようになったばかりである。恋人を亡くした視点から見た世界に、うららはよく似ていて、その孤独が共鳴するので、さつきはひどく彼女に魅かれてゆく。それ自体が、さつきの生に対する貪欲な本能であり、死におかされた心の中に射しこむかすかな光に食いさがってゆく執念である。そして、うららはそれを知ると、できるかぎりの手助けをいとわない。そして、少女だったさつきはほんの少しだけ成長する。

 うららはさつきの中に潜む生に対する貪欲な本能を直観し、彼女を援助する。さつきの「死におかされた心の中に射しこむかすかな光に食いさがってゆく執念」こそが、さつきの新たな生を準備する。わたしは地震津波原発事故の三重の災難に遭遇して、なお生き残った人々が、諦めと絶望の淵に落ちず、逞しく生きようとしている姿を見ながら、吉本真秀子が卒論に記したこの言葉を反芻している。

 わたしが依頼された「虹」には次のような文章がある。

  潮の匂いのする風がこの小島に吹き始めると、夜は力を増して全てを飲み込み始める。怖くて甘くて、たちうちできない、死に似た深みが海のほうからやってきて沈黙と共に世界を満たし始める。

 「虹」の舞台は地上の楽園とも言われ、ゴーギャンがこよなく愛した南洋の島タヒチであるが、日本列島を震撼させた巨大地震、大津波、それに続く原発事故の危機的な状況下でこの文章を読むと背筋がゾッとする。

 吉本ばななの小説は単にありふれた日常に材を採った表層世界の日常を描いているだけではない。彼女の描く日常の世界には〈死〉という永遠の時間が覆い被さっている。もしこの光景を映像化するのであれば、東北関東沿岸部を襲ったあの巨大な黒い悪魔のような津波をも瞬時に追って、光の波が世界全体を覆い尽くすことになろう。吉本ばななの白、青、光に満ちた小説世界は永遠の時、死の時を内包した生の世界である。

 今、日本列島においては〈死〉が剥き出しのかたちでその冷酷な姿を突きつけている。この、突然襲撃してきた不気味なものは、生き残ったものたちに世界の不条理を見せつけているが、この人間にとっては不条理なことも、大いなる自然の運行の次元ではあるようにある、なるようになる摂理以外のなにものでもない。わたしは被災地を映し
だすテレビ画面を見ながら、「不条理に悲憤をもって乾杯」とつぶやいた。

 吉本ばななの作者の眼差しは高みにたつことはない。現実世界のありふれた日常を生きるふつうの人間の喜怒哀楽に限りなく寄り添っている。「ムーンライトシャドウ」の〈時空を超えたエネルギー体〉である〈うらら〉ですら高い所から垂直的に舞い降りてくるのではない。うららは、さつきの傍らに現れる。うららは、さつきの孤独と哀しみに限りなく寄り添う者として姿を現し、自らの超越性を誇示しない。主人公は幻想やファンタジーの世界へ逃げ込むことはなく、あくまでも地上の世界に足をしっかりと据え置いた上で、彼方に浮かぶ希望の〈虹〉へと眼差しを送る。〈死〉をはらんだ〈生〉の眼差しは決して生きることを諦めない。吉本ばななの作品において希望の〈虹〉が消えることはない。
2011年3月20日〜21日