荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載42)

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荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載42)

山野一
「消えた天才漫画家の復活を再び祈る」(その⑥)
●悔い改めるな!山野漫画のハレハレ哲学(その⑤)


山野一には、インドの宗教、哲学に傾倒する時期がある。その世界観に相当感銘を受け、妻の「ねこぢる」も同行し、何度かインド、ネパールまで足を運んでいる。また、ねこぢるの死後にも、義弟の「ただれ彦」、ねこぢる実弟と共にインドへ飛んでいるのだ。
その模様は、1998年2月にぶんか社より発行されたねこぢるの「ぢるぢる旅行記」、また、山野一が「ねこぢるy」のペンネームで2003年7月に文春ネスコより発行された「インドぢる」に綴ってあるので、興味のある方はご一読をお薦めする。中々読み応えのある旅行記で、緩やかに時間が流れるインドに、二人が傾倒して行くのが良く分かる秀作である。

この「貧困魔境伝ヒヤパカ」以降の作品では、インド宗教、哲学をテーマにしたものが続々と登場するが、山野一が初めてそこに拘って描いた作品は、同漫画短編集に収録された「荒野のガイガー探知機」であろう。「サイケでハレハレ劇場」の一話として発表されたものである。

舞台は近未来、核戦争で人類は絶滅しているが、一人だけ生き残った人間がいる。強姦、強盗、殺人と悪の限りを尽くした極悪人である。
街は全てが廃墟と化し、不気味な生き物が蠢く。流石の極悪人も年貢の納め時だと腹を括るが、そこで、突然ガイガー探知機が鳴る。土に埋まっていたその探知機を、何かの拍子にスイッチを押してしまったようだ。放射能を測定するこの探知機は、この世界は既に人間が生息出来る数値を遥かに超えている事を示している。
そこに、眩い光の中、黄金に輝く大日如来が舞い降りる。男の下に降り立った、妙にメカニックな大日如来は、男に、極楽浄土より迎に来たと言う。男は、自分は悪人なのにいいのか、と問うと、大日如来は、あなたが生前善人であったか悪人であったかは問題ではない、ゴーダマが死んで三千年目に地上に降臨し、その時に地上にいる者を救済するのが私の役目であり、今日がその日だと答える。そんなものですか、と再度問う男に、そんなものです、と答える大日如来である。

斯く言う私も、インドの宗教、ヒンドゥ教には少しばかりだが薀蓄がある。ヒンドゥ教のシヴァ神は、あらゆる宇宙の創造者で、全知全能の神である事はご存知の通りだが、例えば、キリスト教、または仏教と比較すると、圧倒的な相違点が存在するのだ。
それは何か、と端的に言うと、シヴァ神は布教をしない、と言うところだろう。即ち、説教、説法などと言う布教の為の小理屈は一切必要がないのだ。何しろ、万物の創造者である、偉大過ぎて人間の事なぞは構わないのだ。戦争が起ころうと、疫病が蔓延ろうと、そんな事柄も、シヴァ神にとっては全てが想定済みなのだ、ご自身が創造された宇宙なのだから。
一々地上に降り立ち、悔い改めよ、と人間を指導する者があるとすれば、それは既に神ではない。似非である。

「荒野のガイガー探知機」で如来が話すように、人間世界の善悪なぞは神にとって何の意義も持たないのだろう。


●絶対者には逆らうな!無駄だから・・・山野漫画のハレハレ哲学(その⑥)


「荒野のガイガー探知機」に続き、「サイケでハレハレ劇場」の一話である「荒野のハリガネ虫」、この二作品の完成度は突出して高く、「荒野」シリーズと括りたいぐらいである。鬼畜漫画家は荒野を目指すのだ。

「荒野のハリガネ虫」は、雲の上のとんでもない大富豪のお坊ちゃん「秀麿」が、夏休みの自由研究の題材として「貧乏人の観察」に、下男と女中を連れ、出かける場面から始まる。
兎にも角にも、とんでもないお坊ちゃんである、貧乏人の生息する下町に向かうのも、バス10台分はあろうかと思われる巨大なリムジンだ。当然、下町の路地が通行出来る訳もないが、そこは大富豪、貧民街にひしめくボロ屋を物ともせず、破壊しながら進んで行く。
そしてお坊ちゃん一行は、その貧民街で、建物は傾き、トタン屋根は剥がれ、辛うじて維持されているアパートを発見し、その住人にインタビューする事を決める。この一室のドアを叩くと、現れたのは、青白くやつれた、無精髭でギョロ目の、山野一ご本人である。四畳半一間の、その汚い部屋には、「月刊ゲロ」などの本が散乱している。
「職業は何をしているんですか?」と問う秀麿に、山野一は「マンガ家です」と答え、自作の漫画「荒野のハリガネ虫」を見せる。その漫画を手に取り、パラパラとページを捲る秀麿は、「端的に言って、一銭五厘の価値もない代物ですね」と冷静に評価する。
山野一は食事中だったらしく、ちゃぶ台の上にはどんぶり飯と、奇妙なおかずが乗っている。それは、飛んで来たカマキリを開いた物で、腹の中にハリガネ虫がぎっしりと詰まり、随分得をした、と山野一は言う。他にも、蛔虫を塩茹でした物や、首吊り自殺を遂げた大家の老夫婦を塩漬けにした物で食い繋いでいるとも言う。
そして、斧を取る山野一は、下男の頭を割り、女中を犯しながら包丁で滅多刺しにする。「貧乏人は浅ましいものとは聞いていましたが・・・人間の所業とは思えないですねえ」と冷静な秀麿に、「貧乏もここらへんまでくるとなんか楽しくなっちゃってどーでもよくなっちゃうんですよ」と返す山野一
切り落とした女中の乳房をどんぶり飯の上に乗せ、上等な家政婦は旨いと頬張り、満足する山野一は、今度は秀麿に襲い掛かる。
ところが、秀麿に向けた包丁ごと、山野一の右手が吹き飛ばされる。ジューと音を立てて、右手首は焼かれ、骨が露出する。どうやら、極端な階級の格差によって、次元に断層が出来たらしいのだ。
「フーム、良くできたもんだなあ、私のように卑しい人間は、あなたに指一本触れられないと、こういうことなんですねえ」と、妙に納得し、感心する山野一である。

「四丁目の夕日」で、山野漫画では、貧乏人が切磋琢磨して金持ちになる事はない、と書いたが、この「荒野のハリガネ虫」では、そんなレベルを遥かに超えている。次元に断層まで出来てしまうのだ。指一本触れる事さえ不可能な訳だ。
そして、貧乏生活論、落ちるところまで落ちると、逆に楽しくなる、人間の尊厳とか良識を捨て、畜生のようにもっぱら欲望のみに忠実に生きる、と言うある意味の開き直り、また悟りも、山野漫画の哲学の一つである。
山野漫画の定番である凌辱、虐殺、狂気も勿論健在だ。
更に、自分の漫画は一銭五厘の価値もない、と言う自虐的な評価。

この「荒野」シリーズには、山野漫画の哲学が濃縮されているのだ。


●「貧困魔境伝ヒヤパカ」を総括する


前述した通り、山野一の漫画作品集として、私の最もお気に入りである「貧困魔境伝ヒヤパカ」の、ほぼ全収録作品をご紹介した。ご紹介から漏れたのは一作品だけで、それはエロ漫画色が強い「押入れの女」である。押入れの行李の中に、女の死体が入っていたと言う設定で、最終的には超現実的なストーリーなのだが、山野漫画の哲学としてカテゴライズするにはやや弱いと判断した為である。

山野一の漫画家活動は、2000年以降にねこぢるy名義で描いた物を別にすれば、1999年まで、サン出版のエロ雑誌「マガジン・バン」に連載した「たん壷劇場」で最後の作品になるのだろうか。
勿論、それまでかなり密度の高い作品を発表し続ける訳だが、どの作品も、ベースになるのはこの「貧困魔境伝ヒヤパカ」である。ここに描かれた山野漫画の哲学が、どの作品にも確実に脈打っているのだ。

次回からは、インド哲学、インド宗教が色濃く反映される、1993年に青林堂から発行された短編漫画作品集「混沌大陸パンゲア」に付いて考察したい。