小林リズムの紙のむだづかい(連載544)

青林堂刊行の『「ガロ」という時代』に「月刊「ガロ」創刊50周年記念に寄せて わたしが魅せられた「ガロ」の漫画家たち」を執筆した。とりあげた漫画家たちは、つげ義春日野日出志白土三平池上遼一勝又進蛭子能収水木しげる滝田ゆう、の八人。百枚ほど書いて、頁数の関係で二十枚ほど削除した。今回の企画に関しては全面協力、わたしの友人たちにも声をかけて執筆していただいた。此経啓助、下原俊彦、山下聖美、猫蔵、荒岡保志各氏にお願いした。



上製本・294頁。定価1800円+税。装丁・森嶋則子

清水正ドストエフスキー論全集』第七巻。2014年7月31日刊行。D文学研究会発行・星雲社発売。A五判上製585頁。定価7000円+税



清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックジャパンで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

四六判並製160頁 定価1200円+税

小林リズムの紙のむだづかい(連載544) 
清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演などを引き受けます。

D文学研究会発行の著作は直接メール(qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp) で申込むことができます。住所、電話番号、氏名、購読希望の著書名、冊数を書いて申し込んでください。振込先のゆうちよ銀行の番号などをお知らせします。既刊の『清水正ドストエフスキー論全集』第一巻〜第六巻はすべて定価3500円(送料無料)でお送りします。D文学研究会発行の著作は絶版本以外はすべて定価(送料無料)でお送りします。なおД文学研究会発行の限定私家版を希望の方はお問い合わせください。


清水正の著作はここをクリックしてください。

http://d.hatena.ne.jp/shimizumasashi/searchdiary?word=%2A%5B%C0%B6%BF%E5%C0%B5%A4%CE%C3%F8%BA%EE%CC%DC%CF%BF%5D


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四六判並製160頁 定価1200円+税

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp

清水正へのレポート提出は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお送りください。
小林リズムさんがエッセイ本をリンダパブリッシャーズ(http://lindapublishers.com/archives/publications/dokonidemoiru)から刊行することになりました。本のタイトルは『どこにでもいる普通の女子大生が新卒入社した会社で地獄を見てたった八日で辞めた話』発売日四月五日。
http://lindapublishers.com/archives/publications/dokonidemoiru
http://lindapublishers.com/archives/publications/dokonidemoiru
小林リズムの紙のむだづかい(連載544)

【不足の不がとれかかっていて】
 



どんなときに書いたり疑問を持ったりするんだろうと考えてみたら、何かに不足しているときだったり満足できないときだったり、欲求不満なときだってことに気づいた。
 「足りない」なんて言いつつも足りないことに安心していたし、満足できない自分の考えに価値を置いていた。もっとストレートに言えば、中途半端に満たされて平凡な幸せにいきつくことが怖かったのだと思う。自分が人並みの人生を歩むこと、人並みの幸せをほしいと思うことが許せなかった。そうなるくらいなら、このまま一生枯渇しながら生きていくほうがマシだと思っていた。

 だから、いざ充足という言葉が自分の心境にマッチしてきて思うのは、私はやっぱり特別でもなんでもない、どこにでもいる普通の人間だっていうこと。そんなことははじめから知っていたし、自分のことをイケてるとかステキだなんて思ったことは一度もなかったけど、でもやっぱり自分は特別であると誰よりも自分に信じ込ませたい気持ちはずっとあった。他人と違うとか、人よりも優れたり劣ったりすることでアイデンティティを見出すとか、そういう不毛なことを繰り返す自分探しの旅はけっこう楽しかった。

 ひとつの仕事にしぼって働かないこと、きちんとした恋愛をしないこと、ひとつのものにとらわれないことで誰よりも自由な気がしていたし、実際に他人からは私は自由な人に見えたんだと思う。足場をつくらないふらふらした状態にいることで、生きている実感とか心もとなさとか怖さとか悔しさとか、それを払って惜しくないくらいの嬉しい出来事とか感謝の気持ちを手にすることができた。そんなあらゆる出来事はぜんぶ一瞬一瞬で終わって、ぱっと現れて、ぱっと消えてあとに何も残っていかない。そこから離れようとしている私は、やっぱり平凡でどこにでもいる人間で、けど、事実もありかなって思うようになってきた。

 弟が卒業後は就職を考えているらしい。ふつうだったら当たり前のことなんだけど、まわりが就活をしている時期に流れに逆らって就活を放棄していた弟は夢とかやりたいことだとかを追って悶々としていた。その末に出した彼の答えが「やっぱり就職をして働いてみたい」というものだった。散々迷った弟はそれまで就活をしなかったことなんてまったく後悔しておらず、むしろ悩んでいた時期があったから納得して就職できるって話していた。
「こうやって自分の土台を構築していこうって思うのってさ、体力も気力も、若々くなったせいかな。前なら就職も恋愛も考えないで好き勝手やってたのに」
 と言う私に弟は、
「次の段階にきたってことでしょ」
 と大人なことを言っていた。次なる場所が大人が当たり前にこなす地味なものに見えても、生きてみないとわからない。





小林リズムのブログもぜひご覧ください「ゆとりはお呼びでないですか?」
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林芙美子の『浮雲』を読んだ感想(4)

平成26年度「文芸批評論」夏期課題。
林芙美子の『浮雲』を読んだ感想(4)


林芙美子浮雲』を読んで

成瀬光憂

 

 主人公の女、ゆき子の生き方はまさに「浮雲」です。ポツンと空に浮かび、風に流され、他の雲と交わっては、また千切れて流れていく。浮雲が流れる空の青い色は彼女の孤独なのでしょうか。この物語からは孤独の匂いが強くします。生前、作者である林芙美子は孤独な人間だったのでしょうか。彼女はよく色紙などに好んで「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と書いたそうです。『浮雲』の主人公である幸田ゆき子に何ともぴったりな言葉です。私は『浮雲』を読みながら、林芙美子はゆき子に己を重ねたのだろうか、と何度も思いました。彼女の人生を調べてみれば、ゆき子の人生と重なるような出来事が度々起こっていたことがわかります。ゆき子の孤独は、作者の孤独なのでしょうか。
 浮雲の様なゆき子の人生に絡みついて交わり、千切れて離れ、また交わる、そんなもう一つの浮雲があります。それが富岡という男です。昭和十八年、農林省に勤務することになったゆき子がベトナムタイピストとして出向することになったとき、そこで出会った男が以前から現地へ赴任していた農林省の技師、富岡でした。ベトナムでの新しい生活、彼はそこでゆき子に新たな愛をもたらしました。しかしこの富岡と出会わなければきっとゆき子にはもっと他の生き方があったのではないかと私は思ってしまいます。それでも、彼が女から愛される魅力がある男だというのはこの作品を読んでいれば女である私は悔しいがわかってしまうので、ゆき子も抗えなかったのでしょう。きっと富岡もまた、孤独だったのです。やがて日本が敗戦を迎え一足先に帰国する際に、妻と別れてゆき子と一緒になるとまで言った富岡は、半年以上遅れて帰国したゆき子の電報に何の反応も起こしませんでした。そして富岡を訪ねたゆき子は、農林省を辞めた彼が以前の富岡とは違うこと知るのです。彼は農林省を辞めて色々な仕事に手を出しましたが、すべて失敗してしまい、夢も希望もなく、ただその日をかろうじて生きているような状態であったのです。だからこそ富岡は、何とかゆき子を遠ざけようとしたのでした。ゆき子も生活に窮し、生きる為に街娼のようなこともやります。ゆき子にも希望がなく、あるのは凄まじい孤独感と絶望だけだったのです。やがて深い絶望と孤独の底で、ゆき子と富岡の二人は伊香保温泉で心中を図りますが、未遂に終わります。男と心中を図る、ということは様々な文学で登場する場面です。それは男女の絶望と逃避の象徴だと私は思います。客に恋をした遊女も、人生に絶望した文豪も心中をしました。最期くらいは大切な人と共に、心中は日本に脈々と続く悲しくもどこか美しい文化であり絶望を死の美学に昇華させた一つの形なのではないでしょうか。
しかし富岡はゆき子をそこまで巻き込んだのに、伊香保にある飲み屋の女房に熱を上げるのでした。そんな彼にゆき子は愛想を尽かしますが、彼女はこのとき、富岡の子を宿していました。ゆき子は昔世話になっていた義弟、伊庭を訪ねて子どもを堕ろし、彼の囲われ者として生きるようになります。
 伊庭、という男。彼はゆき子の人生に浮かぶ富岡とは違うもう一つの雲です。ゆき子が静岡の高等女学校を卒業した後、神田のタイピスト学校に通うため上京した際に寄宿先として選んだ家の主人。それが姉の夫の弟である伊庭でした。彼には妻がいましたがゆき子と関係を持ち、彼女が農林省に就職した後もその関係は続いていたのです。
伊庭と共に暮らす日々の中、再び富岡が彼女の元を訪れます。彼は伊香保で恋に落ちた飲み屋の女房と恋仲になったのですが彼女の夫に彼女を殺されてしまい、さらに自分の妻も困窮の末に病死し人生に絶望しきっていました。しかし屋久島で営林署の仕事を見つけ、ゆき子の元へ戻ってきたのです。そしてゆき子もまた、伊庭の金を持ち出して富岡の心を呼び戻そうとしていたのでした。やはりまた二人は一緒になります。二人の関係は言葉にするのであれば「腐れ縁」、これが何より相応しいものとなっていたのです。そして共に 屋久島の営林局へ行き間もなく、富岡が山へ行った土砂降りの日、ゆき子は喀血で死にました。そして残された富岡は凄まじい孤独の中で一人生きていくのでした。
 交わり、千切れを繰り返した二つの雲はどちらも絶望と孤独から逃れられぬままに物語は終わります。これはドラマチックに見えて、きっといつの時代でも、どんな場所でも起こり得る男と女の話です。読み終えて、私は何だか泥の中にうずくまっているような気分になりました。何処までも人間らしい登場人物たちのことを「なんて駄目な奴らなんだろう」と思いながらも、何処かで憎み切れず愛おしいと思ってしまうから私もまた人間なのです。林芙美子が人間の内面を女性だからこそ描き出せる視点で書かれた『浮雲』は、時代を超えて現代を生きる私の胸にもずしりと重たくのしかかるものでした