小林リズムの紙のむだづかい(連載86)

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紙のむだづかい(連載86)
小林リズム

【無邪気な顔で言った「嫌い」の言葉をずっとずっと覚えているね】



 相手を自分の人生に取り入れるのと、自分が相手の記憶のなかに残り続けるのと、いったいどちらがいいんだろう。と、病院の待合室で考えていた。
 「相手を自分の人生に取り入れる」というのは、現在の恋人とか家族とか友達とか、今も進行している状態で、きっとこれからも続いていくであろうことで、日常化していくもの。「記憶のなかに残る」というのは、ある一定の期間を一緒に過ごして、良くも悪くも記憶に刻みつけられるくらいに影響を与え、相手がずっとそれを抱えてゆくことになるもの。
 これを考えたときに、いつも私は前者でなく後者を望んでしまう。つまり、誰かの記憶に残り続けることを夢見てしまうのだった。ついでに言えば、ときどき思い出して「そういえばあの子どうしてるかなぁ。あのとき楽しかったなぁ」と、戻ってこない日々を懐かしむような切ない気持ちを味わってほしい。うんと美化して一緒に過ごした時間を宝物の箱にそっとしまうようにして扱ってほしい。

 たとえその人が忘れたとしても、私はきっと一生覚えていて、たまに思い出すんだろうなということがある。「一生忘れないで覚えているね」というと耳心地はいいけれど、ロマンチックな意味だけでなく、恨みや憎しみっぽいものも含む。そのとき感じた失望とか裏切りとか、悲しみとか、相手のとった行動とか計算とか、ひとつの出来事を映画の名場面みたいに短く凝縮して記憶しているから、相手の人柄とか人格だとかは定かでない。もっといえば顔も名前も正しくないかもしれない。ただ、もう会わなくなった人たちは私の人生のなかの記憶の破片みたいにして根強く残っているから、そしてきっと私だけが覚え続けているから、そのぶん負けている気がする。惚れた弱み、と同じ要領で、覚えた弱み、だ。

 だから、もしこの先すごくすごく嫌な思いをさせられることがあったとして、そのときは泣きわめいて苦しんでもいつか「そんな人、いたっけ?」と軽く忘れてしまえるような人になりたいなぁと思う。それなのに人間の記憶というものは感情と直結しているせいか、自分を深く傷つけた人のことほど忘れたくても忘れられず、人生の時間をその嫌な人のために削ることになる。なんて損なのだろう。それを発散(たとえば文章を書くとか、人に話すとか)しない限り、そのとき感じた気持ちが薄まることはない。けれど発散するためには一度向き合ってみたり再び嫌なものを手繰り寄せないといけないから、どちらにしても腹立たしい。
 そんなこともあって私は「相手を自分の人生に取り入れる」よりも「自分が相手の記憶のなかに残り続ける」ことのほうが価値があるものだと思っていた。けれどこの間それを友人に話したときに
「どんなことでも全部覚えているなんて無理だよ。それだったら覚えていることを教え合うことができる関係のほうがずっと価値があるんじゃない」と言われて衝撃を受けた。確かにそうだった。今を生きているすべての人にとって過去は過去でしかなく、たとえそれが今の自分を作り上げる要素になったとしても、今の自分に直接アドバイスすることはできない。
 全部を記憶することなんて無理なのだから、片方が少しずつ覚えていて、ときどきそれを小出しして「そんなことあったっけ?」「あったじゃん、忘れたの?」という会話を繰り返すのもいいかもしれない。そんなふうに層を積み重ねていきながら、もうだいぶ事実でなくなってしまった過去の記憶をもとにして、新しいふたりの記憶をつくっていけたら、それはそれで素敵な気がする。