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近況報告
ここ一週間ばかり、『ベラミ』論を中断して、モーパッサンの代表作を読み続けた。新潮世界文学全集22に収録されている『脂肪の塊』『テリエ館』『女の一生』『ピエールとジャン』などである。どの作品も面白く、批評衝動に駆られた。が、詳細な作品批評をすることはできない。書く時間がない。モーパッサンに関しては『ベラミ』論だけで終わりそうだが、まだ〈第一日目〉を批評し終えていない。前にも書いたが、批評方法を変えるしかなさそうだ。
モーパッサンに惹かれる第一の理由は、彼の現実を見る冷徹な眼差しにある。彼の世界観にあってキリスト教は絶対的な位置を占めていない。彼が生涯愛した〈水の上〉の生活は、彼の自然観、宗教観、人生観に決定的な影響を与えている。彼の内にあってはユダヤ・キリスト教の神は〈絶対」ではなく、相対的に扱われている。彼の眼差しは人間を見つめている。〈ひとりぼっち〉の置き忘れられたような人間を、作者モーパッサンの眼差しは決して見逃すことはない。彼の人生観、宗教観の根底にある中庸精神は、日本人のそれと共通するものを感じる。わたしはドストエフスキーの作品を読み続け、批評し続けているが、今回モーパッサンの代表作を読んで、彼の中庸精神、冷徹な現実認識に共鳴するところ大であった。
わたしは『罪と罰』は巨大な少女小説、幻想小説と見なしている。二人の女を殺した殺人者をシベリアまで追っていく娼婦ソーニャ、そのシベリアで殺人者は回心する。こういった筋書きそのものの幻想性に魅入られてしまう読者に、『罪と罰』の少女小説性を指摘することはできない。ドストエフスキーのキリスト教は真剣に検証されなければならない。『罪と罰』を読み終わって〈キリスト者〉になれないものが、安易にシベリアでのロジオン・ラスコーリニコフの復活の曙光に感動してはならないのである。ロジオンの〈回心〉は殺人を悔悟した後になされたものではない。ソーニャはスヴィドリガイロフの金銭的援助があったからこそ淫売稼業の泥沼から抜け出し、ロジオンをシベリアまで追っていけたことを忘れてはならない。ロジオンはソーニャによって救われたかもしれないが、すっかりおしまいになってしまったポルフィーリイ予審判事は依然として救われていない。スヴィドリガイロフは救われるどころかピストル自殺して果ててしまう。殺されたアリョーナとリザヴェータは殺されたまま放置されている。
モーパッサンは作品の中でいっさいドストエフスキーのことについて触れていないが、私は『ベラミ』を『罪と罰』に関連付けて批評している。モーパッサンの冷徹なリアルな眼差しは『罪と罰』のキリスト教に対しても適用されるであろう。〈少女小説〉の巨大なキリスト教的幻想性に微塵もたぶらかされない眼差しで作品を書き続けたのがモーパッサンである。
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人間のあるべき姿を検証する。人道主義(ヒューマニズム)と宗教の問題。対話によって世界平和の実現とその維持は可能なのか。人道主義と一神教的絶対主義は握手することが可能なのか。三回に分けて発信していますがぜひ最後までご覧ください。