下原敏彦 「清水正・ドストエフスキー論」五十周年に想う

ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

 

清水正ドストエフスキー論」五十周年に想う
下原敏彦
 
祝「清水正ドストエフスキー論」五十周年
 
清水正先生、ドストエフスキー論執筆五十周年、おめでと うございます。ドストエフスキーに魅せられ、あるいは憑か れて作品論に挑戦する読者や研究者は、いつの時代にも大勢 います。しかし、半世紀にわたって間断なく書きつづけ、発 信しつづけている論者となると、稀です。古今東西を見渡し ても、はたして何人の論者をあげることができるでしょう か。   その意味で「清水正ドストエフスキー論」は、奇 跡です。この偉業、天国の文豪も驚きと称賛をもって見守っ ていると思います。
 
想像・創造批評によってできた、このドストエフスキー作品の批評山脈。そのスタートは、いつどのような動機から だったのか。振り返ってみた。
 
例えば、ドストエフスキーは、十七歳のとき、生涯を決定 するこんな手紙を兄ミハイルに書いている。
 
ペテルブルグ、一八三九年八月十六日
 
「ぼくは自信があります。人間は神秘です。それは解き当 てなければならないものです。もし生涯それを解きつづけ たなら、時を空費したとはいえません。ぼくはこの神秘と 取り組んでいます。なぜなら人間になりたいからです。」(『ドストエーフスキイ全集十六巻書簡(上)』米川正夫訳   河出書房新社   一九七〇)


こう宣言して小説を書きはじめた。奇しくも清水教授は、 同じ十七歳のとき、ドストエフスキー(『地下生活者の手 記』)と出会った。そして、自分の人生を
 
ドストエフスキーの作品を残らず批評しつくすこと、そ れが私の仕事になった」
清水正著『ドストエフスキー初期作品の世界』「あとがき」沖積舎   一九八八)
 
と、決心してドストエフスキーの作品批評の道を歩みはじ めた。 「青春時代の真ん中は、道に迷っているばかり…」そんな歌もあるが、二人ともなんと早熟で探究心に溢れた 若者であったことか。
 
だが、その決意に些かの迷いも偽りもなかった。ドストエ フスキーは、シベリヤ流刑、借金、家族の不幸、癲癇発作な ど、幾多の試練に遭いながらも五十九歳で生涯を閉じるま で、人間探究の作品を書きつづけ、初心を貫いた。
 
清水教授は、望んだスタートではなかったが、日芸という 土壌にしっかり根をおろし、ドストエフスキー研究に没頭し た。十九歳で、早くも最初のドストエフスキー論『白痴』に 着手。そうして『罪と罰』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』、 『未成年』と矢継ぎ早に、発表してその成果を見せた。この
頃の教授の活躍は目覚ましいものがある。二十二歳のときに は『ドストエフスキー体験』を改訂した『停止した分裂者の 覚書』(豊島書房)を出版している。一九八八年には『ドス トエフスキー初期作品の世界』(沖積舎)を上梓している。
 
あの日から五十年間。教授は、ひたすら想像・創造批評を 駆使して、謎多きドストエフスキー作品の解明に取り組んで きた。
 
そして二〇〇七年には、ドストエフスキー論の集大成の手 はじめともいえる『清水正ドストエフスキー論全集』第一 巻を出版した。そして、約十年の後、ことし二〇一八年に は、一つの区切りとして『清水正ドストエフスキー論全 集』第十巻を刊行した。
 
この五十年に及ぶドストエフスキー作品批評の人生。それ は、傍目には知られざる悲しみと苦しみの旅でもあった。そ の人生において、最愛の母を失い、幼き息子を送った。ドス トエフスキーを探究することが、こんなにも辛いことか、苦 しいことか。いくたび、絶望の淵で、運命を呪ったことか。
 
しかし、教授は、やめなかった。あきらめなかった。迷い こんだら抜け出せない深き森。はるかに聳える峻厳なドスト エフスキー山脈。地図あれど道なき道。羅針盤さえ役立たな い海路。その歩みが、どれほどの犠牲と困難を必要とした か。いま満身創痍となって、難病の痛みに耐える教授の日常 生活を見れば、わかるというもの。ドストエフスキーの旅がいかに厳しく大変なものであったか想像に難くない。
 
だが教授は、その人生において目標とした「ドストエフス キーの作品を残らず批評しつくすこと」は立派に成し遂げ た。今日までに刊行された多大な批評作品群がそれを証明し ている。これら世界でも稀な批評作品群は、モノリス(映画 『二〇〇一年宇宙の旅』で類人猿に知を与えた建造物)とし て、この先、注目されるに違いない。
 
改めてドストエフスキー論執筆五十周年の偉業に敬服す る。
 
清水教授は、来年古希を迎える。ドストエフスキーより十 年、この世を長く過ごしたことになる。読者としては、さら なる解釈と発見を期待している。が、これからは、健康第一 として、身体に気をつけながら想像・創造批評に励んでほし い。今後ますますのご健勝をお祈りしたい。
(しもはら・としひこ 日本大学芸術学部文芸学科講師)