作家の稲葉真弓氏が亡くなった

日芸文芸学科の同僚教授でもある作家の稲葉真弓氏が亡くなった。かつて書いたものを再録してご冥福をお祈りいたします。(「図書新聞」2002年2月2日)


静かに耳をすますほかない、稲葉真弓、岩阪恵子の作品

末期の目を備えた南木佳士の短編
現代小説の可能性はどこにあるのだろうか
現代小説の可能性はどこにあるのだろうか。「新潮」2月号に一挙掲載された小田真の長編「深い音」を読みながらつくづく思った。わたしはこの〈小説〉を小説としては読めなかった。小説の概念を巡ってここで議論を展開するつもりはない。ここに書かれているのは〈おしゃべり〉、それも繰り返しの多い〈おしゃべり〉である。〈主張〉はあるが表現はない。読者の心にしみ入るように伝わってくる小説としての表現になっていない。くどい、しつこい、うるさい、まるでオバサンの井戸端会議を二時間も三時間も聞いているようでうんざりする。すでに破綻しきっている〈主張〉、してもらわなくてもいい解説、ついに最後までタイトルになっている「深い音」が聞こえてくることはなかった。
 
〈深い音〉が聞こえてくるのは、むしろ同じ「新潮」に載っている稲葉真弓の短編「どんぶらこ」である。露天風呂で足を滑らせ、意識障害のまま病院に運ばれた老女八木トクの内心のドラマを淡々と描写している。トクは七十八歳、岡山生、アメリカに渡った姉が一人いるが所在は不明、結婚歴はなく、子供もいない。解体作業現場の手伝いや賄い婦をして生きてきた。銭湯が唯一の楽しみで、他にこれといった趣味もない老女が、死に直面して自らの人生の断片を思い起こす。母親のこと、父親のこと、姉のこと、戦後土建屋の社長の愛人になったこと、土建屋に勤めていた若い男と駆け落ちしたこと、その男とも別れて阪神から東京に流れてきたこと、小さな建設会社や解体業者を渡り歩き、いきあたりばったりに男と寝たこと。作者は「根なしに生まれてきたとトクは思った。根をはやし、生きることと縁のない場ばかりにいた。それでもトクは何かを待ち続けていた」と書く。トクは切り倒され川に流された一本の大木を追って川に飛び込んだ昔話の村の娘のように、人生という川を「どんぶら どんぶら どんぶらこ」と流れてきた。いったい〈どんぶらこのおトク〉は何を追って生きてきたのだろう。いったい何を待ち続けていたのだろう。「トク、トク、と自分を呼ぶ声と一緒に、ざあざあと体の中を水が流れる音がした。もうずいぶん前から、体の中を流れる音に耳を澄ますようになっていた」。いったいトクを呼んでいるのは誰なのだろうか。作者は解答など記さない。ましてやいっさいの解釈や説明もしない。七十八年の人生を生きてきた老女が耳にするその〈音〉に、読者もまた静かに耳を澄ますほかはない。哀しさ、せつなさ、どうしようもない孤独……どんな言葉も七十八年のどんぶらこを生きてきた老女を語ったことにはならない。そのことをよく自覚した上で作者はこの小説を書いている。おそらくこの小説は何度読み返しても、読者の胸に深く響くものを持っている。トクという一老女の存在の姿は小説という表現をとらなければ浮上してこない。稲葉真弓はまがいものではない本物の小説家である。
 「新潮」新年号に掲載された十六編の短編小説の中で、一見地味ではあるが注目した作品に岩阪恵子の「掘るひと」があった。一読、これはただものではないぞ、と思った。派手な身振り手振りはまったくないが、この作家は的確に相手の急所を突いてくる一流のボクサーのような作家である。否、ボクサーというよりは、剣を捨てた名剣士のような静謐な気配を漂わせた作家と言えようか。庭に穴を掘る嫁の心理や感情をいっさい説明しないで、姑との確執を見事に浮上させるその洗練された技と研ぎ澄まされた感性はただごとではない。こういった珠玉の一編に出会うことは時評家にとってはなによりも嬉しい。「群像」二月号に岩阪の「マーマレード作り」を発見した時は、まさにとっておきの極上のおやつを出された子供のような喜びを感じた。独り暮らしをしている四十歳を過ぎようとしているひな子の所に、二十年一緒に暮らして別れた康平から電話がかかってくる。実家にみのった夏みかんを送るからマーマレードを作ってくれないかという依頼である。ひな子は「いいわよ、少しなら」と引き受ける。もと夫のあつかましい依頼を受けてしまったひな子は、康平との過去の断片を思い返しながら、マーマレード作りに励む。ただそれだけの、たわいもない話であるが、この作品は読者の想像力を無限に解き放つ。それは、真夜中「耳の奥から低く地鳴りのような音が聞こえてくる」ひな子が抱えている途方もない〈孤独〉と〈不安〉の力による。「掘るひと」も「マーマレード作り」も大げさな表現ではなく、淡々とした日常の描写そのもののうちに、人間が生きてある孤独の姿をさりげなく浮上させている。稲葉真弓も岩阪恵子も、人間存在の深部に響いてくるかすかな〈音〉に耳をすましている作家と言えよう。
 男性作家の作品で最も注目したのは「文學界」に発表された南木佳士の「底石を探す」である。この小説は語りの主体が表記されないまま幕を閉じる。主人公でもある語り手は病院に勤める医者で、アユ釣りが趣味である。彼はいつも同じ場所の同じ石の上に立って釣りをする。ある日、彼はその石に鑿で〈17〉の数字を彫る。一週間後、彼は強烈なパニックに襲われ、うつ病になる。十数年後の暑い土曜日の夕方、彼は発作的にアユ釣りに出かけ、〈17〉と彫った底石を探しまわる。「釣れたかやあ」と車椅子の老人が声をかけてくる。昔の釣り仲間である。老人は家からカンテラ付きの本格的な水面を持ってきて彼に渡す。ついに彼は底石を発見し、その上にあがる。筋だけ追えば、これまたたわいのない話であるが、この小説が描きだしている世界は不気味なほど透明で、人間が生きてあることのはかなさが切々と伝わってくる。また、この小説がわたしの胸に響いてくるのは、作者が言葉の重さをしっかりと意識して使っているからである。南木の眼差しはかぎりなく優しく、きびしい。この小説が末期の目を備えた作家によって書かれた作品であることは確かだ。〈底石〉という〈墓石〉の上に立って堤防の老人にカンテラを大きく回す彼は、「白い影がわずかに揺れながら闇に溶けてゆく」のを見る。
 現代日本の小説の可能性は、今回とりあげたような短編小説にあるのではないかと思った。中途半端な青臭い議論や、小説の形式を借りなくてもいいような主張はもううんざりである。小説家は読者の感性と想像力を信用して、無駄な表現はしない方がいい。(「図書新聞」2002年2月2日)