日芸図書館は林芙美子生誕110年を記念して『世界の中の林芙美子』を刊行すべく着々と編集をすすめている

日芸図書館は林芙美子生誕110年を記念して『世界の中の林芙美子を刊行すべく着々と編集をすすめている。私は「世界文学の中の林芙美子」というタイトルで、芙美子の代表作品に出てくる作家と作品を調べて抜き出す作業を進めている。こういった地道な作業から見えてくるのは、いかに芙美子が読書家であったかということである。今日は『創作ノート』を読みながら、林芙美子が本物の作家であることを改めて痛感した。



以下に『創作ノート』から私が感動した林芙美子の文章を紹介する。
 モオパツサンは、どんなつまらない事でもつやゝかな作品にしおほせる人である。このやうな仕事をした人が、狂人になつてしまふと云ふことを考へると、此作家は肉体の方まで、文学の虫に食うはれてしまつたかのやうな気がしてくる。(244)

巴里にゐた頃、ジヤン・コクトオを読んだけれど、いゝ感覚で、鋭い作品だと思つたが、いゝ文学とは思へなかつた。感覚を安易にみせびらかす作家の作品は花火のやうなもので人の心に永く残ると云ふものはない。(246)

もう一度、日本の文学界に空襲を与えて、五破算になつたところから初々しく逞ましく孤独で立ちあがつてゆかなければならない。作家が、技術だけを心得て、ぬるぬるとした気持ちの悪い小説を書いてゐるけれども、何故、もつと捨身で苦しむ決心がつかないのか不思議だ。文学は血みどろでなければならぬ。(248)

老大家も新人も、仕事の上だけは血みどろになつて、へどを吐ききるまでやるべきだ。モオパツサンも狂人になつたけれど、あのやうな作品を書いてゆくには、狂人になるより果てる道はない。(249)

日本の保守的な道徳観念も、一度崩壊しなければならない。作家が人間を忘れて修身の犬になりさがる必要はない。(254)

私はあらゆる書物に放浪したけれども、作家の魂が露出してゐない作品にはよりつけない。(256)

以前は、チヱホフや、トルストイ、ツルゲニヱフ、ゴオゴリ、プウシキンなんか好きであつた。いまでも好きな事に変りはないけれど、チヱホフの「可愛い女」なんかを読むと、日本の沢山の女性が、あの小説を一度読んで明るくなつてもらひたいと思ふ。(257)

林芙美子の『創作ノート』は昭和二十二年八月に刊行されている。渾身の力を込めて書き上げた遺書のようにも思えた。本物の作家の魂とはこういうものだ。