小澤由佳の日野日出志論

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日野日出志研究」は刊行に向けて準備をすすめている。「雑誌研究」と「マンガ論」の受講者の夏期課題のうちから独創的なレポートを選んだ。また日野日出志先生には選ばれた全レポートを読んでいただき、三篇のレポートを「日野日出志賞」として選出、コメントをつけていただいた。今回は、受講生以外のひとたちにも日野日出志論を寄せていただき、内容豊富な雑誌にしたいと思っている。下記に紹介する小澤由佳さんの日野日出志論は、「蔵六の奇病」における音楽の効果について書かれたもので、今まで誰も触れることのなかったユニークな論考である。ぜひご一読ください。

『蔵六の奇病』における音楽表現効果について
オノマトペに秘められたメッセージ〜
小澤 由佳音楽学学者 芸術学博士)


作品を手にする日野日出志先生 日芸文芸学科研究室にて。清水正・撮影
1 音楽のオノマトペ 
 日本人は音楽に対してのオノマトペ表現が上手い民族なのかもしれない。宮沢賢治は『どんぐりと山猫』で音楽隊の行進を「どつてこどつてこどつてこ」と表現した。口頭伝承の三味線音楽において、三味線の音に「ちりとてちん」という擬音(口三味線)を与え、暗記を助けるという習慣も日本人独特だ。歌舞伎の下座音楽で幽霊などが登場する場面の太鼓のことを「どろどろ」と表現するが、これは落語の怪談でも使用されている。谷川俊太郎は詩「オノマトペ」の中で、「せかいはほとんどおんがくであつた」とし、擬音語に満ちあふれた世界を「音楽」と表現した。
 音楽に対するオノマトペ表現(以下「音楽オノマトペ」と呼称する)は、音楽を単に言葉で模しているだけでも、効果音のように再現しているだけでもないだろう。賢治の「どつてこどつてこ」、三味線の「ちりりん、ちりりん」、太鼓の「どろどろ」、ほか「しゃんしゃん」という鈴の音、「とことこ」という小太鼓など、これらが物語や詩など「作品」の中で登場するとき、それは、言葉によって奏でられる音楽となっていると筆者は感じる。音楽を聴いて、そこから「何か」を感じとるように、音楽オノマトペからも私たちは「何か」を感じとるはずなのではないだろうか。作曲家が作曲する際に音を選ぶのと同様に、作家も、どのオノマトペで表現するのかということを選んでいるはずなのではないだろうか。筆者は、これらのことを日野日出志の『蔵六の奇病』を読んで強く感じ、日野日出志の書くオノマトペには、何かのメッセージが隠されていると考えた。そこで本稿では、『蔵六の奇病』に出てくる音楽オノマトペを取り上げ、どのような効果があるのか、またそこから何がわかるのかを考察する。


2『蔵六の奇病』における3つの音楽オノマトペ 
① 3つ音楽オノマトペ  
『蔵六の奇病』の中には音楽オノマトペが3つの場面に登場する。最初に登場するのは、12ページ6、7コマ目、蔵六が村人たちに馬鹿にされ囃されて踊る「チャンチキチャンチキ」である。「チャンチキ」は、本来は祭囃子やチンドン屋の音楽で使用する金属製の打楽器のことを指す。続いて、32ページの2コマ目「ピー ピー ヒャラリー ドンドン」、3コマ目「ピー ピャラ ピー ドンドン」、4コマ目「ピー ヒャラリ ドンドン」である。これは蔵六が、秋祭りの笛や太鼓の音を聴いて、母親の顔や幼い頃を思い出す場面で使用されている。「ピーヒャラ」は祭りの横笛の音であり「ドンドン」というのは太鼓の音である。最後は、38ページ3コマ目「ドロロドンドンドドドドドドンド」、6コマ目「ドロロロドドドドンドン」、7コマ目「ドロロドドド」である。村人たちが蔵六を殺しに出向く場面に叩かれる太鼓の音であり、そしてその音は、蔵六の両親の耳にも届き、二人は悲しみに暮れるという場面である。

② 2つの祭りの音楽オノマトペ
 3カ所の音楽オノマトペのうち、「チャンチキ」と「ピーヒャラ ドンドン」はどちらも祭りの音である。祭りの音楽は「楽しい」というイメージが強く、これらのみを独自で読むと陽気でポジティブなイメージがうまれる。だが、『蔵六の奇病』は悲劇であり悲しい暗い陰鬱な空気が、終始たちこめる物語である。この徹底的なネガティブな世界の中で、象徴的に登場するこれらのポジティブなオノマトペは、相反する蔵六の心情を効果的に表現する役割を果たしている。最初の場面では、村人たちに馬鹿にされながらも「チャンチキ」と囃されて蔵六が踊ることにより、村人と親しくできることを嬉しく思っている彼の「淋しい喜び」が伝わってくる。そして同時に疎外されていることを悲しむ蔵六の心、実は友達が欲しいと思っている蔵六の気持ちがここで主張されるのである。
 続く「ピーヒャラ ドンドン」は、蔵六が母親に捨てられ、殺される夢を見たあとの場面で登場する。この場面から、実は蔵六が母親と祭りの思い出をもっていたということがわかり、彼の母親への想い、愛情を欲する切ない願望が伝わってくる。また、母親が自分を想ってくれているということが唯一の彼の心の支えだったということがひしひしと感じられ、涙を流さずにはいられない場面でもある。ここでの「ピーヒャラ ドンドン」という祭りの音楽オノマトペに、明るいイメージを抱かされることはやはりない。むしろ、この音楽オノマトペは、蔵六の美しき楽しきよき過去、この時点での蔵六から考えると天国のような楽園を象徴しており、この存在が、すべてを断ち切られ圧倒的な絶望感しかなくなった蔵六の地獄のような現実の悲惨さを強調する。悲しみ、苦しみ、痛み、怒り、愛しさ、懐古、諦めなど蔵六のうずまく心を吐露するかのような、痛々しいノスタルジーの音楽となっているのである。
 奇病をもった蔵六の物語というネガティブな世界の中で、ポジティブな祭りの音楽そのものが、蔵六も普通の健康な人間と同じ心をもっていることの表れであり、怪物ではないのだということを示しているといえるだろう。また、この作品で蔵六は「話さない者」として登場し、発する言葉は夢の中の「おっかあ」という言葉と「うう」「ああ」などの呻き声だけである。この「言葉を発しない」という蔵六のキャラクター設定があるからこそ、本作品における音楽オノマトペの効果は大きい。というのは、音楽には言葉や文章では表現できない感情を喚起する力があるからだ。「チャンチキ」も「ピーヒャラ ドンドン」も、単なる陽気な祭りの音ではなく、悲劇的生涯を送る蔵六の心の拠り所の表現として用いられおり、これらの音の向こうから蔵六の心が表出しているといってよいだろう。

③ 陣太鼓の音楽オノマトペ
 最後は「ドロロロドンドン」という太鼓の音の音楽オノマトペである。これはおそらく戦で軍勢の進退に用いられた陣太鼓がイメージされているのだろう。蔵六を殺しにいく村人たちの出立の合図となっている。ただし、この太鼓の音は意味深い。というのは、太鼓をたたくのは蔵六の「敵」となる村人たちである。冒頭で述べたように「ドロドロ」という表現は歌舞伎や落語では、幽霊やこの世の者ではないものの登場を表現する音となっており、「ド」と「ロ」を組み合わせたこの音楽オノマトペには「蔵六を怪物として扱い殺そうとする村人こそが逆に恐ろしい存在なのである」という作者の隠れたメッセージが見え隠れしているように思われる。また、遠くにこの音を聴きながら神妙な顔をしている父親、涙を流す母親の背景にもこの「ドロドロ」の音楽オノマトペが書かれており「我が子が殺されることを黙って見ている両親も恐ろしい存在なのだ」という作者のメッセージも伝わってくるのだ。


3 『蔵六の奇病』において祭り囃子が使用されている意味 
 ところで、蔵六は作品の冒頭から「小さいころからあたまが弱」く「絵を描いたりぼんやりとおもいにふけったりしてくらしていた」と説明されている。筆者は当初、この蔵六の描写から画家の山下清を想像した。「頭が弱い」蔵六は知能発達障害者であると捉えることができる。その蔵六に「毒キノコのような七色のでき物」、いわゆる「奇病」ができ、蔵六は村人たちからいじめに遭う。笑い者にされる場面、石を投げられる場面、これは障害者の迫害のようだ。家族からも忌み嫌われ、森の小屋に追いやられる場面からは、ライ病患者の隔離問題を想起させる。『蔵六の奇病』は蔵六という一人の青年の悲劇だが、その伏線として障害者の差別が扱われているように筆者は感じたのである。
 『蔵六の奇病』の中に登場する3つの音楽のオノマトペは、2つは祭りの音楽であり、1つは陣太鼓をイメージしたものであった。陣太鼓のオノマトペは、村人が蔵六を殺しに出陣する場面に使用しており、戦いの太鼓「陣太鼓」をイメージしたことから、なぜ、作者がこれを使用としたのかは明瞭である。では、ほかのオノマトペは、なぜ「祭り」の音楽なのだろうか。
 元来「祭り」は「祀る」の意味をもち、神を祀ること、またはその儀式を指す。つまり祭りは寺社と密接な関係にあるのだが、かつて、近世から明治、大正、昭和にかけて、日本では寺社地のまわりで「見世物興行」が多くなされた。見世物興行は「門前」(簡潔にいうと寺社周辺の繁華街)と結びついており、茶店、屋台店、土産物屋、料理屋などと並んで見世物小屋がつくられ、参拝客の人手をねらった盛り場が形成された。見世物興行とは、長い竹馬に乗る曲芸や、三味線を弾きながら背中に長い竿をたてその上で人が踊る軽業、傘まわしやコマ回し、人形遣い、蛇女、お化け屋敷など演出めいたもの、ラクダや象をみせる動物の見世物など様々なものがあった。言い換えると「珍しいものを見せるお店」といえるだろう。この「珍しいもの」の中に奇形の子供や障害者が含まれており、身体障害者の生活手段だったと言われている。特に、祭りや寺社の開帳などの行事の際には人手が多く出ることから、見世物興行は盛況だった。つまり日本において、障害者と見世物は関係があり、特に祭りの見世物は障害者の「稼ぎ時」だったということになる。
 『蔵六の奇病』で、「チャンチキ」と囃されて蔵六が踊る場面はまさに、人々の「見世物」になっており、これらの歴史事実を彷彿させる。また、蔵六を障害者とするならば、彼の母親との祭りの思い出も、自分が見世物になっていた思い出という可能性すら考えられるのだ。障害者が見世物になることについての取締がされたのは1975年以降のことであり、障害者が蔑視された時代が長く続いた。障害者の人権に早くから着目し、社会福祉などが発達した欧米と違って、現在でも、日本は障害者の人権に関しての関心が高くはなく、障害者が生きやすい国とは言いにくい。作者の日野日出志は『蔵六の奇病』を通して、このような日本の社会問題を風刺しているとは考えられないだろうか。いじめ、差別にあう蔵六の姿の描写には、障害者問題へのメッセージ性を感じずにはいられない。そのように考えると、作者がなぜ祭りの音楽のオノマトペを使用したのかが見えてくるだろう。『蔵六の奇病』には、障害者が見世物となっていた日本の現実を伝えるメッセージが秘められており、2つの祭りの音楽オノマトペは、「祭りの音楽」でなければならなかったのである。


4 まとめにかえて 
 このように『蔵六の奇病』における3つの音楽オノマトペを考察すると、そこに重要なメッセージがこめられており、オノマトペにも大切な役割があることがわかる。音楽オノマトペは概して読み流されてしまいがちの存在であるが、その「文字」と「文字」の間、いわば文字間に読み取るべき作家の世界があるのではないだろうかと筆者は考える。

小澤由佳(おざわゆか)・プロフィール
恵泉女学園大学人文学部卒業。日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。平成20年に、明治時代の作曲家三代目杵屋正治郎の研究で芸術学博士号を取得。現在、恵泉女学園大学桜美林学園大学にて講師をつとめ、音楽史音楽学の講義を担当している。近年では、クラシック音楽人口の裾野を広げようと、演奏家を招聘し自身がマイク解説を担当する「お話つきコンサート」を多数企画し、各地で開催。その都度、好評を博している。音楽と諸芸術、社会、文化との関係など、様々な視点から音楽を捉えた研究を目指し、また、言葉で音楽の面白さを伝えることをライフワークとしている。