「清水正研究室」から「林芙美子の文学」の(連載170)を転載。
林芙美子の文学(連載170)
林芙美子の『浮雲』について(168)
(初出「D文学通信」1374号・2010年1月27日)
清水正
わたしの中で、リアリティのある設定を披露しよう。
ゆき子は、速達が届けられた十二月二十八日の夜
からずっとジョオに抱かれて朝を迎えた。
わたしの中で、リアリティのある設定を披露しよう。ゆき子は、速達が
届けられた十二月二十八日の夜からずっとジョオに抱かれて朝を迎えた。
富岡の誘いに乗って出掛けるか、それともジョオと一緒に過ごすか。ゆき
子の心は揺れた。きっぱりと富岡と別れる気持ちになれば、とうぜんゆき
子は待ち合わせ場所に駆けつけることはなかったであろう。いったん、切
り捨てた男が、死のうが生きようが関係はない。ゆき子はジョオとの関係、
およびその延長線上の生き方を貫いていけばいい。池袋の小さな小舎の中
で、激しく睦み合うゆき子とジョオ、かたや小雨降る四谷見付の駅前で、
ゆき子をひたすら待ちつづける富岡、この光景を映して、『浮雲』一遍の
物語に幕を下ろしてもよかったのだ。
が、見ての通り、ゆき子は三十分遅れで四谷見付に駆けつけた。幕を下
ろさないのであれば、遅れた〈三十分〉に込められたゆき子の内的ドラマ
を踏まえた上で読みすすめていくほかはない。林芙美子は、ゆき子の内的
世界を完璧に無視する。雨の降る中を、四谷見付から渋谷まで、傘もささ
ずに二人は歩く。事業に失敗し、家を売り払い、がらんどうの家に邦子ひ
とりを残して、ゆき子とできもしない心中の妄想を抱いて、一時の現実逃
避に走った富岡のような男に、いったい誰が、寒い、雨の中を、ついてい
くだろうか。この場面に納得する読者が何人いるのだろうか。
どんなにみすぼらしい男にでも、ついて行く限りは、それなりに納得が
いく〈魅力〉がなければならない。はっきり言って、日本に引き揚げて来
てからの富岡には、女の気持ちを惹きつける微塵の〈魅力〉もない。作品
展開を尊重すれば、富岡には未だゆき子を惹きつける要素があり、ただそ
の〈魅力〉を作者が描かなかっただけということになる。
が、今、わたしはそういった観点からの批評を続ける気持ちはない。一
読者のわたしが、富岡に魅力を感じていないように、ゆき子もまた富岡に
魅力など感じていなかったと思う。富岡はくだらない男である。ゆき子と
できもしない結婚の約束をして帰国し、ゆき子が追いかけてくれば、その
場凌ぎの嘘をついて逃げ回っているような富岡に、新しい生き方を選んで
一歩を踏みだしたゆき子が、なぜ今更、呼び出しに応じて雨の中を歩かな
ければならないのか。
ゆき子にあるのは〈復讐〉だけだ。わたしは、富岡に対するゆき子の愛
を感じない。富岡とゆき子は〈性〉で結びついた仲ではあっても、相手の
気持ちを深く察して、自分の生きる方向性を決めるといった姿勢は見られ
ない。ゆき子は富岡から呼び出しがあれば、それに応ずる。これから伊香
保か日光へでも行かないかと誘われれば、すぐに伊香保がいいと答えるゆ
き子である。いつもいつも、別れのカードを懐に入れてゆき子と逢ってい
るろくでなしの富岡が、この時は、そのカードの裏を返して、伊香保か日
光かの二者択一を巧妙に選ばせている。伊香保と決まった、そのカードの
裏には〈心中〉と書かれているが、そんな文字は或る一定の時間がたてば
しぜんに消えてしまう代物であった。
ゆき子が四谷見付から渋谷まで、一歩さがって歩いていたとしたら、富
岡の背中に滲んでいるのは、ダラットの森の中の〈卑しさ〉ではなく、単
なる〈哀れさ〉であったろう。ゆき子は、師走の冷たい雨に濡れながら、
富岡の〈哀れさ〉を黙って見つづけることができる残酷さを持っている。
「本能的に、毒舌家の富岡を、ひどいめにあわせてしまいたいような、反
抗の気が湧いた」とは、〈九〉章で、加野の熱い手に、柔い肩の肉をつか
まれた時に立ち上がってきたゆき子の内心の思いである。ゆき子には、男
に対する〈反抗〉〈復讐〉の思いが根深く潜んでいる。描かれた限りにお
いては、伊庭と富岡がその対象となっているが、その根源に〈父親〉の存
在があったと思われる。