『よしもとばなな』現代女性作家読本⑬が刊行される

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先日、鼎書房より『よしもとばなな現代女性作家読本⑬が送られてきた。私は「終末の光景と虹」を書いた。関連記事はここをクリックしてください。
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吉本ばななの「虹」

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吉本ばなな
ーー卒業制作「ムーンライトシャドウ」から「虹」へと貫く希望と終末をめぐってーー

清水 正

 ひとりの小説家が社会的に認知されるということはどういうことか。文学に特別な興味や関心がないものでも吉本ばななという小説家の名前を知らない者はまれであろう。が、わたしにとって吉本ばななは、吉本真秀子という日芸文芸学科の一人の教え子であった。否、単なる一学生ではなく高名な思想家吉本隆明の娘でもあった。今でこそ、ばななの父親が隆明なのか、ということになったが、彼女が文芸学科に在籍していた昭和六十年代頃の吉本隆明は絶大な影響力を持っていた。わたしが学生時代に関わった文学青年の多くは〈共同幻想〉〈対幻想〉などと言った吉本固有の言語をまるで吉本教の信者のように口にしていたものである。そんなこともあって吉本真秀子はまずは隆明の娘としてわたしの脳裡に記憶された。
 わたしが担当する「文芸批評論」はもっぱらドストエフスキーの作品をとりあげているが、真秀子が受講したのは昭和六十年で、記憶によればほとんど出席することはなく、従って教室内での彼女の印象はまったくない。レポートは「貧しき人々」について課題を出したが、その内容も突出していたわけではない。
 わたしが吉本真秀子に注目したのは、彼女が提出した卒業論文・制作である。彼女は小説「ムーンライトシャドウ」と副論文「MAKING OF "MOONLIGHT SHADOW"」を提出し、ゼミ担当の教師の推薦を経て、文芸学科の選考会で学部長賞を授賞した。当時、わたしは「江古田文学」の編集長をしていて、この作品の掲載を考えていたが、その交渉をする間もなく、吉本真秀子は吉本ばななとして文壇に彗星のごとく出現し、みるみるうちに人気小説家として名をなしていった。
 わたしが卒業制作「ムーンライトシャドウ」を最初に読んだときの感想は、一口で言えば〈透明感〉であった。二十歳を過ぎたばかりの若い作者がどうしてこんな悲しい透明感が出せるのか不思議に思ったくらいであった。あれから二十四年の歳月が過ぎたが、今回、鼎書房に依頼されて「虹」を読み、「ムーンライトシャドウ」を読んだ時と同じ感想を抱いた。吉本真秀子が学生時代最後に書いた小説と、「虹」は、まるで名人の釣り竿職人が作った棹のように寸分のちがいなくぴったりとはまった。わたしは吉本ばななの特別の愛読者ではなく、彼女の膨大な作品のほとんどを読んでいないが、二つの作品の同質性を確認して、彼女が一貫して同じテーマを執拗に追い続けていることを確信した。
 「ムーンライトシャドウ」の死と復活のテーマはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に通じるものがあり、わたしは今回、最初の時と同じく一気に読んだ。わたしは吉本真秀子の具体的な愛する者の〈死〉の体験を知らないが、この作品を読む限り、作者はただならぬ愛する者の喪失に立ち会ったという思いが直に伝わってくる。
 〈息子〉イリューシャ少年を失ったスネギリョフ退役二等大尉の狂気じみた悲しみ、カンパネルラの喪失に立ち会ったジョバンニ少年の悲しみ、憤怒、慟哭と通底する何かを感じた。
 人間の悲しみ、怒り、喜びに経験の積み重ねがどれほど影響するものなのか。愛する恋人、妻、子供を失った者の悲しさと、そういった経験のない者の悲しさにどれほどの違いがあるのかは知らない。人間の喜怒哀楽の強さを数量化して示すことはできない。学生だった吉本真秀子に愛する者の喪失があったのかどうかも知らない。ただ、彼女の書いた小説の主人公さつきが恋人の等を事故で失った後の限りない喪失感は直に伝わってくる。
 事故の現場となった〈橋〉はこの世とあの世をつなぐ境界であり、死と再生の秘儀の場所ともなる。小説全編に〈白〉〈青〉の色彩がちりばめられ、深い悲しみが透明化されてしみわたっている。大声をあげての絶叫、怒りや悲しみの噴出があるわけではない。悲しみの感情は押さえ込まれ、ウォーキングという身体運動で、悲しみや怒りの感情は押さえ込まれる。
 悲しみいっぱいのジョバンニ少年に銀河ステーションの声が聞こえてきたように、さつきにもうららという謎の女性が現れ、死んだ等が蘇生する場面を用意する。一歩間違えば、小説のリアリティは即座にアニメ的虚構に転落する。が、吉本真秀子は敢えてその危険な橋を渡った。
 愛する者の喪失、その〈死〉という絶対喪失を、〈復活蘇生〉した姿で現出させることで、どうしようもない悲しみを乗り越え、新たな生をスタートラインに立たせる。主人公を悲しみと絶望の底に突き落としたままですますことはできない。
 吉本真秀子は副論文で「大人になることは、淋しいことだ。幼いころ信じていた幸福はすべてまやかしであり、人生は本当にひとりだけであることを人は知る。しかし、そのまやかしを再び、まやかしではない何かにするために、人はもう1度、努力することができる」と書いている。
 〈努力〉という言葉は、それだけではかなり陳腐な響きを持っているが、吉本真秀子の場合はそうではない。恋人を失ったさつきの〈生に対する貪欲な本能〉〈死におかされた心の中に射しこむかすかな光に食いさがってゆく執念〉をきちんと見据えた上での〈努力〉である。
 この副論文には吉本文学の本質をかいま見させる重要な言葉が散在している。そのすべてを今ここで紹介することはできないので一つだけ引用しておく。

「同じ設定で私はどろどろと落ちてゆく不毛な人々を描くことも、できたかもしれないと思う。その効用も確かにあると感じることもできる。それでも、私は、はうようにして生きている人の中にも、何かがあるということに目を向けたい。それは、人を強くする何かである。もしかしたら、それはとても宗教的なものなのかもしれない」

 わたしは今、林芙美子の『浮雲』論を書き続けているが、この小説の主人公幸田ゆき子と富岡兼吾はまさに「どろどろと落ちてゆく不毛な人々」に属している。しかし、この二人の中にも真秀子の言う〈何か〉はある。
 吉本ばなな林芙美子の小説の違いは、人物の描き方にある。芙美子は人物が抱え込んでいる闇の領域に容赦なく踏み込んでいくが、ばななはその闇の領域に敢えて踏み込んでかき回すような描き方はしない。
 人間をどこまでもリアルに追い続けていけば〈どろどろ〉は避けられない。真秀子が描いたさつきの視線は、闇の領域をどこまでも追っていく垂直的なまなざしでもないし、天空を仰ぎみるまなざしでもない。さつきは恋人を失った悲しみを紛らわす方法としてジョギングを選んだ。
 ジョギングする者のまなざしは水平的に遠くを見るまなざしであり、下方に対しても上方に対しても水平的な緩やかなカーブをともなったまなざしである。このまなざしにとらえられるのが蘇生した等である。
 吉本真秀子は副論文の最初に「私が、小説を書くということを始めてから最も深い影響を受けた作家は、スティーヴン・キングである」と書いているが、わたしは「ムーンライトシャドウ」を読んでドストエフスキーの『罪と罰』や宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を想い浮かべていた。
 さつきの前にとつぜん現れるうららは、シベリアに流刑されたロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフの傍らにとつぜん現れるソーニャや、ジョバンニ少年が乗り込んだ銀河鉄道の列車にとつぜん姿を現したカムパネルラを想起させる。
 ロジオンは早朝、丸太に腰掛けてイルティシュ川の向こう岸を眺めている。朝陽が川面にキラキラと輝いている。とつぜん、緑色のショールをかぶったソーニャが現れる。ある何か得体のしれないものがロジオンのからだに襲いかかり、彼はソーニャの前にひれ伏す。
 作者はロジオンが復活の曙光に輝いた瞬間を描いて『罪と罰』という小説の幕を降ろした。カムパネルラはコールサック(石炭袋)を指さし、そこにみんなが集まっている本当の天上世界があると言う。ジョバンニはいくら眼を見開いても真っ黒な闇の穴しか見ることができない。
 さつきの前に現出したうららは、等の復活蘇生を予告するような暗示的な言葉をささやく。読者は等の〈復活〉に期待を寄せながら小説を読みすすめることになる。吉本真秀子はどのようなかたちで等の〈復活〉を描くのか、それともそれは何の根拠もない妄想ごとなのか。
 作者はいわば自分の作品展開に関しては神的絶対者の立場にあるから、どのようにでも描くことができる。真秀子は絶望と諦念ではなく希望の方へと眼差しを定める。真秀子は垂直的に地獄へ落下することも、垂直的に天上の神への信仰を獲得することもない。
 さつきが見ているのは水平的な眼差しがとらえた等の〈復活〉であり、それは自らが新たに生きるための優しい断念でもある。〈虹〉はこちらから見られた二点を繋ぐ架け橋であり、こちらとあちらを繋ぐ架け橋ではない。愛する者とのかけがえのない体験を、こちらとあちらの関係でとらえている限り、新しいひととの、新しい第一歩を踏み出すことはできない。
 さつきは等との関係を遠方の空に浮かぶ虹の架け橋に置き換えることで自らの再生をはかった。うららはそのさつきの〈再生〉を促すもの、真秀子の言葉で言えば「死なずに生き続けてゆく、時空を超えたエネルギー体」として現れた存在で、役目が終わればさっさと舞台から姿を消す。

 今回依頼された「虹」を読んで、この作品が卒論制作の「ムーンライトシャドウ」のテーマとまったく同一であることを確認した。ドストエフスキーは一貫して神の存在を悩ましく問い続け、宮沢賢治は地上世界での万人の幸福の実現を願い続けた。
 吉本ばななは、一貫して〈虹〉に象徴される〈希望〉をテーマにして、日常を生きる人間の諸相を描いている。深淵に落下することなく、天上世界に飛翔することもなく、地に足をつけて生きている者たちのささやかな喜怒哀楽を透明感あふれる光景のうちに描きだしている。
 吉本ばななの文章は、油絵のような厚みもギタギタもない。どちらかと言えば水彩画のような軽いタッチで人間を描いている。敢えて深く踏み込まず、サラッと描いているにもかかわらず、主人公が見る〈虹〉が確固とした希望として読者に伝わってくるのは、吉本ばななの内に〈うらら〉が存在し続けていることの証であろう。
 ドストエフスキーは十七歳の時に兄のミハイルに宛て「人間は神秘である。その神秘を解き明かすために一生を費やすことに悔いはない」と書いた。
 吉本ばななは副論文で次のように書いている。

  私は、自分が普通の日常を大切にしながら女性として明るく楽しく美しく、気楽に淡々と生きてゆきたいと常に思っている。それは幼い頃から今に至るまで少しも変わっていない欲求や目標である。
  しかし、そのことと全く同時に私は、人間であることのつらさから救われたいと常に願っている。そのためには、どんなつらい努力をしてもいいと思う。それは、全く別の2つの流れとして私の中にある。それがあまりにちがいすぎて、緊張をゆるめるものがない苦しさが、私に文章をかかせているのかもしれない。
 

 書き続けることが生きる証であるようなひとを作家と言うのであれば、吉本ばななもまた間違いなく一人の作家ということになる。人間は希望なくしては生きていくことはできない。逆説的な言い方をすれば、希望なくしては絶望することすらできない。吉本ばななはこれからもずっと〈虹〉を描き続けていくのであろう。

 わたしにとって吉本ばななは、小説家ばななである前に、日芸文芸学科に在籍した一学生真秀子であり、「ムーンライトシャドウ」を卒業制作として提出し、優秀作品として推薦され、学部長賞を受賞した学生であった。はっきり言ってそれ以上でも以下でもない。が、その作品を江古田文学に掲載できなかったことに関しては悔いが残った。今回、依頼があった作品「虹」を読んで、ばなな作品に改めて興味を抱いた。「虹」もまた「どろどろと落ちてゆく不毛な人々」を描いていない。おそらくばななの作品群はどこを切っても金太郎の顔が出てくる棒飴のように、どの作品にも〈虹〉という顔が出てくるのであろう。

 天性的な資質もあるのだろうが、ばななの作品に漂う透明感はただならぬものがある。実はこの「吉本ばなな」論を書いている最中に池袋で大地震に襲われた。宇宙に人工衛星を飛ばせても、現代の科学は正確に地震を予知することができない。たまたま東京のビル群は崩落を免れ、わたしも一命を落とすことはなかったが、しかし命が死と隣り合わせにあることを強く感じさせられた瞬間であった。
 ばななの作品は、不断に〈死〉を抱え込んだ〈生〉を描いている。つかの間の生の時間に死の永遠の時が流れ込んでいる。東北太平洋沿岸を襲った巨大な津波はたちまちのうちに船、車、家を呑み込み、町全体が廃墟に化してしまった。真っ黒な津波の先端はまさに悪魔の巨大な舌先にも見えた。
 わたしはテレビで津波が襲撃する凄まじい場面を見ながら、そこにばななの透明な〈死〉がなだれ込む場面を重ねていた。ばななの作品では〈死〉は黒い巨大な塊となって襲撃することはない。〈生〉の岸辺に〈死〉は果てしのない広大さで包み込んでくる。ばななの小説世界は、広大な死に覆われているからこそ、青く、白く、優しく輝いている。「ムーンライトシャドウ」で言えば、かけがえのない恋人を喪ったさつきの傍らにはいつも永遠の時を象徴するうららが存在しているようなものである。
 「虹」の依頼を受け取った時、わたしは宮内勝典の『魔王』を読み終わり、山城むつみの『ドストエフスキー』を読んでいた。時は卒業論文面接を控えて十五本の作品を読んで講評を書かなければならなかった。学生が春休みの期間、大学の教師は複数会の入試と諸会議に追われることになる。文芸学科の学生たちは将来、小説家や編集者になることを望んでいるから、彼らの書く小説はそれなりに読ませるものが多い。書き続けられるチャンスが与えられ、経済的に保証があれば、社会的にも認知されるであろう可能性を備えた者も決して稀ではない。
 わたしは今回、そんなことも考えながら吉本真秀子の卒業作品を読んだのだが、ひとつだけはっきりしたことは、真秀子の作品に誤字脱字がなかったことである。どんなに読ませる小説や論文であっても何カ所かは必ず誤字脱字は存在する。が、真秀子の作品にはそれがなかった。これは、真秀子が自分の作品を何回も読み直して予め訂正しつくしていることを意味する。自分の作品を大切にし、読み手のことを考えている結果である。こんなことは審査にかかる卒業制作を提出するにあたってあまりにも当然のことなのだが、この当然のことがなかなかできていないのが現状である。わたしは改めて吉本真秀子がその当たり前のことをきちんとしていることに感動した。
 今、否、いつの時代にあっても小説や芸術作品を客観的に評価する絶対的な基準などはない。わたしは小説を読むときに、心に残る、心に突き刺さってくるような文章や場面がどれほどあるかを評価の基準にしている。この基準ですら相対的なものでしかないが、わたしがわたしとして、わたしの魂に響いてくるものを評価の外に置くことはできない。
 次に「虹」の中でわたしの心に響いた言葉をいくつか引用したい。

  私には、自然な時間の流れに乗っていない、都会人のあわてた、欲深い行動、何もかもが有償であることがとても理解できなかった。

  波音がくりかえし耳に響いていた。鳥が空を越えて帰っていく。

 そこに住んでいる家族が「これからもずっと住んでいこう」と思っているあのなれあった、鳥の巣のように汚れてこんもりと暖かい、すっかりだらりとした気楽なものが、そこにはどうしても感じられなかった。

 まるで孤児のようにただ建っていて、ずっと誰かを待っているような感じだった。寂しい家はそこにいる人をただわけもなく寂しくさせる。

 簡単に犬や猫を捨てるという考え方は、ずっと動物を飼ってきた私にとってどうしてもなじめないものだった。それならまだ、夫以外の人の子供を宿す感情のほうを理解できるように思えた。

 彼の目には、まるで植物を見る時の私の目のように穏やかな表情が浮かんでいた。放っておいても大丈夫なものを優しい気持ちで見る時の目だった。

  黒い足、白いエイ。天高く響き渡るかもめの声。寄せては返す透明な水。遠くの空にははけでさっと描いたような白い雲が薄く広がり、光は刻一刻と強くなっていた。餌付けの女性はきれいな布でできたスカートをたくしあげ、きれいなふくらはぎを見せながら、水の中をゆっくりと歩いていた。たまにまぶしそうに手をかざして青い空を見上げた。

 明日もなく、将来もない、今日だけがあるそういう暮らしだった。
  そういう単純な暮らしこそが、私の夢見る暮らしだった。

  昔、家族で 紀州の海沿いをずっと走っていた時のことだった。あの時、午後の港町をいくつか通過し、その明るさと静けさに驚いたものだった。物理的に静かなだけでなく、もうひとつの時間がかぶさっているようだった。古代から続く、大地と海が隠し持っている雄大な時間の流れ……。

  ところがその沈黙は、少しもいやな沈黙ではなかった。空気の中に時間の粒がきらきらと光るのが見えるような、そんなおいしい空気を思い切り吸い込んで肺の中が美しいものに満たされているような、そういう味のする豊かな沈黙だった。

  バーには巨大な流木がたくさん飾られていて、その奇妙に丸く折れ曲がった様子に流木たちの長い旅を感じた。

  潮の匂いのする風がこの小島に吹き始めると、夜は力を増して全てを飲み込み始める。怖くて甘くて、たちうちできない、死に似た深みが海のほうからやってきて沈黙と共に世界を満たし始める。

  そう、深刻な気持ちさえ、この島ではいつでもそう長く持っていられなかった。何か深く考え込んでいることができなかった。ここでの毎日はその日のことで精一杯だった。熱すぎて、陽射しが強すぎて、まぶしすぎて、考えは立ち止まってしまう。夜は深すぎて、暗すぎて、風が強すぎて同じことだった。

 真っ暗な闇を抱えた夜が小さな浜にずどんと落ちてきても、私はたいていずっと中立の気持ちのままだったった。すごく明るくもなければ、暗くもない、今現在しか存在しない、心が麻痺している状態だった。

  すごいなあ、この緑と花の勢いは。そんなことを思っている場合ではないのはよくわかっているのに、とりつかれたかのようにそんなことばかり私は考えた。月明かりの下でも激しく生きている。海の中には気味の悪いくらい無数の生命がひそんでいて、夜の中でやはりうごめいている。人間なんてそういうものに取り囲まれてごちゃごちゃ何かしているだけだ、そう思えるくらい、この島では自然の勢いがちゃんとものを
言っていた。

  私は面倒なことが嫌いで、そして本当は情にもろい自分を律してただ仕事にうちこんできたことだけを支えに生きてきていて、いつでも面倒なことになると自分の心をしっかりと閉ざして、見えないふりをしてきた。

 お互いの体の匂いを知っていて、毎日のリズムを知っていて、肌でわかりあっていて、無頓着な……そういう人のいる空間に身をひたしたかった。

 私は動物を人間の都合でずさんに扱うのも、夫婦のもめ事を見せつけられるのも、血の通っていない形だけの家庭をきれいに掃除するのも、尊敬するご主人様の子供ではない赤ん坊を世話するのも、とてもいやだった。

  ステレオからは世にも悲しい音楽が流れていた。はりさけるようなボーカルと、美しいギターの音色と、絶望を描いた曲調と。それらは曇った窓に水がどんどん流れて外の景色が虹色に見える様子に奇妙に似合っていて、胸をしめつけられた。

 「人は、幸せになる権利がある、違いますか? 人生はすごく大変だし、面白くないこともたくさんある、でも何か高くてきれいなものを見ている権利は誰にでもある、そう思いませんか? ましてこんなに複雑に変になってしまった自分の世界を、もう一度シンプルなものに戻したいと思って、いけないのだろうか。」

 「私は、ずっと自分の人生を単純にすることに心をずいぶんとくだいてきたのです。私は、巻き込まれるのはいやです。夫婦の問題に。」

 「そりゃあ、そうですよね……。よくわかりました。」
  ご主人様は言った。音楽は終わり、雨音だけが車の中に入ってくるかのように響いていた。彼はじっと黙って、傷ついた心を抱え込んでいた。まるでさかりのついた猫のように、彼の全身から、私に対するどうしようもない、行き場のない欲望がにじみ出ていた。苦しげに彼は沈黙していた。

  痛いくらいに強い力で、私の手を押さえ体を押さえつけるご主人様の重い体の感触を、私はなぜかどこかで知っていた。(中略)彼の心臓の鼓動が私の耳に響いていた。ああ、同じだ、猫も犬も人間も、みんなひとつの心臓を持って生まれてきて、毎日を精一杯生きているだけだ、なのになぜ、人間だけがこんなにややこしくなってしまうんだろう……抵抗を続けながら私は思った。

 私のま下着の中に入ってきた彼の手の感じは、まるで割れそうな卵をなでるように、手の中に小さな虫を持ってそっと歩いている人のように優しく柔らかく、何かとても大切に思い畏れるものに触る時の感じだったからだ。

 彼の指の柔らかい動きに応えて私が濡れているのを知った時、彼は驚いて私の顔を初めて見た。とてもきれいな目だった。欲望に汚れていない目だった。
ひとはどのように小説を読むのか。「ムーンライトシャドウ」は日芸の教師として、学部長賞の候補作品の一つとして読んだ。「虹」は鼎書房の現代女性作家読本シリーズの第二期の一冊『よしもとばなな』の刊行企画のために依頼されたことで読むことになった。鼎書房が依頼状を送付したのは記された日付によれば平成22年11月30日、わたしがそれを大学で受け取ったのは12月2日である。11月29日に宮内勝典の『魔王』を読み終え、30日にブログに感想を書いた。依頼状が届いた12月2日に文芸学科の資料室から幻冬舎文庫の『虹』を借りだし、その日の夜に読み終えた。3日から山城むつみの『ドストエフスキー』を読みはじめた。
 時は年度末試験を控えて担当科目「文芸批評論」「文芸特殊研究Ⅱ」「マンガ論」「雑誌研究」「文芸研究」のレポートが続々と送付されてくる。担当する一年と三年のゼミ雑誌、顧問を務める自動車部の雑誌、「雑誌研究」の機関誌「日野日出志研究」の編集などで時間がとられる。一月に入ると卒業論文の講評・面接審査、優秀論文審査、大学院修士論文の講評などが続き、その間、数回に渡る入試と諸々の会議(執行部会・学部運営協議会・入試委員会・人事委員会・図書館長会議・図書委員会)がある。主宰するD文学研究会から今年二月に刊行した下原敏彦・康子共著の『ドストエフスキーを読みつづけて』の編集や印刷所との打ち合わせ、林芙美子の『浮雲』論の執筆と拙著『林芙美子屋久島』の執筆、編集、装丁と印刷所担当者との度重なる交渉がある。このほかに種々の展示会を訪れたり、ブログ記事などを書いて時が過ぎていく。
 こういった時を過ごしながら、わたしは『虹』を読み終えたその時に、今回、何を書くかのおおまかな構想を得ていた。
 宮内勝典の『魔王』の最後の場面は「筏が遠く消えてゆく水平線から、熱雲のようにキノコ雲がいっせいに湧きたってくる」である。
 今年三月十一日午後二時過ぎ、突然、東北関東地方を巨大地震が襲った。太平洋沿岸部を襲撃した大津波福島原発は機能を麻痺、不気味な爆発を繰り返し、放射能を日本列島上空にまき散らしている。
 吉本ばななは『虹』の中で「潮の匂いのする風がこの小島に吹き始めると、夜は力を増して全てを飲み込み始める。怖くて甘くて、たちうちできない、死に似た深みが海のほうからやってきて沈黙と共に世界を満たし始める」と書いている。
 この小説の舞台はタヒチだが、福島原発事故後の今の時点でこの文章を読むと、ゾッとするほどのリアリテイがある。『魔王』の〈キノコ雲〉、『虹』の〈死に似た深み〉、東北関東を襲撃した地震津波、それらに続く原発事故、何か不気味なほどの符号を感じる。
 三月十一日夜、原発事故を報ずるテレビ中継カメラが何度も繰り返し映し出した福島原発〈6〉号基の、その〈6〉が何か不気味なことを予告しているようにも感じた。
 昨日、被災地を報道するテレビを見ながら、ふと「世界の不条理に対して悲憤を込めて乾杯」という言葉が脳裡をよぎった。
 吉本ばななは『虹』の最後を次のように書いている。

 「これはきっと吉兆だ、できすぎているくらいに吉兆だ、この光景を目にやきつけて、あとはもう何も見ないで、ただ自然のままに」と私は祈るように思い、ただただいつまでも、その小さく確かに輝く虹を見上げていた。

 『魔王』の最終場面は世界終末の幻視的光景に見える。地上の楽園タヒチは永遠の時、死の時に包まれている。〈キノコ曇〉と〈輝く虹〉を重ねて視ながら、わたしは幸田ゆき子が死んだ後に富岡兼吾が見上げる〈浮雲〉をながめる。
 平成23年3月19日(土曜)五時六分完了。
(この「吉本ばなな論」を四百字詰め原稿用紙九枚にまとめたのが鼎書房の本『よしもとばなな』に収録される予定である)

吉本ばななの文芸学科卒業制作・論文を読んで

清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。
ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
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清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
http://www.youtube.com/watch?v=1bd1pbl20vA
http://www.youtube.com/watch?v=nZ9Zm_V2jdo&feature=related
吉本ばななの卒業制作・論文を読んで
ーー東北関東大震災に直面してーー
清水正
 
 東北関東地方を突然襲った大地震とそれに続く巨大津波によって沿岸部の村や町は途方もない被害を被った。一瞬にして家、車、船が飲み込まれ、何万人もの被災者が出た。家族や友人を喪った人たちが、それでも悲しみを押さえ込んで必死に生きようとしている。

 今、地震津波によって福島原発は危機的状態にある。放射能被爆する不安と恐怖を感じながら、危険圏外へ脱出できない者も数多い。絶望と諦め、焦燥とストレスが蔓延してもおかしくない状況下にあって、日本列島に暮らしを定めた者たちの生きようとする強い意志を感じる。


 この小説の主人公さつきは、恋人の死を通して初めて、日常の平和がどんなにもろいもので、孤独や死や狂気がいつでも隣りにあったということを知り、ショックを受ける。

 本当の所、彼女は1日中ベットにもぐっていたいような心境であり、押されれば倒れてしまいそうに心細い。暗い思いが押してきて、息をするのがやっとというような、力のない状態である。しかし、彼女の中にはたったひとつゆずれないものがあり、本人もそれが何なのかわからないけれど、そのラインだけは守りたいと考える。そして毎朝走ったり、食べることや人に会うという日常的なことを大切にして、それにすがりながら、細々とチャンスを待つ。そして、直接的にではなくても、そのことによって救済される。

 ここに引用したのは吉本真秀子が昭和61年度文芸学科卒業制作「ムーンライト・シャドウ」に付した副論文の文章である。わたしは三月末までに、鼎書房の依頼によって吉本ばななの「虹」について書くため、二十四年も前に優秀論文審査のために読んだ彼女の卒業制作・論文を再読することにした。わたしは依頼された原稿にも書いたが、真秀子の小説に漂う透明感を改めて確認した。この透明感は生の世界に死の永遠の時をなだれ込ませたような感じで、「虹」の舞台となった世界(タヒチ)にも感じる。死をはらんだ生の世界は白、青、光に満ちていて、ゾッとするような静けさをたたえている。

  私は、人間がとてもデリケートであると同時に、タフなものであることを肯定的に言いたかった。

 この言葉に端的に表現されているように、「ムーンライトシャドウ」の主人公さつきは自らの生に対して前向きであり、タフであり、決して絶望の淵に落ち込むことはない。が、さつきが愛するかけがえのない恋人・等の喪失に立ち会った主人公であることは忘れてはならない。さつきという名前は死をはらんだ、復活蘇生を体現するものとしての〈五月〉である。

 デリケートであると同時にタフであるさつきの傍らに謎の女うららがとつぜん現れ、さつきの生を支える。うららに関して真秀子は次のように書いている。

  うららは、例えば柊がさつきの哀しみを等倍した人物だとしたなら、ちょうどそれを普遍化した人物である。強さということをつきつめていった人物である。彼女は「死なずに生き続けてゆく、時空を超えたエネルギー体」として設定した。愛や結婚や仕事、家、子供を産み育てるなどの、人が孤独を忘れることのできるすべての行事を取り去ったとしたなら、その人はどうやって生きてゆくのか。死がないのなら、何を前提に生きるのか。それは人間の永遠の憧れであると同時に、最も深い絶望である。うららにとって、人生は単に遠大なヒマつぶしである。ただ、興味の方向へと流れてゆき、留まり、また流れてゆく。それでも彼女はさつきに対して親切である。うららは、私にとって親切の概念そのものである。 

 わたしはこういった文章を読むと、うららの存在を『罪と罰』のポルフィーリイ予審判事に重ねてしまう。二人の女を殺害したロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフに向かって、あなたは太陽だとか、ためらわずに命(жизнь=イエスの言う命)へ飛び込みなさいとか言うポルフィーリイは、ロジオンに「いったいあなたは何者なんだ」と問われて、「私はまったくおしまいになってしまった人間です」などと答えているが、しかし彼が彼流のやり方でロジオンを救済しようとしていることは確かである。真秀子の言葉で言えばポルフィーリイはうららと同じように〈死なずに生き続けてゆく、時空を超えたエネルギー体〉であり〈親切の概念そのもの〉なのである。ポルフィーリイを辛辣で鋭利な分析力と直感力を備えた予審判事としてのみ見ていたのでは、彼の『罪と罰』における本来的で神秘的なその役割を認識することはできない。
 真秀子はうららに関してさらに次のように書いている。

 さつきの、本人にもわからない領域にうららは救いを与える。自分の人生に対する諦念や、つみ重ねた様々な体験をどう使えば他人が助かるのかを、他人ができる範囲で知りつくした存在として、自信と理性から来る思いやりをもって、うららはさつきに接する。他人から受け取るものに深い期待をよせることができない分、彼女にとってさつきは、ほんの通りすがりである。そのことを、いやというほど知りつくしていても、うららはさつきに対して親切であるのが自然であり、とめることはできない。あまりにたくさんの時間を持ち、あまりに深い絶望を知っていても、多分その分だけ、人はそうせずにはいられないのではないかと、想像したかった。

 うららは、ポルフィーリイと同時にわたしの内にソーニャを思い出させた。ソーニャはロジオンに大地への接吻、公衆の面前での罪の告白を命じたユロージヴァヤ(宗教奇人=聖痴愚)であり、ロジオンを復活の曙光へと導いたヴィデーニィエ(実体感のある幻)であった。わたしの内でソーニャは、一娼婦に化身して現れた〈キリスト〉でもあるが、まさに〈死なずに生き続けてゆく、時空を超えたエネルギー体〉としてのうららもまた〈ソーニャ=キリスト〉的存在の様相をまとっている。

 真秀子がここで言う、うららのさつきに対する〈親切〉が実に深い思いの果てに出てきているかに注意したい。二十歳を過ぎたぱかりの学生の文章とは思えないほどである。真秀子が想像したうららの〈親切〉こそは、ポルフィーリイのロジオンに対する〈助言〉やソーニャの〈指示〉に通じるものがある。〈人はそうせずにはいられない〉という言葉に、真秀子の前向きな、肯定的な、遠方に虹を見る希望の眼差しを見る。

 真秀子はさらにな書いている。

 さつきは、うららが本当はどういう人で、どこから来て、どこまで行くのかを全く知らないままだが、彼女のまなざしや言葉の端々からその孤独な深さを感じとる。うららはいつも楽しそうに生きているが、その裏にあるものを、さつきは見えるようになったばかりである。恋人を亡くした視点から見た世界に、うららはよく似ていて、その孤独が共鳴するので、さつきはひどく彼女に魅かれてゆく。それ自体が、さつきの生に対する貪欲な本能であり、死におかされた心の中に射しこむかすかな光に食いさがってゆく執念である。そして、うららはそれを知ると、できるかぎりの手助けをいとわない。そして、少女だったさつきはほんの少しだけ成長する。

 うららはさつきの中に潜む生に対する貪欲な本能を直観し、彼女を援助する。さつきの「死におかされた心の中に射しこむかすかな光に食いさがってゆく執念」こそが、さつきの新たな生を準備する。わたしは地震津波原発事故の三重の災難に遭遇して、なお生き残った人々が、諦めと絶望の淵に落ちず、逞しく生きようとしている姿を見ながら、吉本真秀子が卒論に記したこの言葉を反芻している。

 わたしが依頼された「虹」には次のような文章がある。

  潮の匂いのする風がこの小島に吹き始めると、夜は力を増して全てを飲み込み始める。怖くて甘くて、たちうちできない、死に似た深みが海のほうからやってきて沈黙と共に世界を満たし始める。

 「虹」の舞台は地上の楽園とも言われ、ゴーギャンがこよなく愛した南洋の島タヒチであるが、日本列島を震撼させた巨大地震、大津波、それに続く原発事故の危機的な状況下でこの文章を読むと背筋がゾッとする。

 吉本ばななの小説は単にありふれた日常に材を採った表層世界の日常を描いているだけではない。彼女の描く日常の世界には〈死〉という永遠の時間が覆い被さっている。もしこの光景を映像化するのであれば、東北関東沿岸部を襲ったあの巨大な黒い悪魔のような津波をも瞬時に追って、光の波が世界全体を覆い尽くすことになろう。吉本ばななの白、青、光に満ちた小説世界は永遠の時、死の時を内包した生の世界である。

 今、日本列島においては〈死〉が剥き出しのかたちでその冷酷な姿を突きつけている。この、突然襲撃してきた不気味なものは、生き残ったものたちに世界の不条理を見せつけているが、この人間にとっては不条理なことも、大いなる自然の運行の次元ではあるようにある、なるようになる摂理以外のなにものでもない。わたしは被災地を映し
だすテレビ画面を見ながら、「不条理に悲憤をもって乾杯」とつぶやいた。

 吉本ばななの作者の眼差しは高みにたつことはない。現実世界のありふれた日常を生きるふつうの人間の喜怒哀楽に限りなく寄り添っている。「ムーンライトシャドウ」の〈時空を超えたエネルギー体〉である〈うらら〉ですら高い所から垂直的に舞い降りてくるのではない。うららは、さつきの傍らに現れる。うららは、さつきの孤独と哀しみに限りなく寄り添う者として姿を現し、自らの超越性を誇示しない。主人公は幻想やファンタジーの世界へ逃げ込むことはなく、あくまでも地上の世界に足をしっかりと据え置いた上で、彼方に浮かぶ希望の〈虹〉へと眼差しを送る。〈死〉をはらんだ〈生〉の眼差しは決して生きることを諦めない。吉本ばななの作品において希望の〈虹〉が消えることはない。
2011年3月20日〜21日