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「日本の男らしさ」に関する十三のエッセイ風諸論
― 三島由紀夫生誕百年に寄せて 三島の超克と藤原定家への道 ―(連載4)
岩崎純一(岩崎純一学術研究所 所長、日本大学芸術学部 非常勤講師)
男とは(二) 昭和の男らしさについて
三島の死後、一九八〇年後半になると、いわゆる「三高」が男らしさの象徴となる。バブル崩壊後には「3C」が流行した。これらはいずれも女性側が生み出した言葉であった。
三島が自決の地に、京都や高千穂や伊勢や皇居近くでなく、自衛隊市ヶ谷駐屯地を選択し、決起できるはずのない自衛隊員を決起させられないまま、たった五人の男しか見ていないところで自決に至ったのは、私の中ではずっと、御所に向かって架空の高御座(たかみくら)を前に自決した万場世志冶の自決の様式美と比べられるものである。自決に様式美などあるか否か分からないが、遺した和歌、遺書、自決の様式のいずれを取っても、三島の辞世の歌、『豊饒の海』の末尾、当日の檄文、介錯の際の首が切れないドタバタ劇の全てを上回る完成度を誇っているように見える。
語と語、文と文を緊密な関係性、硬度の高い緊張度で結びつけていく三島の文体からすれば、同じ自決でも、その辺りにいる凡人の男の自殺どころでない計画性をもって遂行するかに思えるのだが、用意した檄文が、それまでの三島の全ての作品を下回る出来に私には思えたものだし、遺詠の歌に関しては森田必勝の歌の方が、和歌マニアの私には圧倒的に感銘を得るものだった。
おまけに、『豊饒の海』は仏教の唯識論を主軸に据えたものであって、自決の直前に書いてもおかしくなさそうな神道関連(神風連の乱など)や藤原定家(和歌における幽玄美や枯淡美などの日本の美意識)を書こうとせず、しかも死ぬといっても龍樹の空論や般若心経の五蘊皆空でなく唯識論の途中やめのように末尾を切ったところで、死んだのである。
須原一秀でさえ、生前から哲学的プロジェクトとして自決を計画し、最後は神社という場所を選んだのである。三島は自ら憲法を問題にしていながら、自衛隊駐屯地で死ぬという様式は、普通の男が当時の大蔵省に突進して死ぬとか、警察署に乗り込んで死ぬ様式と何が違うのであろうか、どこに凡庸でない至上・至高性があるのだろうかと疑問に思ったものである。万場世志冶や須原一秀のように、なるべく神々の吐息のかかった地に我が身を近づけるなり置くなりして死を遂げる方法を、三島は全く取らなかった。三島は政治天皇・人的天皇と文化天皇・神的天皇とを区別したが、せいぜい天皇を政治天皇に貶めた憲法を否定するにせよ、少なくとも日本国憲法第一章が特別に規定する天皇の神格のかかった神域(御所なり、神社なり)を選び、天皇価値を文化天皇・神的天皇として憲法から引っこ抜き助け出す意味を込めて自決してもおかしくなかったはずである。
三島のいう男の英雄性や男らしさの源泉が何であるかについて、実際に行われた自決パターンが右のようなものであるから、極めて分かりにくいのである。単に華々しく散り、自決したことが広く喧伝され、金閣寺放火事件並みのアプレ・ゲール事件の「カッコイイ男バージョン」として捉えられ、多くの男女に「もうあの人の作品が読めないのは悲しい」、「三島がノーベル賞を受賞するところを見たかった」と泣かれればそれでよかったのかとさえ思われる、相当に雑な死に方である。
ところが、三島の思う「男らしさ」を規定しているところの「天皇」概念の源泉は、意外に古いのである。こればかりは、若い森田必勝も到達できなかった古代史観と思われる。
三島は、『古事記』の時点で、既に神的天皇と人的天皇の分離を見ている。この見方は、実は吉備(岡山)出身であり、吉備史を研究している中で、「スメロギ」や「スメラミコト」といったのちの天皇を意味する大和言葉が吉備で生まれたと確信するに至った私や吉備史家の間では普通なのだが、三島は(ほぼ)単独で、『古事記』に書かれた天皇に日本が戻るべきなのではなく、『古事記』さえも天皇の神格と人格の離別を記録しているという気付きに至った。私は、この点は三島について最も高く評価している点である。つまり、景行天皇のように、人間天皇の元祖となったような天皇ではなく、その天皇に追いやられ、天皇になれなかった倭建命のような皇族男子らに、「天皇」を、「真の男」を、三島は見出すのである。
つまり、三島にとっては、突き詰めれば突き詰めるほど、『古事記』の時代にさえ、男が男を失った「近代」が既にあったと見えるのであり、三島の言う「近代」ないし「昭和」の日本はそれだけ極めて浅はかなものに見えていたのである。三島の古代史観は、万場世志冶や須原一秀に引けを取るものでは決してない。
恐ろしいと言うべきか、この三島の自決パターンは、理解の仕方によっては、石原慎太郎の政治家転向や、今でも時々話題に上る戸塚ヨットスクールの「男らしさ」観と手を結んだものに見えるのである。そもそも石原慎太郎は、戸塚ヨットスクールの思想の根っからの賛同者の一人だが、これは当然彼らには彼らなりの共通した「日本の男観」があるからである。戸塚宏氏も、仏教、儒教、神道、古代史ほかあらゆる哲学を渉猟した結果、あのような教育思想を持つに至っている。戸塚氏の古代宗教の勉強の仕方も相当なものだが、このスクールの場合、経営者側の教育手法が変わらない限りはマリンスポーツの訓練の最中にまた死者が出る可能性は残されている上に、逆に三島のように天皇賛美の自決者が出ても何ら不思議ではない。
明治初期においては、和歌・漢籍・英仏独語のいずれもできる最高の教養人たちが政府や文人を占めていたために、欧米列強による日本の植民地化を継続的にぎりぎりのところで避け続けることができた。ところが、戦後になると、日本国民に気付かれないようにGHQが天皇、日本文化、国民生活のいずれをもアメリカナイズすることに成功した。つまりは、日本人の前頭葉のアメリカ化が成功した。本来、特に男の大脳辺縁系・脳幹が弱いことを弱い男と言うのであり、ヒト科の基層にある古い脳部位に西洋的知性が前頭葉として乗るべきであるのが日本の男の、いや男一般の脳と肉体であるのに、ほとんどの日本の男がその様式を捨てた。文明の恩恵に浸るばかりの男には、海の威光や山の威厳といった大自然が強制的に与えてくる恐怖というものが強制的に与えられることがない。その恐怖を、ヨットというマリンスポーツにおいて「進歩を目的とした有形力の行使」として行っているというのが、戸塚ヨットスクールの主張である。これは言うまでもなく、三島と言わずとも、石原慎太郎の教育観に一致するものである。私もほとんどの部分に異論はない。マスメディアが戸塚氏の日本論を聞こうとせず、批判のみを行っている現状は言うまでもない。
確かに、妻と子供を残しながら九州防衛に出かけていく万葉時代以前の防人の強靭さ、朝鮮特需や高度成長期に浮かれているような男にはもう分からない戦中の特攻兵士の心、これらを、いかなる徴兵制も戦死も自決も無しに男に体で覚えさせようとしたならば、かつ強制的に戦闘地域や自然災害の被災地や原発の近くに男を送り込み住まわせる方法をとらないならば、必然的に戸塚ヨットスクールの思想になるのは目に見えている。男は人生で何回か海に落ちなければならない。石原慎太郎も、戸塚宏に真の男を見たのである。
三島が生きていたら戸塚氏に男を見たかどうか正確には不明だが、ちょうどこれを書いている今、私の父からの情報で、「石原慎太郎に政界進出を決意させた三島からの書簡が新たに見つかった」とのことだ。既に出ている『三島由紀夫 石原慎太郎 全対話』などには当然ない内容で、「卑怯者ばかりの文壇で、貴兄にだけは望みをかけてゐるのですから、どうか大切になさつて、十分の御静養を望みます」、「病気を一つの静観のチャンスとされ、世の有象無象のあわただしい動きをしばらく冷たく御覧になることを望みます」と薄々政治家転身を勧める内容となっているようだ、。この後、天皇観を巡って三島と石原は意見を異にするようになり、自決後には石原は三島を「虚構の人」呼ばわりするようになり、戸塚宏に共鳴し、戸塚ヨットスクールを支援する会会長となるのである。従って、石原慎太郎の中には、三島になくて戸塚にある「真の男の何か」があったわけである。
三島のいう「天皇」とは、男が西洋的理知を学んだ後に前頭前野で考えて憲法第一章において発見するような代物でないことは確かである。それは男の脳幹や辺縁系、間脳で官能的にアプリオリに発見されているべき価値である。究極的には、三島の愛する「天皇」とは、「人神・神人」である古代の男を「天皇」なる政治ツールに仕立て上げた、ヤマト王権なる愚かな氏族集団よりも前の「男」ということになる。つまり、三島は(実行はともかく、概念的に)天皇殺しを画策した可能性さえある。
但し、世のほとんどの男にこれが分からないとき、最も手っ取り早いのは、男の中でもとりわけ陰茎の大きな個体が登場して威厳を示すことである。しかし、黄色人種にはそれはあり得ない。石原は陰茎で障子を破る小説『太陽の季節』を書いて、遂には政治家や都知事として、体罰肯定論のもとで教育を変えようとした。戸塚宏は、海に男子を突き落とすことで古代の防人、戦国武将、大和魂の男を急速度で養成しようとしたが、死者を出さずに成し遂げることは不可能であった。三島は、自分の書いたどの純文学作品よりもあまりに完成度の低い檄文を掲げて自決した。しかし、自衛隊の防人化の理想は砕け散った。三者三様、それぞれが自分を男らしいと考えている。そして、どの行動も、夢が現実にあまりに先行している。事実は小説より奇なりとはこういうことだろう。