ネット版「Д文学通信」20号(通算1450号)岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載第16回)

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ネット版「Д文学通信」20号(通算1450号)           2021年11月25日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第16回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

五、日本の絶対者(イエス・キリストとしての天皇)と群衆道徳 松原寛の亡霊と共に

 

近代日本神道の根本 方程式「始原の存在=プラトニズムのイデアキリスト教唯一神天皇」としての絶対者の設計

 

    現代日本の学術界における「Deus」や「God」の訳語としての「(アブラハム一神教の)神」と「(日本古来の八百万の)神々」の混同も、もはや救いがたいほど論外だが、これは今に始まったことではない。江戸時代末期までは、漢語をモデルとして前者を「天主」(テンシュはデウスの音に通ずる)や「天帝」と訳し、古来の「神(神々)」から正しく区別し、明治時代においてもほとんどそうであった。

 「デウス」と大和言葉の「神」の違いには、フランシスコ・ザビエルも宣教の時点で気づいており、その後も宣教師と日本のキリスト教徒らは厳密に使い分けた。むしろ、元来は「デウス」自体が多神教男神の一柱だけを意味することから、人間・武士そのものや「天守」閣が「デウス」に比定されることもあった。しかし逆に、「神」の語をキリスト教唯一神に当てることはなかった。

 だが、大正・昭和初期あたりから唯一神の意で「神」が使用され始めた。戦後、カトリック教会が「神」を唯一神の正式な訳語と定める旨を宣言して以降は、日本の教会・クリスチャンと日本国民自身の怠慢によって、日本の神々は戦後民主主義生活の中で米国化され、その上で、国民個々人がすがる全ての対象、つまり唯一神および欧米化された多神仏を、何もかも「神」や「仏」と言うようになった。これを、決して敗戦とGHQの占領政策神道指令だけのせいにしてはならない。

 吉備の巫女たちの巫女神道は、太古のアニミズムシャーマニズムをよく継承しているが、現に彼女たちも「今年は交通事故に遭うか遭わないか、金が手に入るか入らないか、などを神様・仏様に問い尋ねる参詣・参拝方式は、神道のものではなく、安土桃山・江戸時代以降、とりわけ近代と戦後のキリスト教道徳を輸入した神道界が普及させた、神道の偽名を持つ猿真似キリスト教である」と断言しており、私も概ねこの立場である。

 ただし今、明治時代においても概ね「天主」と「神」とを区別していたと書いたが、これはキリスト教唯一神八百万の神々の違いを自らの知恵と筆で理解しているエリート作家(先の森鷗外など)や、祭祀儀式によって体感している(吉備の巫女たちを含む)非神社神道や中小規模神社の巫女たち、それを支えた各地元のごく一部の氏子・住民たちについてのみ、そうだと言える。だが、国家権力およびこれと結託している神道勢力(大規模神社の神官、神職男性)の動きは全く違った。

 彼らは、一神教の人格神(天主)にも「神」という語を当てることができる立場(国語政策を操ることができる立場)を利用して、多神の一柱にすぎない天照大神の直系子孫である(とされる)天皇唯一神の意味で「神」とした。日本においては、絶対者の差し替えは、大いなる宇宙の唯一神の座にキリスト教の神を持ってきた西洋の差し替え作業の結果をちゃっかり拝借し、その大いなる似非唯一神キリスト教の神)の座に天皇を据えることによって、実行されたわけである。

 これこそが、本稿で対比させた松原寛のキリスト教信仰・浄土信仰・天理教信仰・国体思想と、巫女たちの秘教神道活動の両方の、致し方ない根本的悪因であることを、今強調しておきたい。また、西洋の技術のみならず西洋・キリスト教の精神までをもすっかり輸入・転用していく近代日本政府に対する哲人・文人や巫女たちの違和感は、キリスト教に対してニーチェが持った違和感に比定することができる。

 巫女たちが神と呼んでいるものを真に理解するには、「神(々)」をGodやGodsだと考えてきたことで生じた誤謬を払拭しなければならない。

 

群衆(皇民)によるユダヤキリスト教の神の「すり替え作業」の極致としての国家神道

 

 明治の近代化と同時に、「神武創業」の始めにもとづく王政復古の大号令を発した維新政府と、これに追随した大規模神社は、神祇官の復興と近代神道の整備の両立を図り、神道の国教化を目指す中で、神道至上主義策(神仏合同布教の禁止、神仏分離)と宗教融和策(神仏合同布教の許可)との間で宗教行政の態度が定まらずにいた。むしろ、元々各地で発生していた民衆の廃仏毀釈運動と神仏習合・神宮寺の保全運動の両方を刺激してしまい、新たな廃仏毀釈神仏習合の双方を誘発し、自ら混乱を引き起こしていた。

 政府は一旦、神祇官を神祇省に格下げし、大教宣布の詔を発して宣教使を配置し、国民教化運動としての神道国教化を試みる方針へと舵を切り、近代社格制度をも整備した。さらには、仏教側に配慮するため、神祇省を廃止して教部省・大教院を設置し、新たに神官・僧侶らから成る教導職が三条の教則(三條教憲)に基づいて国民教化を行う体制とした。

 しかし、大教宣布の「惟神の大道」や、三条の教則の「敬神愛国」、「天理人道」などのスローガンからも分かるように、これらの動きは事実上、天皇神格化、祭政一致国家方針の強硬な推進策の、国民に対する隠蔽であった。

 国民が廃仏毀釈神仏習合保全運動とを繰り返す中、政府は最終的に開き直って、明治天皇を、神格を有する神道の主宰者と位置づけ、日本を祭政一致国家とすべく、神道国教化の強行に踏み切った。

 途中、さすがに帝国憲法が規定する信教の自由に抵触するという懸念と反発が起きると、政府は今度は、「神社は宗教でなく、国家の宗祀・祭祀である」という論法(神社非宗教論。ここでの神社とは神社神道のことで、事実上、神社神道非宗教論)を生み出して、神道を「国家神道」(非宗教の国家宗祀、神社神道、神祇神道、国家道徳。内務省神社局が支配)と「教派神道」(宗教神道、宗派神道、教団神道内務省宗教局、次いで文部省宗教局が管轄)に分け、表向きは前者の神道の(実際は神道全体の)最高神格に天皇を置いた。

 これにより、非宗教とされた神社への参拝を、いかなる宗教を信仰する国民に対しても強制することが可能となった。ただし、神社非宗教論は、実は(むしろ神道を教義体系に乏しい非宗教と見なし、宗教たる仏教の立場を護持しようとした)浄土真宗本願寺派勢力が最初に主張し、政府に提案したものであるが、政府はこれを逆手に取ったわけである。

 天皇と政府は当然、国民に対し、これを神道国教化の頓挫、信教の自由に譲歩した正しき皇民教化策への転換と位置づけたが、事実上は、政府・内務省・神祇院が神道を管理する神道国教化(国教神道)の完成である。

 興味深いことに、幕府・武家から政権を取り返した明治天皇と政府は、同天皇北朝系であるにもかかわらず、後醍醐天皇の親政(建武の新政)に自分たちの体制をなぞらえ、建武中興十五社に南朝勢力を祀っている。古代の神祇官の復興も、天皇神格の整備に利用されたのである。

 元より、「一神教」と「多神教」の語をあえて用いる場合、明治時代以前の宗教史も今一度とらえ直しが必要である。例えば、江戸時代においても、キリシタンは幕府から弾圧を受けたことに間違いはないが、これを一神教の信徒たちが儒学・仏教・神道勢力の東洋的統治体制から弾圧されたと見るのは間違いである。

 とりわけ五島列島など九州島嶼部の土着信仰を見ると分かるように、江戸時代の日本人がキリスト教だと思って信じていたものは、実際には鎖国下に輸入できた範囲の異端キリスト教イエズス会、一部のカトリックなど)と自然信仰・多神教との混合宗教である。それを、最も一神教的な儒学である朱子学(特に徳川将軍家のブレーンであった林家などのそれ)が、すなわち、オランダやスペインから断片的に学んだり中国を真似したりして築いた統治体制が、弾圧したと見るのが正しい。

 日本に最初に入ってきた一神教キリスト教の異端派で、日本人のユダヤ教徒などほぼいないし(そもそもほぼ認められない)、イスラム教徒もほとんどいないが(これもアラビア語に堪能でなければ極めて厳しい)、一神教の思考方法は巧みに導入したのである。

 私が今ここで論じているのは、多神教との折衷案やシンクレティズムとしてのキリスト教ではなく、西洋人が主張している一神教としてのキリスト教(の名を変えた世界進出)なのであって、従って、江戸幕藩体制が強行した朱子学道徳というものも、ここでは西洋形而上学的思考・キリスト教的倫理の波及・転用であると見ることができよう。

 明治から昭和期の国家神道もこれと同じである。政府は、大教宣布の詔以降、キリスト教への排撃を標榜したが、これは国民に向けた偽装であった。国家神道の実態は、ユダヤキリスト教をモデルとし、これを機密利用した、極めて人工的な一神教に他ならない。国家神道の整備にあたっては、天皇は神聖不可侵の唯一神とされ、西洋ユダヤ・キリスト・イスラム教の説く絶対真理としての人格神の地位を、現人神として、日本列島において専有・独占すべき旨が確認された。つまり、アブラハムの宗教の言う絶対真理としての神が人の姿として顕現したものが天皇で、その唯一神である天皇が地上に打ち立てた国家が日本とされた。

 これ以降にはびこる天皇・日本とユダヤの同祖論(日ユ同祖論)の根本理念は、実は当時の日本政府自身が生み出したものとも言える。前述した「デウス」の訳語の混乱を真っ先に利用し、唯一神を「神」と呼んだ最初の国内勢力こそ、政府と神道勢力だったのである。

 カトリック教会が唯一神の訳語を「神」とすることを宣言したのでさえ、前述の通り、戦後になってからである。キリスト教においてさえ憚られた、この唯一神の極端な人工的整備としての国家神道の真相については、当然今でも、宮内庁文化庁神社本庁とその傘下の神社、大規模な神社神道系単立宗教法人(靖国神社など)が公表するはずがない。

 一方で、宗教学者側の研究としては、井上哲次郎を師とした加藤玄智の国家的神道(国体神道神社神道)論および宗派的神道論が白眉であろう(『我が国体と神道』、『神道の宗教学的新研究』、『神道の宗教発達史的研究』など多数)。国家神道の語は明治からとっくに使われていたが、国民道徳(加藤の用語では「天皇教」・「忠孝教」)としての国家神道概念は、事実上、加藤玄智によって固まったと言えるだろう。加藤はまず、神道論を挟み込まずに、ティーレやシュライアマハーの宗教論を参照して、当時の日本の国民道徳が西洋の宗教(信仰的態度)と同質であること、天皇が神であること(西洋教が言うところの神とされている現実)を論じ、次いで国民道徳と神道とを結びつけて国家的神道として論じた。

 加藤の論は、天皇崇拝と神国思想の理論化に貢献したとはいえ、政府とも国民とも距離を取り、天皇が政府方針と国民道徳・群衆道徳によって唯一神ヤハウェ、ゴッド、キリスト)とされている現状を冷静に分析している。その十分な根拠に基づき、宗教局が管轄する宗派(教派)神道のみならず、国家神道をも明らかに宗教であると言えると主張したものであり、神社非宗教論には異を唱えている。あくまでも神社非宗教論の態度を押し通そうとした政府・神社局・神祇院にとっては、扱いに極めて困るものであった。

 ただし、加藤の国家神道の二分類(国体神道神社神道)は、精神面(帝国憲法、政治、文部省方針、国民道徳、学校教育)と外形面(内務省神社局、神社、鳥居、参拝形式)を便宜的に分けたものであり、普通はこれらを一体とした国家・国体神道そのものが神社神道とも呼ばれ、加藤の論においても必ずしも明確な分類基準があるわけではない。私が本稿で単に神社神道と言う場合も、ほぼ国家神道(の系統にある戦後の神道勢力)のことを指して用いている。

 松原寛は、シュライアマハーの宗教学説に触れるどころか、これを専門分野としていながら、国家神道・国民道徳とそれに基づく軍国主義大東亜戦争を必ずしも日本政府や日本人の「宗教」や「宗教行動」とは見ていない。むしろ、これらに「史的必然」の語を当て(『青年の新哲学』一三頁など)、従来の自然信仰・神道から非断絶の自然の摂理とさえ捉えており、少なくとも人工的宗教であるとは見ていない。国家神道の非宗教性と教派神道の宗教性の定義そのものについて、政府方針を紹介、追認するにとどめている(『生活の哲學』二二六―二二七頁など)。松原寛が主張するキリスト教の日本化も、自然信仰としての神道との習合というよりは、国家神道への融合・応用を指しているふしがある。ここに、最終的に一神教的な天理教信仰や浄土信仰にも耽溺していった松原寛とその哲学の、一つの隙があると見ることができるだろう。

 また他方では、一部の教派神道系教団や出雲神道、吉備神道(本稿で取り上げている巫女たち)などが、当時の国家神道を密かに研究し、公表の機会を狙っていることは言うまでもない。

 しかし当然、元よりタブーを気にする必要のない海外の研究者のほうが、その研究と公表を円滑に行うことができている。例えば次の論文などは、国家神道においては従来の神道から断絶した一神教的神概念が中心にあり、天皇が「唯一神、唯一皇帝、皇帝唯一神ヤハウェ、ゴッド、キリスト、アッラー)」(The Japanese Emperor as God)として万教の絶対者の地位を専有するとされ、大東亜共栄圏内の住民(ユダヤ・キリスト・イスラム教徒や多神教の民)にその信仰が命令された旨が取り上げられている。

 

James, W. Fiscus. Critical Perspectives on World War II. Critical Anthologies of Nonfiction Writing (Library Binding ed.). Rosen Pub Group, 2004.

Sun, Peter Liang Tek. A Life Under Three Flags (PhD Thesis). University of Western Sydney, 2008

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図五《紀元(皇紀)二千六百年記念式典》 東京、一九四〇年(『明治百年の歴史 大正・昭和編』)

図六《南洋神社鎮座祭》 パラオ、一九四〇年(『官幣大社南洋神社御鎮座祭記念写真帖』

 

 こうして、国家神道は、エリック・ホブズボウムとテレンス・レンジャーが『創られた伝統』で喝破したところの「伝統の創造」、「伝統の捏造」としての、近代日本における最初の作品となったのである。国営の神道(事実上の国教)である点、しかし国家自身はこれを宗教でなく国家祭祀・国民道徳であるとし、しかも神社神道として海外進出を推し進めた(海外に神社を建立し、宗教施設でないと言い張った)点で、体制としては、(宗教を認める)国家社会主義どころか(一党独裁を国教でないと言い張る中国のような)共産主義体制に近いものであったと言える。

 そして重要なことは、政府・神祇院が欧米列強から学んだ「神のすげ替え」工法による突貫工事で作り上げた国家神道を本当に定着させたのは、大衆としての国民(皇民)そのものであったということである。先に挙げたエリート作家・知識人層と、神社に所属するのみで神道行政に何ら発言権を持たない下層の巫女たちとの間に群れを成す、中途半端な西洋かぶれの一般皇民の熱狂こそが、国家神道の大成者であったことを忘れてはならない。

 これは、ニーチェ時代のドイツ群衆や、前述の「理性の祭典」・「最高存在の祭典」におけるフランス共和国民の狂乱と、同質のものである。欧州の皇帝や共和政下(特にジャコバン独裁下)の民衆の扇動手法や民衆自身による狂乱手法は、「天皇陛下万歳」方式の都合のよいモデルになったであろう。

 天皇多神教の一柱としてのデウスに比定せず、キリストの唯一神に比定する(政府が明治天皇唯一神を仮冒させる)という、カトリックの宣教師たちも驚く前代未聞のすげ替え作業は、元来の神道・仏教を忘れた民衆によって完成したのである。政府の神道行政方針が定まらず、神仏合同布教と神仏分離との間で右往左往したその背後には、神仏習合護持と廃仏毀釈の双方の運動に非神道的・非仏教的な熱狂と暴力をもって没頭する民衆たちがいたのである。

 Metaphysicalを「形而上」と訳した井上哲次郎が、当初は国体・国家優越論を説き、宗教・神道の整備を国民道徳の整備よりも下位に置いていたにもかかわらず、神道一神教化どころか、『教育勅語』による道徳支配に疑念を抱き始めたことは、慧眼であった。国家神道の教義は、宗教者以上に、国民道徳が作り上げたものでもあった。

 いつのまにか神道祭祀は、神々と交感する巫女のものから、神々(いや、事実上はキリスト教道徳)に奉納する神職のものになってしまった。皮肉を書いておけば、このような近代神道の素地の創作を先導した大学が、日本大学國學院大學皇學館大学である。だが、我らが日本大学だけは神職養成機能を持たない非神道系大学に変貌したと、我田引水の文言もわざと付記しておくとしよう。もちろん、皮肉である。

 国家神道キリスト教をも支配下に収める究極の大衆型唯一神教として君臨したことは、ミッション系大学の国家神道への屈服に、よく表れている。特に一九三二年の上智大生の靖国神社参拝拒否事件によって、日本のミッション系大学の国家神道への完全服従が決定的となった。

 この事件では、上智大の学生二名の靖国参拝拒否を新聞と大衆が非難し、カトリック教会が信者に対して愛国・忠君のための神社参拝を容認する事態となった。国家神道側も、神社神道は宗教でなく国家宗祀であるから、どんな宗教の信徒も参拝できるとする神社非宗教論を、より強硬に主張できるようになった。学長と神父たちは、学生への手本として、自ら靖国参拝を行うしかなかった。さらには、教皇庁までもが日本のカトリック教会に対し、聖省訓令「祖国に対する信者のつとめ」を発したのである。

 これは事実上、偶像崇拝唯一神教である国家神道が、偶像崇拝禁忌のキリスト教の発言権を封じた格好である。天皇国家神道および陸軍・文部省が、日本国内のキリスト教会・信徒のみならず、教皇庁を、イエス・キリストを、神を屈服させた戦慄の事件である。天皇は名実共に、イエス・キリストの化身でさえなく、それを配下に収める絶対的至高存在となったのである。

 当時の国家神道の主導勢力が、ユダヤキリスト教を猿真似した一方、西洋哲学をどこまで研究していたかは明らかでない。しかし、カントが、大衆社会の秩序を維持するために容認しなければならない存在としての神(最高善)を提示したように、国家神道も、いわば「天皇イエス・キリスト化は、皇民が国体護持のために是認しなければならない実践理性の帰結である」と皇民の無意識に訴えかけることに、多かれ少なかれ成功したと見てよいだろう。

 国家神道は、西洋から学んだ神のすり替え作業の最大の成果物であると同時に、日本が宗教で西洋を騙した唯一の機会でもあった。もっとも、一九四五年に訪れる結末の内容は、言うまでもない。キリスト教のプロが突貫工事の天皇キリスト教に勝ったというだけの構図である。そこに真の勝ち負けもなければ、神道的要素も一つもない。

 ここまで、西洋哲学の根本問題を確認した上で、日本において、「キリスト教」の名を持ちながらも実態は多神教・自然信仰・形而「下」学的信仰である場合があること(五島列島など島嶼部のキリシタンの信仰など)、逆に、「神道」や「仏教」の名を持ちながらも実態は西洋形而上学(彼岸の絶対的実在に期待する信仰)をそっくりそのまま意図的に転用した一神教である場合があること(戦前の国家神道など)、無意識のうちに一神教を勝手に乱用している場合があること(国家神道における皇民の狂乱、戦後日本人の現世利益・極楽往生神社神道における群衆的参拝行動など)をも確認した。絶対者観の特徴から言えば、天皇イエス・キリストと同一視したあげく、その上位に置くに至った国家神道は、非汎神論的唯一神教に分類できる。

 また例えば、田中智學率いる国柱会も当時、全ての神社の主祭神天照大神、少なくとも皇祖神のみに統一する運動を展開し、唯一神教法華神道の様相を呈していた。このように、多神・多仏宗教と見ることがもはやできない神道・仏教の宗派・宗旨は、国家神道の整備と共に急増した。

 それにしても、私の筆致としては、近代に引き続いて八百万の神々を忘却している日本の現状への憂慮から、全くディオニュソス的な、まるでニーチェや松原寛のような、厳しい筆致になってしまったが、これは私が意図したものでもある。

 さて、松原寛は、近代日本政府・国家神道によるキリスト教の転用の是非について、具体的に論じたことはない。日本人のキリスト教の猿真似を「米國基督教の出張販売」と罵倒しただけである。いや、むしろ筆致からすれば、国家神道を(その正体はあまりよく知らないままに)是認・追認しており、その根拠を説明せずに、いきなり天理教と浄土信仰と軍国思想に逃亡して終わる。

 松原寛自身は、(西洋の)哲学と(西洋の)宗教体系の破産宣告と、日本の若き戦士たちに対する米英への突撃の鼓吹とを、脈絡なく別個に行うばかりである。天皇イエス・キリストの生まれ変わりで、ひいてはイエス・キリストをも傘下に収める始原の絶対者であるとされたこと、つまり、キリスト教の神と神道の主宰神とカオスの神(一者)とが国家によって統合されたことは、松原寛の思想からすれば、甚だ悔しく腹立たしいことであったはずである。だが、そこをあえて無視したか、あるいは、天皇の神格化がキリスト教の壮大な利用であることに気づいていなかった可能性もある。

 だから、松原寛の哲学には、「西洋の猿真似としての天皇の絶対者化、国家神道の設計は、ギリシャ神話・ギリシャ悲劇、ソクラテスアリストテレスプラトンキリスト教、仏教、神道の全てに対する、(国家と皇民の)奴隷道徳による破壊活動であった」という、私が持っている視点は、全く生じなかったようである。しかし、もし松原寛が、神道によるキリスト教の悪用に気づき、あるいはもっと注目していたなら、少年期に自身のキリスト教を懐疑したように、自身の国家主義軍国主義精神をも懐疑していただろう。

 また、夏目漱石森鷗外は先に見た通り、神道改革から国家神道成立までの時期を、専ら西洋文明と自我との葛藤として生きたため、神道による西洋文明の転用への批判にはほとんど手が回らなかったようである。

 このような国家神道の似非神道性(ニーチェの言葉を神道において借りれば、僧侶的神道を奴隷的大衆に強制する僧侶的国家と、僧侶的神道に気づかない奴隷的大衆の、双方の驚くべき俗物性)について、最も鋭く指摘したのは、私見では保田與重郎であると見ている。その背景には、万葉集以来の古典の知識をベースとした「日本的ペーソスへの理解」があると私は考える。

 昨今は、西部邁に学びニーチェ哲学路線を歩んできた佐伯啓思が、日本思想に傾斜する中で、西田幾多郎と共に保田與重郎を取り上げている。日本の伝統が国家神道キリスト教的絶対者観によって失われてゆく悲哀は、確かに、キリスト教道徳に染まった群衆を見届けるほかなかったニーチェの悲哀とも重なるだろう。(ただし、私の大学在学時の思い出で述べたように、あれほど「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書に熱中しこれを執筆したニーチェ学者らが、ここに来て日本の心や東洋的無を語るのは、私は決して望ましい学者の態度だとは思わないが。)

 松原寛と同じく一高、京都帝大哲学科を経たのち、松原寛とは異なり西田幾多郎への師事に成功した西谷啓治などは、ゲルマン神秘主義や仏教に傾斜して近代の超克を目指したが、明治以降の神道の非神道化、僧侶的・奴隷的神道化という直接的な視点は見られない。

 西谷啓治小林秀雄らの『文学界』におけるシンポジウム「近代の超克」でも、日本に押し寄せた西洋文明の超克は謳われた。だが、天皇唯一神教化をテーゼとする国家神道こそが、旧来のアブラハム一神教をさえ冒涜しかねない似非一神教の極致として、皇民という大衆の上に君臨し、日本的ペーソスを破壊していったのであって、国家神道は西洋に対する抵抗には全くなっていないとする、私が主張するようなあからさまな価値の転倒が見られるわけではない。

 ちなみに、ニーチェがダーフィト・シュトラウスに対して当てはめた「教養俗物」概念は、日本の「教養」人においては、この近代の超克に集結した者たちが当てはまると私は思う。

 私としては、国家神道天皇を、イエス・キリストどころか始原の一者、大いなるディオニュソスとしてのカオスにまで比定したことは、原始神道ユダヤキリスト教の双方によって断罪されるべきだと考えている。それと同時に、国家神道が「一神教への到達=雄々しさ」、「汎神・多神教への執着=女々しさ」という、大して西洋でも重視されない価値観をも猿真似して天皇概念において転用・捏造し、大衆に(特に今から述べる通り、巫女に)強制したことも、許されがたき問題だと考えている。

 無論、男としてのイエス・キリストに男系男子天皇を一体化させるという設定がまず問題だが、さらに言えば、前述した日本主義・ニーチェ主義・日蓮主義者らによる男権主義・国家主義天皇に転用した発想が、全く問題であり、これが神道の原初の姿である巫女祭祀を、根本から破壊することになるのである。ニーチェの超人に男のロマン主義を見、民衆・女の弱者道徳ばかりを一刀両断する田中智學や高山樗牛の男権主義は、弱者道徳を群衆の男たちにこそ見、女性をむしろ男の哲学と道徳の泥沼から遠ざけておこうとするニーチェの超人思想や、後述のワーグナーの女性による救済思想とは、やはり大きくずれるのである。

 こうして見てくると、ニーチェ自身は西洋キリスト教の堕落に対応するのが精一杯であったが、その思想は日本神道の堕落に対しても、警鐘として完全に成立するのである。

 神道の近代化・一神教化・キリスト教化の国策が進んだ時代を、このように「日本的ペーソスの忘失」、「神道による神道の破壊」という観点から見る場合、最もひどく辛酸を嘗めた神道の徒として、本稿では巫女たちの例を挙げておきたい。ここにおいて、国家神道(国家祭祀、皇室神道神社神道)に対して教派神道(宗教神道、教団神道)や神道新宗教が果たした役割も明らかになるであろう。

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

 

ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

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2021年9月21日のズームによる特別講義

四時限目

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五時限目

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

sites.google.com