「雑誌研究」の最終レポートより



清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。



平成28年度「雑誌研究」(清水正担当)最終レポートより
「日藝ライブラリー」三号所収の清水正「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」を読んだ感想


雑誌研究課題「日芸ライブラリーNO.3」の4貢〜47貢「松原寛との運命的な邂逅」と156貢〜198貢「苦悶の哲人・松原寛」以上の二箇所の読後感想文

鈴木 恵里

 日芸ライブラリーNO.3の4貢〜47貢「松原寛との運命的な邂逅」と156貢〜198貢「苦悶の哲人・松原寛」以上の2箇所を読んで、まず全体を通して簡単に感想を述べると、「松原寛との運命的な邂逅」では松原寛という人物はどういった人物であるかという他に、先生自身が彼に対してどう思っているのかや先生が体験なさったこと、過去の出来事などが要所要所に織り交ぜて合って読み進めていく上で、表面上且つ少しではありますが先生の授業だけでは知り得なかったことを知ることが出来て正直嬉しかったですし感動を覚える部分もいくつかありました。その分、松原寛という人物に関しましては後の「苦悶の哲人・松原寛」でより限定的に読み取ることが出来たので良かったです。自分にとっては、どちらも結構膨大な量であり、またここで書かなくてはならない量もこれまた膨大なので、今回に至りましては読み進めていったうえでいくつかの自分が気になった部分、衝撃を受けた部分を抜粋して感想を述べていく形式で書き記していきたいと思います。まず文章の冒頭部分、本編への入り方の部分についてですが、軽く先生の自己紹介といいますうか、その中にも江古田駅北口や日芸校舎といった具体的な固有名詞が入っていることによって、自分の中でも日常的に体感している地名なのですんなりとその情景を思い浮かべることが出来ました。またそこでリアル性をも感じることができその後も無理なく読み進めていくことができました。そうした上で読み進めていくと、今度は逆に自分が過ごしている現代の情景と、文の中での時代情景のズレが早速生じ始めました。その代表格として挙げられるのが学生運動でしょう。これは本当に衝撃的でした。まず運動が起こる前の授業状態ですが、生徒のやる気は皆無、教授はというとこれまた熱意のカケラもなく、中身はあるようでなく、ただ決められた時間に自分の業務を全うしているだけの教師の抜け殻状態。このような状況であれば、学生側としても運動という名の暴挙を起こしやすかったのではないでしょうか。事実その暴挙は起こったわけですが、そうなればもちろん授業はすべて休講、ここで一つ疑問に感じたのが、当時この運動に参加しなかった学生らはこれらの出来事をどう思い見ていたのか、ということです。やれ幸いとその思いもよらぬ長期休暇を有意義に過ごしたのでしょうか。たとえそうであろうとなかろうと、ここに私は、運動に参加し血気盛んになっていた学生側と運動に参加せず授業が休講になっても素知らぬ顔で過ごせる学生側の間に生じる熱量の差に怪奇的雰囲気と言いますか、いうなれば恐怖すら感じました。次に坂口安吾の件ですが、文中で先生は負けないという言葉は坂口安吾から譲り受けた。と記されていました。それを筆頭に、そのあと先生の出生やご兄弟のお話へと続いていくわけですが、まずここでは負けないという言葉は坂口安吾から譲り受けたのかという単純な驚きと、先生は坂口安吾も読まれるのかという驚きがありました。それから、その少し後に書かれている、獅子は我が子を崖から突き落とし這い上がってきたものだけを育てるともいっていた。という言葉。これを読んでまず感じたのは、先生のお母様の強さです。正直私自身としましては、子供というものにまるで愛着心がないのでこれはあくまで世間一般における意見をもとに書かせていただきますが、本来母親というものは我が子を無くすことにおいてとても敏感且つ人一倍ショックを受ける生き物。いざでさえそうであるのに先生のお母様の場合は三人ものお子さんを亡くされて、しかも皆さん二歳にもならずに病没という早すぎる死。そうした中で四番目に先生がご誕生されたわけです。その際お母様は先生を四男ではなく長男としてお育てになられたわけですが、そこには底知れない想いがおありだったのではないでしょうか。それはお母様から先生へ向けられる想いもおありだったと思いますが、同時に先生からお母様へ向けられた想いも尋常なものではなかったのではないでしょうか。故に先生はそのあとに、母はわたしの師匠であり、文学の母である。と記されています。これから(あくまで個人的な視点ですが)読み取るに、先生はお母様のことを肉親という感覚以前に、一人の人間として心から尊敬されていたのではないでしょうか。ここの部分を読んだ時には嘘偽りなく本当に感極まり私自身図書館にいることも忘れて一人涙ぐんでしまいました。次に、先生がわたしはマスコミとかジャーナリズムに対して何か胡散臭いものを生理的に感じるとおっしゃられていた件について、これは「サンデー毎日」の編集長であり、且つ映画評論家としてもご活躍されているという二つにお顔を持ち合わせていらっしゃる岡本博先生が当時やられていたジャーナリズム論という授業のお話をされていた際に放たれた言葉ですが、正直私は清水先生がお持ちになる意見の方に同調致します。私もどこかそういったマスコミやジャーナリズムといった方面の方々の動きや言動には、もともと苦手意識を持っていました。次の項目として日大病院に入院、とありそのすぐ後に二○十五年六月より体調が思わしくなくなった。とありますがここでは少し驚きを覚えました。先生が体調があまりよろしくなく、ましてや今の医療技術では治療し完治させることができないご病気になられていることは、まだ私が雑誌研究という授業を受講したての頃より先生自らの口からお聞きしておりましたが、まさかご病気になられたのがそんなに前からの出来事であったのかと。症状をお聞きする限り、自分はそんな長期間随時体中を刺すような痛みと向き合い続けるなんて想像しただけでも恐ろしいですし耐え難いことこの上ないと思います。これに関しましては、先生の体調のご回復を心よりお祈りしております。次に先生ご自身が最初に読まれた松原寛の著作は「現代人の芸術」であるということですが、後に抜粋して書き記されているいくらかの文章の内容をみて、知識の浅い自分でもこの方の素晴らしさというものを感じ得ることが出来た気がします。その中でも、苦悩苦悶は自分の探求、自己の凝視によって、掘り当てた金塊である。という言葉には本当に感銘を受けました。まさにその通りであるなと、この一言に尽きます。自分の中で分かったつもりでいたとしても、改めて外から、字で書かれたその言葉を目で見て再認識することで、それはもっと深いものになり心に刻まれる。この大切さを今回の課題を通じて改めて感じました。また松原寛の著書から感銘を受けた言葉はこれだけに限らず、他にも、自分をば道徳と、官能との争いの真っただ中に置いた独歩はまことや本当の芸術家ではなかったでしょうか。という言葉や、芸術は真面目に生きんとする努力、深刻に生きんとする苦悶、其処にのみその本質がある。など本当数えていてはキリがありません。この一つ一つに関しても最初に述べたように感想を述べていきたいのですが、そうしてしまうとそれだけで指定された字数を超えてしまいそうなので、この件に関しましてはここまでにしておきます。次に先生が夏目漱石を読まれた際の感想として、始めから終わりまで人工的な、つくられた苦しみとしか思えなかった。と、またドストエフスキーの門を前にして行き倒れている漱石の姿であったと、ということで松原寛の漱石観には素直に共感できる。と書かれていた部分について、私はドラマなどでは若干見たことはありますが実物の本を読むというカタチでドストエフスキーと接したことがないので、あくまでこれに関しましては私からは平等な意見は言うことができないのですが、正直夏目漱石の作品に対して先生が抱かれているご意見には全く共感できませんでした。まあこれに関してはあくまで個人の価値観ですし、ドストエフスキーを尊重なさる先生と夏目漱石を尊重する私というただそれだけの話です。要するに交わることは絶対にない。これは松原寛に対しても同じです。次に松原寛の批評で痛快なのは、釈迦やキリスト(耶蘇)までが、まるで自分の友人であるかのように扱われていることだ。という部分について、これは後々の文を読んでから理解したことですが、要するに松原寛はそういった神仏を信仰し拝むのではなく卑下しその位置から引きずり下ろした上で接しているというわけではなく、人一倍仏やキリストに対して敬意を払い信仰しているからこそ、その者らに真摯に向き合おうとした結果がそうしたカタチに現れているという話なわけです。また後に記されている彼の育った環境も面白くて、家庭内での事情が原因で資本家に対する意地と反抗心を早くも十五六年の内に悟ったり、田舎者扱いをされ、それを悔しく思った当時の寛平少年は、英語を猛勉強し結果彼にとって英語というものは田舎者扱いして嘲笑侮辱した連中の鼻をあかしたばかりでなく、自分の存在を誇示できる有力な武器になったと、つまり今回のを例に挙げていえば、苦手だった英語を馬鹿にされ味わった屈辱感をバネに、自分の中でも他人に対してもそれを絶対的な武器にまで磨き上げてしまう力。これは本文中にもあるように負けん気が強いともいえますが、努力の人とも間違いなくいえるのではないでしょうか。何はともあれ今回この日芸ライブラリーNO.3を読んでみて、清水先生のあらゆる秘話や体験された数々の苦難や出来事を知ることができたと同時に、日本大学芸術学部創設者、松原寛という人について、少しではありますが自分なりに理解を深めることができたのではないか、というのが最終的な感想です。いままでそんなに意識したことはありませんでしたが、自分が入った学校のことについて、自分の専攻する分野にのみ特化するのではなく、その大学に携わり繁栄させてきた人々の歴史を知るということは、その言葉以上に大切なことなのかもしれないとも思いました。