清水正の『浮雲』放浪記(連載73)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載73)
平成△年8月30日
 林芙美子らしいのは、ここでも食事に関して〈牛肉〉〈葱〉〈パン〉〈砂糖〉などすき焼きの食材を一つ残らず書き記していることである。林芙美子の最後の作品が未完に終わった『めし』であったことに注意したい。日本人において〈めし〉は生の基本である。この点については『浮雲』論の最終場面において徹底的に検証しようと思っている。林芙美子が食事の支度の場面を描くと食材の香りが漂ってくる。が、ここではすき焼きの場面、春子と二人きりの会話で南方に派遣されていた頃の思い出話に花を咲かせることはなかった。サイゴンに派遣された春子の生活がどんなものであったのか、ゆき子と富岡の性愛関係以上の華やかな男性関係もあったと思われるが、作者は完全に無視した。春子の恋愛関係まで追っていったのでは収拾がつかなくなるとでも思ったのであろうか。

  伊庭は宗教について、春子と話しあっていた。伊庭の口から、宗教の話なぞ聞くとは思わなかったので、ゆき子は妙な気がした。人間はすべて躓きの可能性があると言うのである。人間は生れるときから、下を見て歩く動物にできていて、いつも、躓きかげんの軽重について研究している動物だと伊庭は説明した。伊庭の金まわりのよさは、このごろ新しくおこった大日向教とかの会計事務に勤めを持つようになったためである。(309〈三十七〉)

春子の持参した牛肉百匁からすき焼きの話しになり、その方向へ進むかに見せて、とつぜん訪問した伊庭の宗教話へと展開して行く。『悪霊』の人物に当てはめると伊庭杉夫はピョートル・ヴェルホヴェーンスキーに近い存在である。ピョートルはニコライ・スタヴローギンの猿を徹底して演じきった、表向きは革命運動の首魁として振る舞っているが、実は社会主義や革命など屁とも思っていない二重スパイの、シャートフに言わせれば〈下司野郎〉である。『悪霊』で虚無のただ中に佇んでいたのはニコライ・スタヴローギンとふつう言われるが、ピョートルはニコライの虚無を呑み込んでしまうほどの虚無を生きていた。ピョートルはニコライを革命後の〈イヴァン皇子〉に仕立て上げ、自分はその黒幕として実権を握ろうとしていた。ただ、ピョートルは単なる権力亡者ではなく、権力を材料に戯れる虚無のなかに佇んでいたということである。伊庭は大日向教の教祖を別に立てて、自分は会計担当として教団内の実質的な権力者に収まっている。伊庭は宗教を金儲けの手段としか考えていない。彼の精神構造を饒舌に語れば、イヴァン・カラマーゾフが創作した劇詩に登場する大審問官となる。自らは信じていない〈神〉を民衆の魂の救いのために提供する、まさに大審問官の思想は伊庭のそれに重なることになる。
 伊庭は「人間は生れるときから、下を見て歩く動物にできていて、いつもを躓きかげんの軽重について研究している動物だ」と言う。この人間認識は、ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフやピョートル・ヴェルホヴェーンスキーの「すべての人間は卑劣漢だ」という人間認識に通ずる普遍性を備えている。富岡兼吾などは邦子を友人の小泉から強奪した時も、安南人の女中ニウと関係した時も、そしてゆき子と関係を持った時も、いつもそのたびに〈躓きかげんの軽重〉について思いをめぐらしていたに違いない。ゆき子もまた伊庭、富岡、加野、ジョオと関係するにあたって、富岡と同様、〈躓きかげんの軽重〉を計っていたであろう。伊庭の言うことは、自分が生きてある姿を素直に見ることのできる者ならすぐに納得がいくだろう。

 「躓く人間はき掃いて捨てるほどありますからね。まず、躓いて、初めて天を眺め、神を祈る。私たちのやっている大日向教というのは、まだ日も浅いのだが、こうした人間の躓きの足もとを照してやる強大な日光の神さまなのだから、聞き伝えて、大変なお参りなンですがね。いまに、熱海の観音教どころの勢力以上になると思うね……」
 「あら、じゃア、私みたいに、躓きっぱなしと言う人間は、いったいどうなりますの?」
 「そりゃア、神さまが起して歩くようにしてくれますよ。ロマ書の第十四章、二十三節にもあるとおり、すべて信仰によらぬことは罪なりと語られているとおり、基督教だってこんな判りきったことを言っているのですから、まして、日本の国の大日向教が、罪多い人間の魂に喰い入ってゆかないはずはないね。いま、田園調布に本殿を造る敷地を求めているンですがね……」
 「爾光尊みたいな宗教なの?」
 「いや、あのようなものじゃないね。名士の他力は必要じゃないンだ。ただ、私たちは、大日向の神さまおひとりをお守りする、平凡階級の守り人だけで、隆盛にやってみるつもりですよ。名士を入れると、途中で目立って、仕事がうまく運ばないおそれがあるンでね。かえって、そうした宣伝は邪魔っけになるンだ」
 「でも、神さまって、本当にあるものかしら……」
 「ありますとも、あるから、人間は、神を信じるまでの迷いが多いンだね。第一、君、この神秘な人間の五体を見てみるといいンだ。いくら科学が発達したところで、君、この人間が造れるものじゃないからね。神はある。たしかにある……」(309〜310〈三十七〉)

 大日向教の教義がどういうものか、それを正確に知ることはできないし、作者もそれを明確にする必要を感じていない。伊庭の説明でわかることは、平凡階級の守り人だけで「大日向の神さまおひとりをお守りする」ということであるから、〈大日向の神さま〉は人格化された唯一神ということになる。この〈神さま〉を信ずること自体に何の問題もないが、要するに〈神さま〉で金儲けするためには信者から金品のお布施を頂戴しなければならない。お布施をなるべく多く提供させるためには、心身の悩める者に救いとなる手だてを施さなければならない。そこで要求されるのは口八丁手八丁の説教であり、教祖に従順な〈守り人〉たちの充実である。
 敗戦後、戦前に支配的であった価値は根底から転覆させられた。生き延びたひとたちは、〈神さま〉にでも頼るしかない精神的に荒廃した状況にあった。敗戦後、新興宗教は雨後の竹の子のように創設された。林芙美子が考えた〈大日向教〉は言わば太陽崇拝の原始宗教の流れに連なっており、まったくのインチキ宗教とは断言できなんい側面を持っている。問題は、伊庭が〈大日向教〉を人間の魂を救済するためではなく、あくまでも人間の弱みにつけ込んでひたすら金儲けの手段として考えていたことにある。
 春子は、はたして神は本当に存在するのか、と問うているが、この問いはたとえばドストエフスキーの人神論者たちが神の存在を問うのとはまったく次元を異にしている。ドストエフスキーの人物たちは、創造神としての神が、なぜこの地上世界に正義・公平・真理を実現しないのかということに最大の疑問を感じている。イヴァン・カラマーゾフは神の存在は認めても、神が創造した世界(不条理に満ちあふれた世界)を認めない。伊庭は人間の五体の神秘をたとえに神が存在すると断言する。