井出彰著『地上の人々』(パロル舎)を読む

清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。
ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
清水正の新刊案内林芙美子屋久島』 (D文学研究会・星雲社発売)は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
A五判並製160頁・定価1500円+税


先日、パロル舎から井出彰著『地上の人々』が送られてきた。昨日「Ⅰ 酒と一緒に運命も飲んじゃった」を読んで面白かったので、今日は大学へ行く電車の中と、江古田駅近くの珈琲館でアイスコーヒーを飲みながら一気に読み終えた。
パロル舎から送られてきた広告文には「大都会の歪みのはざまで、様ざまな人生を歩み、けっして通い合うことのない仲間たちの中で『カラマーゾフの兄弟』のような友情と信頼を築き、自由に生きる三人のホームレスの真実の物語」とある。わたしはこの作品の人物たちの交流に『カラマーゾフの兄弟』的なものは何も感じなかったし、『罪と罰』の酔漢マルメラードフに共通するものも感じなかった。わたしはかつて井出さんの小説「精進ケ池へ」(「江古田文学」52号2003年2月)を読んで、すぐに「つげ義春のマンガと井出彰の小説『精進ケ池へ』」(「D文学通信」1046号2003年4月1日)を書いた。この批評は『つげ義春を読め』(2003年8月 鳥影社)に収録した。
今度『地上の人々』を読んだ時にもドストエフスキーの作品は思い浮かばなかったが、つげ義春的な雰囲気を強く感じた。つげさんが井出さんの小説を原作にしてマンガ化したらいいのにな、と思ったくらいである。ドストエフスキーの人物たちは饒舌で話がくどいが、井出さんの人物たちは寡黙である。言葉は極力抑えられたところで、人間の生きてある姿が浮き彫りにされる。言葉は削ぎに削がれて、人物は水墨画のように描かれる。この作品に流れている時間もゆったりとしていて、現実のあわただしい時間を忘れさせる。
行くところまで行ってしまった人間の静かなつぶやきのような言葉が胸にしみる。
たとえば

「みんな、何もすることなく、ただ死ぬまで時間を何となく過ごしているだけのようにみえる」

「昔は花を撮るのが好きだったけど、今は花は眩しすぎて撮れない。」

「白い壁に黒い汚れがあるんだ。じっと見つめていると、こっちが思いついたものの形になるんだ」

「何だか叫びたくなった。何て叫んだらいいのだろう、考えていたら、ワンワン、ワーン。思わず、犬の吠え声が口をついて出た。」

井出さんの小説を読んでいると、人間が抱え込んでいる孤独な思いが直に伝わってくる。表現された言葉の姿は小さくても、その一点の抱え込んでいる背景は広大で深い闇が潜んでいる。ドストエフスキーはその広大な闇を徹底して暴き、読者の眼前に晒すやり方だが、井出さんは違う。井出さんは読者を信頼しているから、余計な説明などいっさいしない。分かるものには分かるし、分からないものには分からないのだ。生きてあることのせつなさ悲しさのままに生き、そして死んでいく。井出さんの描く人間は、生きて〈ある〉という、その〈ある〉においてすべてのもの、動物も虫も同等のものとして描かれている。ドストエフスキーは神の存在を問うが、井出さんは神のことなど問わない。井出さんの小説家としてのまなざしは生きて〈ある〉ことの諸相を、ともに生きてあろうとする限りない優しさにあふれている。この小説家は、人知れず、犬の吠え声のようにワンワン、ワーンとないたことがあるのだろう。人生を理屈で語るのではなく、光景として見ること、井出さんは「地上の人々」を優しいまなざしで見つめている。このまなざしを支えている何かについては、今はふれない。
読み終えて、珈琲館を出ると江古田の町はうだるような熱さに包まれていた。